第四話 僕の春は(中)
『成瀬文人様
新年、おめでとうございます。こちらこそ、本年も宜しくお願いします。
さて、何とも初々しいメールを有難う。君はとても素直な子だね。頼って貰えて、嬉しいです。彼女の連絡先も聞けたとのこと。心配していたんだけれど、野次馬のように連絡するのも気が引けてね。伺うことが出来て、ホッとしています。
質問にあったことだけれど、小川くんの好きな物と聞いて、僕が思い付くのはもう昔の話。彼女も変わったろうし、参考になるかは分からない。ただ、あの子はあまりアクティブではないから、例えばスポーツ観戦だとかそう言うのは尻込みするだろうなぁ。昔は本を読むのが好きだったけれど、今はどうだろう。あの頃は近代文学を好んで読んでいたから、今ももし変わっていなければ、そういう物をきっかけにしてみたらどうだろうか。
今日辺りは家にいるんじゃないかな。休みもまだあるし、電話でもしてみたらどうかな。お役に立てればいいが。
小山田征嗣』
何度も何度も、僕はその文章を読んだ。昔は、と強調するように、僕に向けてのアドバイスが書かれている。今も良く知ってるくせに。そう苛立ちながら、この文面の中に隠されている彼の感情を紐解こうとしている。あの男が、ただ誰かに良い顔をする為だけに、こうして正月に返信を打つとは思えなかったのだ。
そして読めば読む度、その裏には「まぁ本当は俺の女だけどね」と書かれているような気がしてくる。一人で苛立ちを溜めて、握り込んだ拳をフルフルさせていた。
「今日辺りは家にいるんじゃないかな……」
その言葉が、何だか引っ掛かった。自分との関係を隠そうとしているようで、隠せていない。普通なら、卒業して十年以上経つ教え子が、休日に家にいるかなど知らないだろう。それが例え、今同じ大学内で働いていたとしても。
急に胸がザワザワし出す。まさか、もう会ったのか?僕の中にあった苛立ちが、より沸々とし始める。切り替えた画面に表示された彼女の連絡先と、僕はじっと見つめた。
「ダメだ。あの時陽さんは、僕よりも覚悟をしたはず」
発信をタップしそうになって、何とかそう思い留まる。今すぐに連絡を入れたい。大丈夫か、と問いたい。けれど、彼女の決意を無駄にしたらいけない。僕はその葛藤を繰り返していた。本当に辛い時は連絡をくれると言っていた。それを今は信じるしかない。僕は僕で、これの返信を考えなければいけないんだ。
そう決意して、返信を打ち込んでみる。だけれどそれは、僕の本音が見えてしまっているような気がして消した。彼の文から「まぁ本当は俺の女だけどね」と透けて見えたように、僕が打ち込んだそれは、「陽さんを解放してくれ」と攻撃しているようにしか読めなかったのだ。こんなんじゃ駄目だ。打っては読み返し、また打ち直す。とにかく素直に、と言うことだけを念頭に置いて、僕は携帯と向き合った。どれくらいそうしていただろうか。打ち終えた時には、もう夕陽などなく、すっかり夜になっていた。
『小山田征嗣様
早々にご返信いただいて、有難うございます。新年だと言うのに、情けない相談事をして申し訳ないです。でも、感謝しています。
先生のおっしゃる通り、確かに彼女はインドア派だと思います。そう言われてハッとしました。サッカーの試合なんてどうかな、と思っていたので、誘わなくて良かったです。つい自分の興味のある物ばかり、考えていました。ご指摘いただいて、有難うございます。僕は専らミステリー小説ばかりなので、近代文学は疎いのですが、本に関連する場所にお誘いするのはいいかも知れません。ちょっと成功率が上がった気がします。
これから、電話してみようと思います。出てくれるかな。分からないですけど、上手くいくように願っててくださると嬉しいです。またご相談させてください。とても頼りにしています。
成瀬文人』
それは、僕が彼女に連絡を入れる為のシナリオ。電話をしたらいい、と振って来たのは彼の方だ。僕はそれを受けて、彼女に電話してみようと思う、と宣言したまで。そうなれば、もう、連絡をすることは証拠を残すみたいなものだ。
「何が頼りにしてます、だよな」
一ミリだってそんなことを思っていないのに、よくもそんな嘘がサラサラと書き込めるものだ。自分に感心しながら、僕はそれを送信した。流石に今日は、もう返って来ないだろう。こういう風に何度かやり取りをして、僕が陽さんと会うことを認めさせる。少しずつ、少しずつ。僕はあの二人の間に、風穴を開けていくのだ。
「よし、カレー買いに行こう」
直ぐにでも陽さんに連絡を入れたかったけれど、一仕事終えれば腹は減る。僕はまた上着を着込んで、夜の街へ降りて行った。
「おばちゃん。テイクアウトでカツカレー一つ」
「はぁい。あぁ、揚げるからさ、ちょっと待ってもらえる?」
「いいですよ」
マンションを出て、徒歩三分。飯だけ食いたい時には重宝する定食屋だ。こうして便利な場所に住んでいると、やはり自炊をしようと言う気持ちが逸れる。店内には、僕のような独り身であろう男たちが、ガツガツと飯を食っていた。
「あんた、ちゃんとお茶も飲みなよ」
むせ返りそうになった客に、すかさずおばちゃんが声を掛ける。きっと彼らも、そういう温かさに触れたいのだろう。どことなく、僕にはそれが分かった。そう思いながらずっと、ポケットに入っている携帯を触っている。今掛けてもいいだろうか、と思い浮かぶと、僕はそれを取り出した。連絡先を表示するが、彼女にどう話をするかも組み立てねばならない。教授とのやり取りは教えてくれるな、と言われているからだ。余計なことは言わない。ただ、教授に言われたように、誘ってみる。その後どうするかは、彼女に任せるしかない。
「お兄ちゃん、出来たよ。カツカレー」
「あ、はい」
「八五〇円ね」
「はい。じゃあ千円でお願いします」
直ぐに出てくるカツカレー。でも多分、僕が悩んでいただけで、数分は経っているのだと思う。
「はいよ。お釣り。お兄ちゃん、気になるなら電話しちゃいな」
「へ?」
「ずっと眉間に皺寄せて、携帯と睨めっこしちゃって。正月なんだから。もっと楽しい顔してた方が良いでしょう?」
おばちゃんがニコニコして、僕の肩を叩いた。昔ながらの定食屋。余計なことを、と今の時代嫌がられそうなことだけれど、こうしてここは在るのだろう。
「そう、ですね。かけてみます」
「うん、そうよ。笑ってね。いつも有難うね」
「はい、また来ます」
不思議と彼女のお節介は嫌な気がしない。そう言うのも人徳なんだろうな。僕は、ホカホカのカツカレーをぶら下げて、直ぐに発信ボタンをタップする。おばちゃんは笑顔のまま、店先から手を振っていた。何だか上手くいく気がして来た僕の足取りは、少しだけ踊っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます