第一話 私が崩れる音(上)
「あぁ、もう苛々する」
今日も朝から、同じことをブツブツと繰り返していた。
陽さんと喧嘩をしたのは一昨日のこと。昌平から事実を伝えられ、陽さんからも成瀬くんからもメッセージが着た。言い過ぎてしまった、ごめんね。要約すれば、大体がそんなところ。けれど私は、そのどれもに返信することが出来なかった。
「緋菜ちゃん、大丈夫?何かあったの?」
「あぁ、いや。何もないんですけどね。ちょっとイライラしちゃって」
「そっかぁ。じゃあ、お姉さんがチョコレートあげよう」
後から休憩にやって来た先輩が、心配そうに私を見る。それは有難いことだったが、事細かに愚痴を零す気にもなれなかった。差し出されたチョコレートには素直に手を伸ばし、直ぐに剥いて頬張る。甘い香りがフワッと鼻に抜けて行くが、心がそれに満たされることはなかった。
本当は、喧嘩をするつもりなんてなかった。彼女の部屋にあった疑わしい物の数々。それを並べて、陽さんの見解を冷静に聞きたかった。だって私にとっては、成瀬くんだけじゃなくて、陽さんも大事な友達だと思っていたからだ。終いには成瀬くんにも罵られ、昌平にまで叱られた。結局、皆謝って来たが、私は何も変わらない感情を抱えている。苛立ちばかりが腹の中で溢れているのだ。こうなったのも全て、陽さんのせい。
私が仕事で叱られたことに、彼女は寄り添ってくれなかった。友達ならば、酷いねって、一緒に愚痴を吐き出す物じゃない?私なら、そうしたと思う。あぁ陽さんは私と同じようには思っていないのだな。そう思ってしまったから、余計に苛立って、彼女を問い詰める形になった。私だって、陽さんのことを信じたかったのに。裏切られた。それで傷付いたのは、私。それなのに、昌平も成瀬くんも陽さん側に立った。より増して面白くなくなったのだ。
「あ、そうだ。さっき来たわよ」
「誰がです?」
「ほら、新人さん。高校の制服着て、可愛らしいの。こうしてみると、緋菜ちゃんは大分お姉さんねぇ」
「はぁ……」
制服かぁ。懐かしさを覚えた。高卒で入って来るのならば、私と十歳は差があるのだろう。お姉さん、と呼ばれる差はあるのだ。でも、そんなに身構える程ではないだろうと思った。
「指導係に就くんでしょ。頑張れ」
「あ……そうだった」
「やだ、忘れてたの?初めは色々質問もあるだろうから、優しくね」
「分かってますよぉ」
そう答えてみたものの、腹の中のイライラがある限り、優しく出来そうにない。けれど、店長に叱られたばかりだ。引き攣ってでも、何とか笑顔で迎えよう。そう心に決めた。
「じゃあ、午後も頑張ります。チョコレート有難うございました」
「はいはい。深呼吸してから売り場にね」
「はぁい」
つまりは、苛立っている顔が表に出ていた、と言うことか。結構気を付けたのになぁ。反省をしながらも、まだ苛立ちが薄れない。まぁ仕方ない。午後はもうちょっと気を付けよう。微かに鼻歌を歌って、心を浄化させる。別にこれくらいで落ち着く話ではないけれど、気を紛らわせるのは大事だ。
「三山さん。休憩終わりかな」
「あ、はい」
部屋を出て直ぐに、事務室から顔を出した店長に呼び止められる。噂の高校生を紹介されるのだろう、と察し、口元を和らげた。頬が少し引き攣ったけれど、怒った顔をしているよりは大分マシだ。
「ちょっと、いいかな。先日話をした件なんだけれど」
「はい」
事務室に招き入れられると、ブレザーの上着に膝上スカートを穿く女の子が私を見ていた。私と似た黒い艶髪でニコッと微笑むと、小さくお辞儀をする。確かに若い女の子だった。
「アラカワさん。こちらが指導係に就きます三山です」
「三山緋菜、と申します。宜しくお願いします」
「初めまして。
