第一話 僕への忠告(上)
心配していないのだろうと思った長弟は、今朝になって連絡をくれた。彼も正月休みが明け、今日が仕事初めか。こっちは大丈夫だから無理するなよ、とそれだけ送って来た。中間子の彼は、昔から気配り上手だったな。しっかりしてるのに頼りない長男、つまりは僕。それから、いつでも兄貴たちに勝てると思っている、甘えん坊の末っ子。その間で彼は、いつも冷静だったように思う。僕は弟に『有難う。体には気を付けろよ』と兄貴らしく送り付けて、今年最初の通勤電車に乗っている。
陽さんからは、まだ誘いの返事は聞いていない。慌てることでもない。向こうは向こうできっと、上手い話し合いをしているはずだ。その心配はしていないが、僕は今憂鬱である。その理由は、今見つめているメッセージにあった。
『おはよう、成瀬くん。あのさ、陽さんとのランチってどうなった?』
『陽さんがどう返事したか分からないけど、多分あれは男がいるよ』
『だから、気を付けて。騙されたりしないようにね』
送信者は、三山緋菜。数日前に、僕がちょっとした頼みごとをした相手である。
僕の中で、彼女たちは仲良くやっていると思っていたが、そういう訳ではなかったのだろうか。このちょっと棘のある言い方。引っ掛かる言い方を通り過ぎて、苛立ちさえ覚えた。しかも、仕事前に送ってくるような内容でもない。あの子は何がしたいのだろう。確かに、陽さんには彼氏――と言うか何と言うか、が居る。それは僕は承知しているが、緋菜ちゃんには絶対に言っていないだろう。それに勘付いたということだろうか。
『おはよう。僕は大丈夫だよ』
『もしも彼女に彼がいたって、僕の気持ちが変わる訳じゃない』
『心配してくれて有難うね』
そう送り返したけれど、気が晴れはしない。悶々と不愉快になっただけだ。こんなこと陽さんに言えないし。と言うか、今連絡も出来ないし。一人で昇華させなければいけないのもまた、気が重たかった。
『いえいえ。成瀬くんが心配でね』
『私たちって、彼女のことあまり知らないじゃない?もしかしたら、成瀬くんを騙そうとしてるのかも知れない』
『とにかく何かあったら、話聞くからね』
騙そうとしている、か。何があったらそんな風に、急に方向転換出来るのだろう。二人の間に何かがあったのだろうか。礼を言うのが大人のマナーだろうが、僕はそれが出来なかった。陽さんを悪く言う緋菜ちゃんに、腹が立っているのだ。あんなに懐いていたし、世話にもなっていたろうに。
それでもどうにか『有難う』と打ち込みはしたが、丁度駅に着いたから止めた。それに、これ以上何かを返すと、僕は緋菜ちゃんを責めてしまう。多分怒ってしまうから。会社まで歩いて数分。既に向かう足取りは重い。緋菜ちゃんはこれだけでは引き下がらないだろう。彼女たちに何があったのか。いや、何かがあったとしても、好きな人のことをあんな風に言われるのは良い気はしない。
「成瀬さん、おはようございます」
「あぁ、おはよう。今年も宜しく」
「こちらこそ宜しくお願いします」
改札を抜けて少し歩いたところで、隣席に座っている後輩ととばったり会った。話を始めながら、僕はさっきのメッセージを頭の端っこに追いやっている。一人で苛立ちを膨らませてしまう前で良かった。彼の話を聞きながら、僕は気持ちを落ち着かせている。新年初日から、こんな感情で仕事をするわけにはいかない。あぁ、もう。一体何なんだ。
「成瀬さんは、正月って実家に帰ったんですか」
「実家?いや。帰ってないよ。弟が二人共帰ったし、まぁいいかってさ。五月の連休には帰るつもりだけど」
「あ、そんな感じなんですね。そうか。男三人兄弟のご長男で」
「ご長男ってなんだよ」
彼は何だかしみじみとした顔で、俺もご長男なんですよ、と小さく笑った。都会の人には分からないだろうが、田舎は長男と言うだけで変な期待が圧し掛かることがある。東京――しかも名が知れた大学に進学した。綺麗じゃなくともよく働く嫁を貰った。孫の顔は早く。親は言わなくとも、近所から漏れ聞こえてくるのは良くある話だ。だからこそ、僕なんかが帰りにくくなっている訳だが。
