第四話 僕の春は(下)

 家に着いた僕は、泣いても笑ってもいなかった。あんなに心躍らせて電話を掛けたのが、嘘のようだ。困惑している、と言うのが正しい感情だろうか。

 と言うのも、彼女が電話に出ないのだ。メッセージアプリの通話では、応答がないと言われ、キャリアの番号へ掛ければ、携帯の電源が切れている、と。何をどうしても、彼女に繋がることはなかった。何かあったのだろうか。上着を投げて、手を洗って。それから冷蔵庫からビールを出した。でもずっと、大丈夫かな、と心配する気持ちが消えて行かない。カツカレーを口に運んだ撲に、食べてる場合か?と誰かが問い掛ける。


「何か、あった……かな」


 言葉になると、余計に不安を煽った。口に入れたカツをいつまでも噛みながら、飲み込めない。僕はスプーンを放ると、上着を手にして駆け出していた。

 電話を鳴らし、同じような応答を何度も聞く。走りながらも、「会わないようにしよう」と言われたことが、何度も頭を過っていく。けれど、今はそれどころではない。僕はひたすら、動物園通りを走った。最近の運動不足で、直ぐに息切れを起こしたが、それでも足を止めなかった。


「陽さん。あ……まさか」


 弁天門前広場――いつもの駅伝の碑のところへ来た時、フッとまた別の嫌な予感が走った。これは、罠ではないか。もしかすると、こうして僕はあの男におびき寄せられているのではないかと思ったのだ。教授は彼女の部屋にいて、僕が来るのを待っている。彼女を人質のように捕らえたままで。そこに僕が行ってしまったら?勿論、普通に彼が送り返して来たということだって有り得る。家にいてもメールなんて出来るのだから。今の状況で僕には、どちらの確率が高いのかが判断出来なかった。

 困惑のまま、帰ることも進むことも出来なくなった僕は、そこに蹲った。まだ正月三日のこと。初詣客がチラチラと僕を見て通り過ぎる。他の人を妨げないよう植栽の縁に腰を下ろすと、大きく項垂れた。もう一度祈るような気持ちで、キャリアの番号へ電話を鳴らしてみる。今さっき、掛けながら来たのだ。状況は変わっていないだろう。分かっていながらも僕は、発信になって直ぐに電源が入っていないことを知らされると、深い溜息を吐いた。


「冷静になれよ……」


 自分に言い聞かせる。今慌てて彼女の家に走って、これがトラップだったら洒落にならないぞ。折角、意を決して始めた作戦が、全て水の泡だ。僕は携帯をじっと見つめて、大きく息を吐いた。やはり今は、行くべきではない。陽さんは大丈夫だと保証するものは何もないが、仕方がない。僕は、後ろ髪を引かれる思いでそこを発った。

 走って来た道を、今度はトボトボと歩く。さっきは気にならなかったカップルに目をやっては、急に悔しくなって下唇を噛んだ。焦ってはいけない。春になる頃には、きっと状況は変わるはず。そう言い聞かせて、自分を納得させるほかないのだ。このコートを脱いで歩ける頃、気持ちも軽くなればいい。今は、我慢の時だ。グッと拳を握り込んで、僕はつま先を見つめていた。


「冷めちゃったよな」


 家に帰ってもカレーの匂いはしていたが、ウキウキするようなそれではなかった。時間が経ってシュンとした、冷たいカレーの匂い。上着を放って、僕はそれをかき込んだ。何だか急におばちゃんの優しい励ましを思い出して、泣きそうになる。一人ぼっちで戦うって、本当に孤独なんだな。陽さんは今、どうしているだろうか。

 陽さんのことを考えながら、飯を食い終え、何となく付けたテレビを空を見るような目で見る。正月の漫談の時期は終えたのか、面白くもない若い芸人が、ガリガリの裸で何かを叫んでいた。自分でびっくりする笑い声を上げ、何とか無理矢理にでも、僕は自分を持ち上げようとしている。何とも虚しい時間だ。一人で生活することにも慣れては来たが、つい陽さんのことを考えてしまう。こうして一人ぼっちで、誰にも頼れずに生きて来たのだろうか。そんな風に思っては、胸がキュッとなった。


