第四話 私の苛立ち(上)

「あ、成瀬くん……」


 上野へ向かう電車の中、携帯がコートのポケットで揺れた。画面には、成瀬くんの名前。連絡はしないようにしよう、と言ったのに、結局こうして連絡が来る。余程のことでもない限り、出ないつもりだけれど。私は直ぐに、携帯をまたポケットに戻し溜息を吐いた。仕事が始まれば気は紛れる、と思っていたが、どうも上手くはいかない。今後の悩みは尽きないのである。

 征嗣さんと会ったのは、ついこの間、三日のこと。お正月は家族で過ごすのが当たり前な彼が、まさか来るなんて思ってもみなかった。今まで、会いたい、寂しい、と思っても、無理強いはしたことがない。そんな彼が、時間を作ってわざわざ会いに来た。成瀬くんが連絡をしたことが、影響を与えたのか。それとも、前日に私が零したことが気になったのか。それは何も分からなかったけれど、あの日は、私を抱く手も優しかった。愛などはなかったろうが、少しだけ満たされたことは内緒。だからと言って、もう別れを考え直すことはないが。


「ん、また……」


 ガタゴトと電車に揺られているうちに、成瀬くんから着信が数回入った。連絡をしないで、と言ったのに。一度ではなく、立て続けに何度か鳴った電話。何か用事があるのだろう、とは思った。征嗣さんとの話で、また連絡が必要になったのだろうか。そう言う連絡もあるのか、と知ったのは、そうあれも三日のことだ。

 二日の夜、私はお酒が入っていたのもあって、征嗣さんから電話に本音を少し見せてしまった。それを上手く利用しようと、三日は朝から携帯の電源を切り、全てを遮断して考えを張り巡らせようとしたのだ。そのうちに征嗣さんが来て、結局抱かれた訳だけれど。切ったままの電話に気が付いたのは、もう日が落ちる頃。オンにした画面には、ズラッと成瀬くんの名が並んでいた。ここまで掛けて来るなんて、何か緊急事態かも知れない。そう思って、慌てて電話。すると彼は、私を「小川さん」と呼んだ。よそよそしい態度。何があったの?と思ったが、直ぐにその裏にいるであろう影に気が付いたのだ。


「あの件……どうしようかな」


 征嗣さんには未だ、あの件の相談をしていない。そろそろしようかな、と思っている所ではあるが、今日はそれどころではなかった。

 上野駅のホームに入り始めると、私は一段と憂鬱になっていた。それは、これからの時間――緋菜ちゃんと会うことにある。メッセージを知っていながら、私はあの日、携帯の電源を切った。悪いことをしてしまった、とは思っている。でも正直、仕事初めの月曜の夜に会うのはきつい。彼女とは仕事のサイクルが違うから仕方がないが、きっと彼女は明日が休みだと思う。


「とりあえず、成瀬くん、と……」


 帰宅客の邪魔にならぬよう端に寄ると、彼の連絡先を表示する。発信をタップして、エスカレーターを上って行くスーツの波を見ていた。どことなく気怠さが滲み出た背中の波。皆、今日は早く家へ帰りたいだろう。漏れなく私も、その気分である。


「もしもし?成瀬くん?出られなくて、ごめんなさい。電車に乗ってて。どうしたの?何かあった?」

「陽さん、ごめん。今どこにいる?話して大丈夫?」

「うん、上野に着いたところ。でも、ちょっと急いでて」

「え、あぁ。そうなん、だ」


 妙なところで、彼が躓く。征嗣さんに会う訳じゃないわよ、と否定をすれば、あからさまな安堵を見せた。


「今ね、ちょっと昌平くんと居てさ。聞きたいことがあって」

「どうしたの?連絡して来たってことは、急用よね?これから緋菜ちゃんに会わないといけなくってね。だから長くは話せないんだけど」


 本当は憂鬱だなんて言えない。彼女と休みを合わせるのは大変だし、これは出来るだけ早く解決したい事柄に違いないのだ。そう自分に言い聞かせる。


「緋菜ちゃんと会うの?」

「え?うん。何だか昌平くんと喧嘩しちゃったっぽくって。ほら、この間。私、電源切ってたでしょう?あの日に連絡くれたんだけれど、直ぐにお話聞いてあげられなかったから」

「そっか。ちょっと待って」


 何やら彼は、電話口を押さえて話しているようだった。私は、さっきの気が滅入るようなグレーの波に乗る。エスカレーターで並んだおじさんが、大きく溜息を吐く。分るよ、その気持ち。変な同調意識を持ちながら、私は成瀬くんの言葉を待っていた。


「緋菜ちゃんに会うんだよね?」

「うん。そうだよ」

「ごめん。ちょっと色々あって……その、いや。とりあえず僕らも行くから。お店教えてくれない?」

「色々って?いや、昌平くんの話だから。流石に本人は……」


 やんわり断るが、必死に頼み込んで来る。良く分からないけれど、昌平くんが乗り込んで来るのはまずい気がするのだ。

 今から私は、緋菜ちゃんを宥めるつもりだし、恋が上手くいくようにお膳立てするつもりでいる。けれど、肝心の昌平くんの方からは何も言われていないのだ。それって、つまりは、と言うことじゃないのか。そう疑う気がある故、彼に来てしまったら、今夜が丸く収まらない気がする。


「そうなんだけど。あ、ほら。昌平くんが仲直りしたいみたいで」

「仲直り?昌平くんが?」

「あ、うんうん。そうなんだよ」

「そっか……分かった。入谷口の方なんだけど。電話切ったら、緋菜ちゃんから着た店のページ送るよ。あくまで、仲直りさせるってことでいいのかな?」

「うん。有難う。じゃあ後でね」


 正解が見出せないまま、電話を終えた。昌平くんが仲直りしたい……それを成瀬くんに相談している……?考えれば考える程、私の頭にはクエスチョンマークが並んだ。だって成瀬くんは、緋菜ちゃんのことが好きだってことになってなかった?だから昌平くんも、恋愛相談を私にして来たんじゃないの?

 これは、何か緊急事態だろうか。携帯をサクッと操作し、店の情報を成瀬くんに送る。やはり私の中は、どうなっているんだ?と疑問符が増えるばかりだった。


『有難う。急にごめんね』

『僕らは少し経ってから行くから。でも、緋菜ちゃんには言わないでおいて』


 成瀬くんから直ぐに返事が来る。何が何だか良く分からないが、昌平くんがそう言っているのならば、尊重すべきだろう。私は、『了解』とだけ送り、店へ急いだ。

 さて、仲直りさせるに、どうしたらいいか。駅を出て、小さな信号で立ち止まる。うぅん、と唸って腕を組んだら、ポケットにしまった携帯がまた震えた。


『教授のこと、気を付けて』


 その画面を見て、また頭の中が絡まって行く。教授のこと、と言うのは、征嗣さんのこと。緋菜ちゃんと話題になる訳もない人だ。それを、彼はこう送って来た。私は、何か疑われてるのか。緋菜ちゃんの思惑を邪推する。征嗣さんとのことは、気付かれるはずがない。それを何で、成瀬くんはそう言って来たのか。まさかこれは、何かの罠?

 でも、だからと言って行くのを止める、子供のようなことはしない。彼の忠告の通り、私は一ミリも漏らすつもりはない。大丈夫。そんなこと、ずっとして来たんだから。

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