「姉貴が三人いて、皆そこそこ近くに住んでるのに、男ってだけで跡取りだって言われる。確かに結婚した二人は、夫の姓を名乗ってるから分からなくもないけど」
彼は確か、北陸の方の出身だったか。生まれた土地は違えど、置かれているよう今日は変わらないのかも知れない。だって彼の話は、自分のことのように情景が思い浮かんだのである。僕が結婚をした時、両親よりも大喜びしたのは近所のおばさま達。
文ちゃんが東京から可愛らしいお嫁さんを貰った、と。誰だか分からない人にまで、おめでとう、と言われたことは覚えている。まぁそれも、比較的早くに破綻した訳だけれど。実家――故郷がある、と言うことは、素敵なことなんだとは思う。帰る場所がある。それが心の何処かで、お守りのように鎮座していたりするのだ。
「ウチもすぐ下の弟が実家の近くにいて、親の様子も見に行ってくれてさ。跡を取る程の家じゃないけど、彼の方がよっぽど跡取りなんだ。それでも世間は、まぁそうもいかない」
「ですよね。あぁ都会の人には伝わらないんだろうなぁ」
「だろうなぁ」
仕方がない、と諦めのような理解をしているのは、僕だけではないようだ。妙に親近感のある愚痴を言いながら、僕らはもの悲しそうな目で笑い合っていた。
「成瀬さんって再婚しないんですか」
「あ、うん。その予定は、今のところはないね」
「そっかぁ。今回、帰ったらついに始まっちゃって。見合いをしろだとか、色々」
「あぁ……それは何となく、理解するわ」
僕はそう言われる前に結婚をした。だから彼と同じような体験は、実はしていない。寧ろ別れた後の方が、再婚をしろ、と言われている気がする。親兄弟だけでなく、誰だったか思い出せないような近所の親父にも言われたこともある。相手は良かれと思っているのだろうが、言われてる方は息苦しいものなんだ。
「こっちの生活のペースとか無視なんですよね。あっちの社会しか知らないから。だからと言って、そう反論する訳にもいかないですし。何となくヘラヘラ笑って、適当に誤魔化してやり過ごすしかなかったです」
「うん、仕方ないけどね。それでいいんだと思うな。本音を言って、わざわざ喧嘩することもない。相手が親ならまだしも、そうじゃないでしょ?」
「ですよねぇ。あぁやっぱり成瀬さんに話して良かった」
彼は僕が共感したことで、安堵したようだった。会社に入って自席に着くと、頑張ろうな、と彼の背を叩く。これは『仕事を』と言うよりも、『その他諸々を』と言うことだ。彼も「そうですね」と微笑んだ。
結婚――再婚なんて、僕には未だ遠い話だ。けれど実家に帰れば、母だけでなく言われるのだろうと思っている。一度は結婚という実績をあげた訳だ。それで諦めてくれればいいのに。陽さんは、結婚とか考えたりするのだろうか。今までは全てを諦めていたようだけれど、これからのこと、考えたりするのだろうか。いや、それもまだ先の話。今は焦ってはいけないんだった。
パソコンの電源を付けて、ふぅ、と息を吐く。気持ちをリセットしたくなったのは、未だ腹の中がムカムカしていたからだ。あんな言い方をしたということは、余程気に入らない何かがあったのだろう。陽さんは大丈夫かな。今、大変な時だから、負担は掛けないで欲しい。でも、緋菜ちゃんはそうはいかないのだろう。あの子は少し暴走しがちだ。陽さんに何も詰め寄ってなければ良いけれど。
「あ、そうだ」
僕はパソコンにパスワードを入力してから、携帯を手に取った。送信先は、昌平くん。彼なら何か知っているかも知れない。そう思ったのである。
『おはよう。忙しい所ごめん。ちょっと聞きたいことがあるんだ』
『緋菜ちゃんから、陽さんのこと何か聞いてる?何があったのか分からないんだけど、喧嘩したのかも知れなくて』
『もしも知ってたら、話聞かせてもらえると助かります。朝からごめんね。仕事頑張ろう』
僕は一気に打ち込んんで、送信した。忙しいだろうから、直ぐには返って来ないだろう。だけれど僕は、その返信に期待をしていた。
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