深々と頭を下げてから、彼女は私と目を合わせるとまたニコッと微笑んだ。まだ汚れを知らないと言うか、純粋そうな瞳。希望を見るようなそれが、私をじっと見つめた。
「す、凄いお綺麗な方でビックリしました」
「えっと……有難うございます」
「三山さん。あの、色々ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、宜しくお願いします。自分で言うのもアレなんですけど、ちょっと……おっちょこちょいでして」
「分かりました。大丈夫ですよ」
店長はニコニコと私たちのやり取りを見ていた。チラッと目が合えば、小さく頷く。それで良い、と言うことだろう。
「荒川さん。彼女もあなたと同じように、高卒で入った先輩なんですよ。何でも聞くと良いと思います」
「ご期待に沿えるか、分かりませんが」
余計なことを言うな、と思いながら苦笑いした。仕事のことは教えられるが、それ以外を聞かれても困る。プライベートまで仲良くする気はないのだ。
「今日は、商品の説明とか裏方教えてあげて。店頭は正式に来るようになってからで良いから。宜しくお願いしますね」
「分かりました。倉庫回ったりして来ます」
頼んだよ、と言い残し、店長は去って行く。最後に少し泳いだ目は、心配だということか。このくらい、私にだって出来るのだ。馬鹿にしないで欲しい。
「えぇと、荒川さん。じゃあ、とりあえず倉庫に行こうか」
「はい。荷物は、ここに置いておいても良いですか」
「あぁそうか。まだロッカーないのかな。じゃあ、私の机のところに置いておこうか。大きい引き出しなら、鍵もかかるから」
「有難うございます」
彼女は素直に、言われた引き出しに鞄をしまった。そこからメモ帳とペンだけを出し、また「宜しくお願いします」と頭を下げる。何だか社会科見学の対応をしているような気分だ。
「三学期は出席自由なの?」
「一応、月末に試験があって。来月からは自由登校になる予定です」
「へぇ。そうだったっけ……忘れたなぁ」
自分のその時代を思い出そうとしても、この程度である。受験を控えた人たちの邪魔をしないこと。それが就職組に課せられた過ごし方だ。恐らくそれは、今も変わらないのだと思う。
「三山さん、さっきはすみませんでした」
「さっき?何かあったっけ?」
「いや……つい綺麗な方って見惚れてしまったので」
「あぁ、いや。それは別に」
真っ直ぐにそう言われても、どう返せば良いのか。有難う、と良く分からない礼をまた返した。
「私も三山さんみたいな、綺麗なお姉さんになりたいです」
「そ、そうですか……」
「はい」
あまりに裏表のない返答に、戸惑う。外した視線が捕らえたのは、ストッキングなど纏っていない、スカートから伸びる足。若さの象徴のように輝いていた。私だって、まだ出来る。そんな風に現れた対抗意識に、何だかモヤモヤしていた。
彼女と同じような頃、私は年上の女にどう思っていたか。フッと気付いてしまったのだ。肌のハリ違いますよね?無理しなくても良いですよ。若さに勝てないでしょ。小憎たらしい感情が、十年ぶりに私の中に戻って来た。でも思っていた頃とは違う。その思いは今、私はそう言われる側なのだ、と気付かせるようだった。
皺もシミもない、ツルッとした肌。純粋に相手を知ろうとする気持ち。次々と目に入る彼女の若さ。いつの間にか心の中は、苛立ちではない感情が溢れている。私は大人になったのだから、違う価値観を覚えたんだ。そう言い聞かせるが、動悸が止まらない。
そして、高校生だった私が笑うのだ。二十七歳っておばさんですよね、と。過去の自分が殴り掛かって来た衝撃に、私は打ちのめされそうになっていた。
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