「そうだ」


 僕はパソコンを立ち上げると、徐に検索を掛ける。彼女のことを考えてしまうのは、仕方のないこと。問題は、マイナスの方向にしか考えられなくなっていることである。少しでもプラスのことを考えられれば、異様に長く感じる時間も、多少はマシになる気がしたのだ。

 僕は一度、彼女をデートに誘う。それは教授に提案されたことの形跡を残す為だ。結果、それで二人で会えれば儲け物だろう。だから、その為のリサーチを始めることにした訳だ。


「ブックカフェかぁ。図書館でもいいよなぁ」


 本当は映画とか無難な物も考えたけれど、あの男の意見を聞かないのは宜しくないと判断していた。僕から相談をしたのだから、出始めから無碍には出来ない。話の流れで別のコースになれば、それはまたそれでいいだろう。僕らは、教授に伝えているような初々しい関係でもない。友人として食事もしているし、それに……


「あぁ、どっちがいいかなぁ」


 多少デフォルメされている綺麗な記憶。それを遮るように、一人大きな声を出した。いい大人が馬鹿みたいだ。キスなんて、そんなに崇高な物でもない。挨拶みたいにとまではいかないけれど、体を重ねるよりもずっと軽い物。そう思うのに、僕はやっぱり一人で耳まで赤くしていた。


「あ、携帯……」


 微かに携帯のバイブレーションが鳴っている。投げた上着に入れたままだ。今度こそ長弟だろうか。慌ててポケットを探り、取り出した画面を凝視する。表示されていたのは、今度も弟ではなかった。


「もしもし……陽さん?」

「あ、うん。ごめんなさい。何度も電話貰ってたみたいで」

「今一人?大丈夫?」

「え?一人だよ。でも、ごめんね。昼間、ちょっと考え事したくて、電源落したの。すっかり忘れてて。そのままにしちゃって」


 あまりにも普通の声色で、僕は勝手に泣きそうになる。陽さんは嘘を吐ている様子もなく、本当に電源を自らの意志で切っていただけのようだ。


「何か、ごめんなさい」

「あ、ううん。いいんだ。ちょっと用事があって連絡をしたんだけど、電源入ってなさそうだったから、心配になっちゃって。いっぱい掛けちゃった」

「いえ、こちらこそ。心配してくれて有難う。それで……どうしたの?」


 連絡はしないで、と言われていたのに、僕は教授の提案を言い訳に連絡をした訳だ。でも、その理由を伝えるわけにはいかない。


「あ、えぇと。おっ……小川さん。僕と今度、ブックカフェとか行きませんか」

「ん、小川さん?どうしたの?あ……うん。そうか。なるほど……では、少しお時間いただいても良いですか」

「は、はい」

「すみません。では、後日改めて、私の方から連絡致します」

「宜しくお願いします」


 ただ会いたいから誘ったわけではないことを、彼女に上手く伝えるには、僕はこの方法しか思いつかなかった。彼女も理解はしたようだ。堅苦しいやり取りをして、互いに大きく息を零すと、どちらからともなく笑い声が漏れた。


「何だか、難しいねぇ」

「確かに。何となくこう、やんわりお誘いしようと思ったんですけど」

「察しました」


 二人で笑い転げて、直ぐにいつもの陽さんに戻って行った。僕も一仕事終えたような疲れを感じながら、一緒になって笑う。きっと上手くいく。そう何度も自分に暗示をかけている。

 僕の春は、絶対に皆と同じようにやって来る。それが花一杯咲いているかどうかは、定かではないだけだ。陽さんと会話を続けながら、僕はたった一つ確信していることがある。それは僕が思い描いている程、弟は兄貴のことを心配していないということ。男兄弟なんて、そういうものだ。

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