第二話 私の未来を(上)
あんなことがあっても、変わらぬ日常を送っている。昨日も今日も、普通に仕事を終えた。馬鹿みたいだけれど、自分でも少し褒めてあげたい気もしている。
「お疲れ様でした」
早々にバッグを持って、職場を離れた。今日は新しいコーヒー豆を買って帰る。たまには一緒に、甘い物でも買ってみようか。そんな風に自分を甘やかしたくなる日があってもいいだろう。そう決めれば、行き先を少し変更する。いつもの喫茶店ではなく、少し遠回りをして、違う店にしようと頭の中で計算した。
緋菜ちゃんからは、まだ何も連絡はない。昌平くんや成瀬くんにも、連絡をしていないのだろうか。揉めた私に連絡がないのは仕方ないが、彼らには愚痴ぐらい零していて欲しいと思っている。それも直ぐには難しいのだろうか。彼女は今、色んな葛藤を抱えただろう。別れた彼の言葉を、私はなぞってしまったのだ。もう連絡は来ないかも知れない。それでも、緋菜ちゃんが少しでも変わるきっかけになれば良い。そう思っていた。
「肩凝ったな……」
今日はデスクに座っていた時間が長かったせいか、肩を回せば、バキバキと音を立てた。久しぶりに、マッサージに行っても良いか。今年で三十六歳。回復に時間がかかり始めた気もしている。
「あれ、小川くん。どうしたの肩グルグル回して」
「せっ……小山田先生」
小川くん、と呼ぶのはこの人くらいである。よそ行きの柔和な笑みを浮かべ、後方からそっと隣に並んだ。
「お疲れ様です。ちょっと肩凝ったなぁって、運動不足ですかね。せ、先生は、今お帰りですか」
「あぁ。今日はゼミの子が新年会をやるって言うからね。少し顔を出そうと思って」
「へぇ。あ、そうなんだ、ですか。お疲れ様です」
構内で偶然会っても、私たちは会話をしない。用事を頼まれ話をするのは、大概が研究室である。だからこういうことがあると、つい出てしまういつもの言い方。それを私はこうして、いつもあやふやに誤魔化し、苦しい訂正をしていた。こんな初歩的なミスは、征嗣さんは絶対に犯さない。
「君たちの時も、よく飲み会に付き合わされたなぁ」
「付き合わされたって。ただその場で、本読んでいただけじゃないですか」
「参加してるんだから、いいだろう」
そう、彼はこういう人。誘われたから参加はするが、一緒に楽しく飲むようなことはなかった。難しい本を読みながら、酒を飲み、誰かを捕まえ議論を交わす。面倒臭い奴だった。今はどうしているのか知らないが、同じでなければいいなと思う。
「そうだ、先生。昨日ご相談させていただいた件、ご確認いただけましたか」
「相談……あぁすまん。返してなかったね」
昨日相談をした件。それは、成瀬くんの件である。『お正月に連絡があって、成瀬さんから誘われたのだけれど、どうしよう』ただそれだけを送った。既読になったメッセージは、未だ返信はない。このまま返事は来ない可能性も、捨てきれないのだ。彼と別れる作戦を続けるには、この誘いを受けなければいけない。だから、私はこの偶然を味方にして、わざと問うたのである。征嗣さんは、そうだなぁ、と考える様子を見せた。
「良いんじゃないかな」
「え?あっ、と……行ってみたら、と言うことでしょうか」
「そうだね。小川くんの勉強にもなるんじゃないかな」
「勉強、ですか」
成瀬くんが私を誘って来た背景に、征嗣さんが居たとしても、彼は面白くないのかと思っていた。だから直ぐに返事を寄越さないのだ、と納得出来ていたが。面と向かって問えば、こうしてあっさりと背を押される。嫌な顔でもするかと思えば、外向きの顔のまま穏やかに言うのだ。それは征嗣さんの本心なのか、人前だからなのか。後者の可能性が強いけれど、私はゴーサインを得た訳だ。
「じゃあ、返事してみます。お正月明ける前にお誘いいただいて、ずっとお待たせしてしまったんですよね。こういうのって電話の方が良いですか」
「あぁ、そうだなぁ。その方が良いかも知れないね。じゃあ、僕はこれで」
