第四話 僕の春は(上)

「あぁ、うん。分かったって。そのうち帰るよ。盆と正月が嫌なだけだって」

「それは、あんたのせいでしょぉよ」

「分かってるから、帰れないんだって。肩身狭いでしょ?お母さんだって」

「まぁねぇ。あ、それならばあんた、再婚したらいいだに」

「母、母。待て。そう言うのはだよ、一人じゃ出来ねぇって」

「そんなん分かっとる。まぁ、春頃には帰って来い。ばぁちゃんも、先が長くはねぇからな」


 捨て台詞を吐いた母は、ブツンといきなり電話を切った。元々繊細な方ではないが、流石に最後の一言には気を遣ったのか、小声だったのが妙に印象強く残る。祖母は確かに結構な年だ。そろそろ帰らないとなぁ、と思いながらも、未だ溜息を漏らす家族の顔が思い浮かぶと気が重い。

 弟たちは、実家に帰ってきたようだった。絵に描いたような家庭を築いている長弟。まだ大学出たての次弟は、名古屋で一人暮らし。休みに入って早々に帰宅したらしい。そして一番上の僕はと言うと、ニューイヤーメッセージを送ったきり。だから母が痺れを切らして、電話してきたのである。本当に、盆と正月という親類が集まる場が苦痛なだけだ。五月の連休には帰ろうと、本当に思っていた。


「五月かぁ。春には状況が良くなってるかなぁ」


 陽さんとのメッセージを見ながら、僕は一人呟いた。暫く会わない、連絡もしない。そう宣言をされてから、まだ一日と経っていないのに、元気?とどうでも良いことを送りそうになる自分がいる。別れる、と決意してくれただけでも、安堵していたはずのなのに。人間は直ぐに、もっともっと、と欲が出る物だ。あれから彼女は、どうしただろう。

 昨夜、別れる時に彼女はこう言った。流石に正月だから彼は来ない、と。そう笑っていたが、僕はどうもそれが不安だった。いつもはそうかも知れない。でも僕は、彼にメールを送った。挑発するようなことは書いていないが、それでも今まで受け取ったことはないのではないかと思う。普通は誰も、あんなことを教授に相談などしない。流石に訝しんだはずだ。だからこそ、不安だった。彼女は全てを覚悟した上で、この作戦に賛同してくれた。それは理解しているが、あの二人のやり取りの変化は、やはり気になっている。


「あぁ……大丈夫かな」


 そう漏らしても、誰も答えはくれない。外から聞こえてくるのは、忙しい車の音と楽しそうな話し声。まだ正月だ。皆、幸せな時間を過ごしているのだろう。今を誰かと比べても仕方ない。知らぬ人を羨んでも、今が幸せになる訳でもない。分かっているのにそうしてしまうのは、胸が苦しさで一杯だからだろうか。


「あぁちっくしょ……」


 陽さんの話では、メールは既に読んでいると思う。緊急でなければ、返事が返って来るのは学校が始まってから。ただの恋愛相談を送っただけ。きっと返って来るとしたら、もう少し先だ。大体、返事をくれるのかすら分からないのである。

 ふと目をやった窓の外は、いつの間にか陽が傾き始めていた。そう言えば腹が減ったな。本を読んで考え事をして、それから調べ物をしたくらいだが、母の小言を聞いたのは僕をどっと疲れさせていた。酒は飲みたいが、ザワザワと騒がしい所には行きたくない。朝から食べたのは、実家から送られて来た餅だけ。コンビニでも行って、サラダとか買って来るか。自分の自活能力のなさに呆れながら、僕は上着に手を伸ばした。暗くなってから出るのは、面倒になる。今のうちに買い込んで、今日は大人しくしていよう。


「さむっ」


 ドアを開けると、身に染みて来るような冷たい風が僕に吹き付けた。どこかの家からカレーの匂いがしている。ここは単身者用のマンションだ。お節料理に疲れたというよりは、それ以外作れない故のカレーだろうか。階段を気怠いリズムで降りていく。道に出る頃にはもう、僕の食欲はカレーに傾いていた。よし、今日はカツカレーにしよう。コンビニじゃなくて、近くの定食屋でやっているテイクアウト。あそこに行こう。そう決めて踏み出した僕の携帯が、ブルブルとポケットで震えた。どうせ弟からだ。

 長弟は僕が帰りにくいことを分かっている。きっとその心配のメッセージだろう。アイツはいつも、こういう時の母の小言を聞いてくれている。子供のお年玉と一緒に、何か美味い物でも送ろう。兄弟とは言え、そういう配慮は必要だろう。そんなことを考えながら、五歩くらい進んで、僕ははたと立ち止まる。不穏な胸騒ぎが、少しずつ色濃くなったのだ。恐る恐る触れる携帯。心臓は気持ち悪いくらいに、どくん、と大きな脈を打った。


「まさか、な……」


 画面を立ち上げると、未読マークが付いているのはメールアプリ。いつもなら通販か何かの知らせで、簡単にスルー出来るけれど、今日はそうすることは出来ない。恐々とそれを立ち上げ、受信メールの表題を確認する。


『成瀬文人様』


 そう書かれたタイトル。送信者を見て、また鼓動が早くなった。急に脇汗を掻くような緊張に襲われる。カレーなんて買いに行っている場合じゃない。とにかく早く、これを読まなければ。そう気が急く。踵を返して、さっきウダウダと出て来たルートを戻る。階段を一つ飛ばしで駆け上げる僕は、そこに何が書かれているのか、不安で仕方なかった。

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