第一話 僕への忠告(下)

 仕事さえ始まってしまえば、流石に社会人である。何とかあの問題を脇に置いて、終業まで漕ぎつけた。と言うのも、ランチやコーヒーを飲む時なんかは、やっぱり苛々していたのである。こんな非常にプライベートな内容を、誰かに零すわけにもいかない。グッと堪えて、昌平くんからの返事を待っていた。

 仕事を終え、明日のスケジュールの確認。それから、タスク管理。休み明けは怠くなりがちだ。今日は定時で上がろうと思っている。そんな僕に、隣席から声が掛かった。朝、田舎話を共有した後輩である。


「成瀬さん、流石に帰りますよね」

「あぁ今日はね。もうミーティングもないし。やっぱり連休明けって、疲れるなぁ」


 僕らはパソコンをシャットダウンしながら、体の節々を伸ばした。デスクワークの時間が続くと、凝り固まるのは仕方ない。でもちょっとだけ、おじさんになったな、と思ってしまう。後輩は直ぐに携帯に手を伸ばし、スクロールしたりタップしてみたりして、何だか忙しいそうだ。若いとそんなもんか、なんて老けたことを思いながら、僕も携帯を手にする。昌平くんからの返事を待っているのである。ただ今日は、確かバタバタしている日、だったと思う。前にイベント事よりも、連休明けの方が大変だと話をしていたからだ。だから期待はしていない。いないけれど、つい祈りながら携帯を立ち上げた。


「あ……ん?」


 昌平くんからメッセージは着ていた。だけれども、内容は僕が望んでいたようなものではない。『何それ?成瀬くんに何かしてきたってこと?』と書かれているメッセージ。どちらかと言えば、彼もまた何も知らない様子だった。


「今着たばかり、か」


 呟いて僕は、直ぐに返信を打った。『何かって言うか、ちょっと緋菜ちゃんの様子がおかしかったから』と。端的に言うには、それだけで十分だと思った。隣から後輩が、飲みに行きません?と誘って来る。まだ悶々としている僕は、それも悪くないね、と安易に答えていた。

 彼も僕も一人暮らしだ。深酒をしようと言うよりは、飯のついでに一杯ひっかけよう、と言う程度の誘いだろう。もしかしたらまだ、実家の愚痴があるのかも知れない。


「あっあ……ちょっと待って。もしもし?」

「成瀬くん、ごめん。仕事中?」

「あぁいや、今帰ろうかなって思ってたところ」


 机に置いた携帯が、勢い良く震えた。相手は昌平くん。メッセージを打つより早い、と思ったのだろう。彼の後ろからは、まだ迎えのない子供の声が微かに聞こえる。


「良かった。あのさ、今夜大丈夫だったら、今から会えないかな」

「今から?僕は別に大丈夫だけど」

「ちょっと話があって」

「うん、そっか。じゃあいつものお店で良い?」

「いや、緋菜の来ないところが良いな」


 緋菜ちゃんの来ない所。つまりは、彼女の話があると言うことなのだろう。あぁそう言えば、僕は彼に嘘を吐いたままだ。いい機会だ。それも打ち明けなければ。


「じゃあ、僕の家の方でもいい?」

「あ、うん。ゆっくり話が出来れば、どこでも」

「分かった。店の場所送るから、そこで。慌てなくていいからね」

「有難う。じゃあ、後で」


 プツンと切れる電話。何だか昌平くんの焦りを感じてしまう。彼とも何かがあったのかな。僕はその辺りのことは、何も聞いていない。


「彼女さんっすか」

「あぁ違う。友人なんだけど。相談があるって言うから。ごめんね。飲みに行くの、金曜とかでもいい?」

「全然大丈夫ですよ。まぁとにかく、帰りましょ」

 

 荷物を手にすると、僕らは席を離れた。後輩は、駅で何か買って帰ろうか、と話している。僕はあまり利用しないが、一人飲み用とセットのなって売られている物もあるらしい。今度お勧め教えてよ、なんて言うと、彼は嬉しそうに「了解っす」と笑った。

 そんな後輩と駅で別れ、僕はいつもの電車に乗り込んだ。昌平くんに店の場所を知らせて、ボォッと考え込み始めていた。言われることを想像しながら、何を言われても動じないように準備をし始めたのだ。今分かっていることは、緋菜ちゃんは陽さんに嫌な思いを抱いていると言うこと。それから、男がいると書かれていた。陽さんの周りにいる男は、僕の知っている限りは三人だけ。教授と昌平くん、それから僕だ。勿論学校での関係もあろうが、それ以上深い関わりを持っている人間が居るとは思えかった。