「はい。今から電話してみます。有難うございました。では」
私たちは他人行儀にお辞儀をして、校門で左右に別れた。緋菜ちゃんの心配で埋まっていた頭は、もう征嗣さんとのことで一杯だった。粒々と苛立つ気を抑え、直ぐに成瀬くんへ電話を鳴らす。メッセージでやり取りするのは危険だ。会話の記録は残さない方が良い。征嗣さんに電話で、と許可を取るように言ったのは、そういう背景である。
「はい、成瀬です。お疲れ様。どうしたの?」
「お疲れ様です。小川です。成瀬さん、今お時間宜しいですか」
「はっ、はい。少々お待ちいただけますか」
私の口調に、全て察したようだった。成瀬さんと呼ぶこの誘いに、彼は緊張を見せながら返事をする。形を残す為、私たちは今から初々しいやり取りを始める。演技だと思えば、笑ってしまうけれど。
「はい。すみません。えぇと」
「先日お誘いいただいた件、返事が遅くなってしまって申し訳ありません。急なんですが、今週末なら時間が取れそうなんですが、成瀬さんはお忙しいでしょうか」
「本当?あっ、えぇと。だ、大丈夫です」
いつもの成瀬くんが漏れ始めると、ちょっと可笑しくて笑いそうになってしまう。でも、征嗣さんがどこで見ているか分からない。だから何とか堪えて、本当に急ですみません、とペコペコ頭を下げた。私は今、彼に釣られるわけにはいかない。
「小川さんは好き嫌いとか、何かありますか」
「特にはないですね」
「分かりました。それでは、土曜の昼なんてどうですか。美味しいランチでも食べましょう。お店探しておきますから」
「わぁ、有難うございます。お願いしても良いですか」
ワクワクしている様子を、何とか絞り出す。征嗣さんは見ていないかも知れないが、念には念を、である。
「大丈夫ですよ。詳しい連絡は、また追ってしますね」
「あぁ、いえ。土曜日の十一時に……東京駅でどうでしょうか。お住いの場所から遠いですか」
「え?あっ、なるほど。分かりました。では、土曜日の十一時に東京駅。えぇと、銀の鈴の辺りで待ち合せましょう」
「分かりました。では、土曜日に。宜しくお願いします」
「はい。こちらこそ。では、また」
形式的に話を済ませ、サクッと電話を切った。言いたいことは私だってあったけれど、今日は仕方がないのだ。一仕事終えて、ふぅ、と白い仄かな息を吐く。手を温めるように口元に運ぶと、ちょっとだけ頬を緩ませた。少しだけ足取りが軽い。
散歩のように歩き続けて、気になっていた喫茶店に辿り着く。古い店であるのはいつもの所と同じ。こういう店が、好きなのだ。
「豆をお願いしたいんですが」
「はい。お勧めは、こちらのブレンドとなっております。苦みを抑え、甘みと香りの強めの商品です」
「では、それを一袋。それから、ティラミスを一つ……いや、二つください」
「かしこまりました。少々お待ちくださいね」
店主は少しだけ口角を持ち上げて、丁寧に頭を下げた。こういう古い店は、彼のような人柄が支えているのだろう。初めて来た店で、味も何も知らない。癖を知るには、店主お勧めのブレンドを頼む。それに限る。控えめのジャズ。タイル張りの床。壁のシミ。コーヒーの良い香りを鼻一杯に吸い込むだけで、もう心は躍る。こういう店は、母と来ていたからか。新しいお洒落なカフェよりも、ホッとするところがあるのだ。
「お待たせしました。こちらが豆、それからケーキ二つですね」
「はい」
店主に差し出されたそれを確認し、清算をする。こんな店も最近は電子決済を取り入れていて、スムーズにいくのは有難い。カラカラ、とドアベルを鳴らして外に出る。バッグとケーキの箱を大事に抱えながら、駅へと急いだ。マスカルポーネが濃厚な物なら良いなぁ。フォークをスッと入れた感覚を想像しながら、私はちょっと微笑む。
二つのケーキ。一つは頑張った私を甘やかすため。もう一つは、きっと来る征嗣さんのために。
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