第四話 私の苛立ち(下)

「ほらね。直ぐに言い返せないんでしょう。疚しいからよね」

「いや、ちょ、ちょっと待って。何を言っているの?」

「この期に及んでしらばっくれるんだ」


 完全に臨戦態勢に入った緋菜ちゃんを、私は確かに青褪めながら見ている。彼氏がいる。そう言われて思い付くのなど、征嗣さん以外に居ない。

 けれど、私たちは絶対に外では会わない。学内で会うことはあれど、彼の部屋で話すくらいだ。緋菜ちゃんが確認出来るのは、征嗣さんが私の家へ出入りする時だけ。それに私のマンションは、外からそれは確認出来ない。確か私が皆に住所を知らせたのは、大晦日の前夜。彼女が私の家を知ってから、征嗣さんが来た日は三日だけだ。あの時は、彼女は仕事中だった時間である。つまり、その証拠は持っていない。


「家は一人暮らしの感じだったから、結婚はしてない。彼氏なんでしょ。だから、マグカップもあんなにあるんでしょ」

「え、え?マグカップ?」

「そう。私ね、気付いたの。私の部屋にはマグカップは二つしかない。だって私しか飲まないもの。そんなに必要ないじゃない」


 得意気に披露される下手な推理に、開いた口が塞がらなかった。マグカップが沢山あったから彼氏がいるって、ただの言い掛かりだ。私が彼女に反論を言ったから、気に入らないのか。それとも喧嘩がしたいのか。どっちだろう。


「えっと……言ってる意味が分からないんだけど。マグカップって、一人二個までしか持っちゃいけないんだっけ?」

「家に来るような彼氏が居るから、沢山あるんでしょ。それなのに、成瀬くんにも良い顔して何なの。もう、成瀬くんから手を引いてよ」

「成瀬くんから手を引いてって、どういうこと?緋菜ちゃんには関係ないじゃない」

「関係あるわよ。私の友達だもん」


 私は、根本から間違えていたことに気付く。私を陥れたいとかと言うよりは単純に、成瀬くんが自分を選ばなかったことが面白くないのだ。彼らに囲まれて楽しかったところに、私と言う因子が現れた。三人の幸せな時間が壊れた、とでも思っているのだろう。別に彼らは、緋菜ちゃんをチヤホヤする取り巻きではない。


「……はぁ。もういい加減にして。緋菜ちゃん、あなたこそ何様のつもりなの。男性が全て、自分を向いていないと気が済まないの?」


 あからさまに大きく吐いて見せた苛立ちに、緋菜ちゃんは眉をピリピリさせている。本当に、私が怒らないとでも思っていたのか。私は、聖人ではないのだ。


「あのね、緋菜ちゃん。マグカップは、もっとあるの。仕舞い込んである物もあるからね。そんなに沢山あるのは、コーヒー豆によって変えるからよ。縁の厚みとか口の大きさとかで、味や風味が違うの。そういう愉しみ方もあるのよ」


 沸騰しそうな苛立ちを堪えて、穏やかに話し掛けた。テーブルの下でこぶしを握りながら、耐えている。緋菜ちゃんの背後の席から、昌平くんが顔を見せた。シィッと人差し指を立てたから、そのまま気付かない振りをしている。


「お箸だって沢山あった。靴ベラもあった」

「うん。お箸は、皆が来るから五膳組の物を買いました。それから靴ベラはね、母の持ち物よ」


 緋菜ちゃんの疑問を一つずつ潰す。こうしないことには、この子はきっと信じないから。あぁお友達だと思っていたけれど、信用されてなかったという事実が、少しずつ胸を抉る。


「それに……写真立てだって」

「写真立て?」


 沸々と怒りのような物を孕んだ彼女の目は、私に彼氏がいると決め付け、認めさせようとしている。恐らく、そういう小さな気付きの点を繋いで、彼氏がいる、という考えに至ったのだろう。それを成瀬くんに伝えた、か。だから彼は、『教授のこと、気を付けて』と送って来たんだな。昌平くんの目を盗んで打つには、それくらいしか出来なかったのだろうから。


「写真立ても沢山あった。それが全部倒れてた。あれは、慌てて私たちに見せないように倒したんでしょ」

「写真立てね。あるわよ。お掃除の後に、並べ直すのを忘れたの。だから、倒れてただけ。写真は全部、母よ」

「有り得ない。母親の写真を沢山飾る人なんて、いないでしょ。見え透いた嘘吐いたって、すぐにバレるんだからね」


 苛立ちを少しでも逃がしたくて、また大きく溜息を吐いた。彼女の後ろの席では、立ち上がりそうになる成瀬くんを、昌平くんが必死に止めている。


「世の中にはね、母親の写真を沢山飾る人もいるの。緋菜ちゃんが、知らないだけ。自分の思い込みで決め付けるのは良くないよ」


 穏やかに言うことを心掛ける。そうでないと、今にも成瀬くんが飛び掛かって来そうだから。私も、喧嘩がしたい訳ではないのだ。


「今度は説教。隠したかったのがバレたから?もういい加減、認めたら?」

「あのねぇ……そんなに疑うなら、今から見に来る?構わないわよ」


 緋菜ちゃんはまた、ギュッと強く口を結んだ。思い描いていたように、いかなかったのだろう。ギャフンと言わせて、勝ち誇りたかったのかな。それも、何だか寂しい。


「緋菜ちゃん。私と初めて会った時に、彼が言ったこと覚えてる?」

「元カレ、ね。覚えてるわよ。中身を磨け、でしょ。本当にアイツも、何様のつもりなんだろう。偉そうに」

「あのね。緋菜ちゃんに足りないのは、その言葉に尽きると思うの。隣に座っていただけの私でも、彼の言いたいことは直ぐに納得出来た。あぁなるほどなって。あの時も端々から、誰かを見下してるのが分かったもの。別れようって、先に言ったのはあなた。でも、嫌だって言って欲しかったのよね。言って貰えなかったから、面白くなかったんでしょ」