「まさか……昌平くん?」


 緋菜ちゃんが、教授の存在に気が付いているはずがない。あの二人は外では会わないと言っていたし、陽さんが誤って口を滑らすことはないだろう。だってもう、十年以上隠し続けているのだ。今になって、そんなミスをするはずがない。そうなるともう、選択肢が昌平くんしか居なくなってしまった。でも……流石にそれは在る訳がない。

 電車は直ぐに、自宅の最寄り駅に滑り込む。今日は流石に、浮かれた足取りの人は見当たらない。僕も何となく重い足取りで改札を抜ける。頭の中は、考えが行き詰って、パンクしてしまいそうだった。コートの襟を立てて、何とか冷たい風を凌ぐ。もの悲しいサラリーマンの哀愁の様だな。今日は一つも気持ちが上がって行かない。駅を出て数分。待ち合せの店に着く。昌平くんはもう少しかかるだろう。いつもは感じたことない重さを感じながら、僕は溜息と共に店の扉を開けた。


「いらっしゃいませ」

「待ち合わせなんですけど」

「かしこまりました。では奥の席でいかがでしょうか」


 一度家に帰ろうかとも思ったが、僕はそのまま店に流れ込んだ。ここは、陽さんとクリスマスに来た店。イベント事でもない限り、喧しいこともない。腹を満たしながら酒を飲み、ゆっくり話すには適したところなのである。


「ご注文はお揃いになってからにされますか?」

「そうですね。メニューだけいただいてもいいですか」


 かしこまりました、とお辞儀をしたウェイターは、薄暗い店内の中で微笑を浮かべた。時間もそんなに遅くない、仕事初めの月曜日。店は静かに食事をする客が数名居る程度だった。ぼんやりした僕に、ウェイターがメニューを寄越す。ゆっくりとそれを開くと、僕はただ眺めた。その向こうには、クリスマスに彼女と座った席が見える。あの時は緊張したけれど、楽しかったなぁ。そんなことを誰にも話せなかったけれど、今夜昌平くんに伝えてみようと思う。勿論、教授のことは伏せたまま。ただ僕が彼女を好きなことを、言ってみたいのだ。

 そうすれば昌平くんも、緋菜ちゃんのことが好きだと言ってくれるだろう。男同士、恋愛相談なんて普通はあまりしないけれど、行き詰った時に背を押してくれる人が居るのは心強い物だ。


「ごめん、結構待った?」

「あ、ううん。さっき来たところだよ。慌てなくても良かったのに」

「まぁ今日は早番だったし。疲れたからさ。直ぐに園を出たかったんだよ」

「そっか。じゃあ、とりあえず食事しよっか。お腹空いたよね」


 空いたよぉ、と無邪気に笑った昌平くんに、僕はホッとしていた。彼に何かが降りかかっている訳ではないようだ。メニューをじっと見て、ビーフカレーと決めたらしい。仕事後で腹が減っているから、と。確かに彼は、僕よりも体力を使う仕事をしている。御飯が欲しくなるのも、何となく理解出来ていた。


 僕らはとりあえず、腹を満たすものを頼み、食事を摂った。話題は、今日の愚痴。僕なんかはそこまでないのだけれど、昌平くんは違うようだった。

 休み明けだから、子供がママと離れたがらない。それでも親は、サッと「行ってきます」と言ってくれればいいのに、そう出来ない人もいるらしい。だから余計に、子供が泣き叫んで仕方ない。その子たちは一日中ぐずり、あっさり親が離れて出掛けて行った子は、お友達と楽しく遊んで過ごせる。毎年、そんなことの繰り返しなんだとか。


「子供も園で成長するんだから、親も自分で成長してくれないと困るんだよ」

「そうなんだ。何か僕は、全く想像が出来てないかも」

「あぁそうだよね。自分に子供がいるわけでもないし。結婚してるわけでもないしね」

「う、うん。そうなんだよね」


 結婚はしていました。でもこれは、ちょっと言いたくない。だから食事の皿が空くと直ぐ、僕は今朝の話を始めることにした。昌平くんは、結婚歴のことなど知らないし、突っ込まれることもないのに。つい自衛をしてしまうのである。

 食事の皿が片付き、適度なつまみとビールを二つ追加する。ナッツと枝豆、それからキャロットラペ。それが届くと、今朝急に届いた僕への忠告を昌平くんに見せた。何がどうなったのか分からないけれど、と言いながら。昌平くんは、それを見て難しい顔をしている。何をそんなに悩んでいるのか分からない。でも、僕には一人で解決する力がない。彼の考えが纏まるのを、じっと待っていた。

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