第三話 私は籠の中の鳥(下)
「急に来て、悪かったな」
「あぁ、ううん。いいの。心配してくれたんだもの」
靴を履き終えた征嗣さんは、私と目を合わせると優しく微笑んだ。それから私の髪をぐちゃぐちゃに混ぜて、軽いキスをする。じゃあな、と背を向けた彼は、来た時よりも随分安堵したようだった。そして私はというと、複雑な気持ちでいる。それは未だ、小心者の征嗣さんを心配してしまうからだ。別れたい気持ちと天秤にかけて、また溜息を吐いていた。
征嗣さんが私を抱いた跡が、生々しく残る部屋。布団を整え直して、カップをいつもより丁寧に洗う。彼が居た痕跡を全て消し去りたいようだった。カーテンの隙間から夕陽が漏れる。フワッとその光が歪む。悲しい訳でもない。悔しい訳でもない。ただジワジワと、何かが溢れそうになった。
「今日は……もう飲んじゃおうかな」
自分を奮闘させるように独り言ちて、冷蔵庫を開ける。冷えた缶ビールを取り出し、直ぐにプルトップを開けた。ワインもあったが、今日はこうして豪快に飲みたい気分だった。冷蔵庫の中には、つまみになりそうな物はない。昨夜も自炊していないのだから、仕方ない。面倒だとか感じる前に、私は残っていた野菜を並べた。もう既に、ビールは半分近くなくなっている。
ジャガイモを洗って、レンジで加熱。それから、無心に人参と牛蒡を切り始める。凝った料理をするつもりはない。オーソドックスな味付けの金平だ。加熱し終えたジャガイモは、皮を剥いて、味噌などの調味料と和える。空いたフライパンで長ネギと厚揚げを焼き、シンプルに醤油と七味を振った。
一人で飲むときなど、こんなものだ。テーブルに並べたのは、彩も何もない、味気のない物ばかり。それでも形だけは並べて置きたかった。新しいビールを出して、母の写真を起こす。明日も、私は一人だ。深酒しても、誰にも咎められやしない。
「お母さん、ごめんね」
征嗣さんとの関係が続く中で、最も後悔する瞬間。初めは、壁に向けていただけの写真も、こうするようになっていた。惨めで無様な娘など、本当に見せたくなかったのだと思う。母の優しい笑顔を見つめながら、私は無意識に腹を擦っていた。
「今日は少なかったな」
征嗣さんは、何も言わずに私を抱いた。愛があったのかは分からない。ただ抱きながら、残っていた傷跡を噛んだ。苛立ちと言うよりも、愛撫のような優しさで。誰もいない部屋。私は一人ぼっちで、酒を煽る。並べてあるつまみは、何も減らない。
「優しさとは、違うか……」
虚しい言葉が、夕陽の入る部屋に消えてた。フフッと、一人乾いた笑い声を零す。馬鹿みたい、と思いながらも、私は征嗣さんのことを考えていた。いつもよりも穏やかなセックス。昔の様な甘い時間が在った訳ではないが、確かに彼は私を悦ばせようとした。征嗣さんもまた不安なのだ。築いて来た生活が変わっていくことが。
でも本当は、私たちが築いて来た物なんか、彼が結婚を選択した時に崩壊している。それでも私は、現実に目を伏せ、どうにかこの生活を正当化しようとしていた。許されないことをしている。それは分かっていても、『家族愛とは違う愛』があると信じていた。無碍にされても、心が冷めていっても、確かに支えられていたのだ。
「バッカみたい……」
また酒を煽った。缶ビールなど直ぐになくなる。ただ、どれだけ飲んでも、今日は酔えそうになかった。
私はずっと、籠の中の鳥だった。それでも、誰かが心配して見ていてくれることが、確かに私を安心させた。ピィピィと小さな鳴き声を上げても、誰も見向きもしない。羽が抜けても、誰も気付かない。それが当たり前の時間だったのだ。だから、成瀬くんがそれに気付いた時、私は本当に怖かった。急に大空へ舞え、と言われても、飛び方が分からなかったのだ。そんなこと、やってみようと思ったことがないから。大事に大事に籠に仕舞われて、時々愛して貰える。その生活が壊れる時は、私も消えてなくなるのだと思っていた。飛び方は、正しいか分からない。失敗して、落ちてしまうかも知れない。それでも、見守ってくれる人が居る。成瀬くんだけじゃない。緋菜ちゃんや昌平くんも、何も知らないままに私を迎え入れてくれる。
だから私は、この鳥籠から飛び立ちたい。葛藤を繰り返して、振出しに戻ったとしても、それでも前に進もうと思っている。何かを取り戻す為に。
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