 きっとこんなことは、誰も言わなかったのだろう。そう思っていた人もいたろうが、触らぬ神に祟りなし。付かず離れずで、深い関係にはならなかった。そうして気付かぬうちに、孤高の人のように扱われた。そう言う意味では、彼女もある意味被害者である。


「他人の話に聞き耳立ててんの?趣味悪っ」

「嫌でも聞こえて来たんだもの。仕方ないじゃない。でもね、若さと外見だけに、自分の良さを見出しているのって危険だと思うの。急に周りの態度が変わったと感じる日が、絶対に来る。もしも感じられないとしたら、それはあなたが見て見ぬ振りをしてるだけ。今日仕事で叱られたのも、そう言うことじゃないかな」


 彼女と出会ってからずっと、私が言いたかったことだ。若さと外見だけでは、心から誰も選ばないだろう。今のうちに、知っていて欲しい。十年後、いやニ、三年後にそれに気付いて愕然とする前に。

 けれど彼女は、ただただ面白くなさそうだった。


「緋菜ちゃん、若さは何時までも切り札にはならない。それはきっと、直ぐに分かるわ。でも、それを現実で思い知らされてからでは、きっと遅いの。彼もそれを言っていたんだと思う」

「……どうして、それを今言うの?あの日に教えてくれれば良かったでしょ」

「そうね。あの時に解っていたんだものね。でもね、緋菜ちゃん。あなた、それで素直に聞き入れた?私のことなんて知らないくせに、って思わなかった?」


 私を追及するつもりだったのか。今自分が責められる立場になっているのが、余程悔しいのだろう。徐々に、睨む目が薄っすらと涙を溜めている。


「悔しいかも知れないけれど。あの時に彼が言ってくれたのって、優しさだと思うんだ」

「どこが?どこが優しいのよ。あんな公衆の面前で、誕生日の私をフッて。最低な男じゃない。陽さんも、同じよ」


 伝わらない。プライドが高過ぎて、失敗を受け入れられないのか。悔しいことだけは見えている。キリキリと歯ぎしりをするように、下顎が動いた。


「そんな顔しないで。美人さんが台無しよ」

「はぁ……何なの。私はそう言われたくない。美人だって何?好きで、この顔で生まれたんじゃない。謙遜したって、素直に受け入れたって、どのみち嫌味だって捉えるんでしょ。私はどうしたら良いのよ」


 これは本音だろうと思った。美人であるが故に、周りが理解出来ない苦労をしている。それは、何となくは分かった。でも矛盾していることに、この子は気が付いていないのだろうか。


「いい加減にしなさい。どうしてそう言われたくないくせに、私の方が綺麗だって思うの。矛盾してるじゃない。結局、外見に自分の価値を見出して、縋っているはあなたでしょう?」


 緋菜ちゃんは、ポロっと涙を零した。酷い、と声を震わせながら。まるで私だけが、加害者の様相である。


「緋菜、もういい加減にしろ」

「しょう、へい?」


 我慢ならなかったのだろう。立ち上がった昌平くんが、私たちのテーブルの脇に立って制止した。


「成瀬くんまで。聞いてたの?と言うか、何でいる訳?陽さんが呼んだの?あぁもう本当に……卑怯な人なのね」

「おい、緋菜。その言い草は何なんだよ」


 目を赤くしながら、緋菜ちゃんは私をまた睨む。昌平くんや成瀬くんには、そうしない。あくまで彼女の敵は、私だけのようだ。


「成瀬くん聞いて。陽さんは絶対に彼氏がいるの。騙されてるのよ。写真立てだって、今見に来いって言うけど、絶対にはったり。私たちは騙されてたのよ」

「何、それ?騙されて、た?私が騙してたって言うの?」

「そう。私たちと友達になったフリをして、新しい男を漁ってたんでしょ?詐欺師と同じじゃない」


 パシン、と私が彼女の頬を叩いたのは、言葉を発するよりも、涙が溢れるよりも早かった。喧嘩はしたくない。同じ土俵には立たない。そう決めていたのに。


「ねぇ、母の写真だって何度言ったら分かるの?私は純粋に、あなた達とお友達になれて嬉しかった。けれど、そう思ってたのは、私だけみたいね」

「陽さん、僕たちはそんなことは」


 成瀬くんがそう言ってくれて、昌平くんも大きく頷く。でも、もう私の我慢も限界だった。苛立ちは沸騰し、吹き零れる。


「緋菜ちゃんは、違うみたい。母の写真だと言っても、何を言っても、信じてもらえない。仕舞いには詐欺師って……酷いのはどっちなの」

「陽さん、ごめん。おい緋菜、謝れ」

「どうして私が謝るのよ。今聞いてたんでしょ。私が罵られてたんだって」


 私は彼らに、静かに首を振った。不思議と涙は出ない。友人として、緋菜ちゃんに笑って幸せでいて欲しかった。だから、事実を伝えただけなのに。詐欺師とまで言われ、私はもう無理だった。


「今まで有難う」


 そう呟くと、荷物を纏めて店を飛び出した。後ろから成瀬くんの声がする。けれど、振り返ることはなかった。

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