第三話 私は籠の中の鳥(中)

 玄関を開けるといつものように、征嗣さんはスッと身を滑り込ませて来る。彼を追いかけるように、びゅうッと音を立てて入り込む冷たい風。それを遮断するように、征嗣さんは即座に閉めた。まるで外と私を遮るように。バタン、と閉まる音が、私の緊張を押し上げる。何とかそれをグッと内側に押し込んで、私は彼を笑顔で出迎えた。


「征嗣さん、どうしたの?いつもお正月なんて、来たことないじゃない」


 コートを脱ぎながら、「あぁ、そうだけど」と答える顔は、完全にムスッとしている。私は、会いたいなんて言っていない。勝手に来たくせに。そう思っても、今日は絶対に口にしない。もう覚悟を決めたのだ。


「コーヒーで良い?私も淹れ直そう。あ、そうだ。私もね、グアテマラ買ってみたの。ケニアの後だからかなぁ。フルーティな感じがあって、飲みやすかった」

「おぉ、良かった」


 征嗣さんは、変わらない私に安堵したのか、困惑したのか。どこか無表情で、いつものところに座る。そして、大きな肩を前に丸く窄めて、爪の先何かを弄っていた。元来小心者の彼は、何かに不安になると、あぁやってちまちまと指先を弄る。落ち着かないのだ。私はそれに気付かぬふりをして、彼に背を向けたまま、ゆっくりとコーヒーを落とし始めた。


「なぁ、陽」

「んん、なぁに」

「あの男……成瀬と言ったか。彼とは会っているのかい」

「成瀬くん?元旦に会ったよ。お正月だから皆でね、初詣に行ったの。会っているか、なんて変な言い方しないでよ。何人か居た中の一人、というだけなんだから」


 そうか、と何だか力のない返事が聞こえる。私の返答に納得はいっていないのだろう。だけれども、昨夜私が強く出たからなのか、彼は詰め寄るような質問はぶつけて来ない。それに、ここに座れ、と私を呼びつける様子もない。機嫌が良い訳ではなかろうが、これまで成瀬くんの話題が出た時とは違う。苛立ちのような棘は、まだ見られていない。強く出て来ないのは、成瀬くんからのメールも関係があるのかも知れない。

 征嗣さんは黙り込んで、また爪先を弄る。多分、不安なのだろう。この関係が壊されていくことが。


「征嗣さん。ねぇ。今日は流石に、ゆっくりは出来ないでしょう?」

「え、あぁまぁそうだな」

「そうだよね。うん……綺麗な奥さんと可愛い娘さん、待ってるもんね」

「陽、それは」

「あぁ、うん。分かってる。ごめん、ごめん。来てくれて、有難う」


 マグカップを持って、苦笑を貼り付けながら振り返る。征嗣さんはまだ肩を丸めたままで、私をじっと見ていた。コーヒーを押し付けるように渡して、私も腰を下ろす。美味しく淹れられたかな、なんて可愛い子ぶりながら。


「征嗣さん。昨夜は心配かけてごめんなさい」

「あぁ、いいんだ。俺が勝手に心配しただけだ。その、すまなかった」

「いえいえ、心配してくれて有難う。でもね……私、思ったんだよね」

「ん、何を?」

「私って、一人ぼっちじゃない?だから私が居なくなったとしても、仕事が始まらないと、誰も気が付かないんだなぁって。家族、って言うのは良く分からないけれど、そういうことに気が付いてくれる人、誰もいないんだなぁって」


 それは事実だった。昨夜彼は、事件や事故の心配をしている訳ではなかったと思う。だけれども、実際にそんなことがあっても、誰も気が付かない。私一人消えてしまっても、誰も気が付いてはくれない。そんな寂ししい存在であるのは、事実なのだ。征嗣さんはカップを口に運ぼうとしたのを止めて、神妙な顔をして固まっている。


「だから、征嗣さんが心配してくれたのは、嬉しかったよ」

「そうか。なら良かった」

「うん。でもね、同時に不安にもなっちゃった」


 こんな不安は、常に私を取り巻いている。今に始まったことではない。母が死んで、一人きりになって。征嗣さんが居てくれたけれど、呆気なく結婚された。私は、こんな不安をいつも持っているのだ。でも、征嗣さんは何も気がついては居なかったのだろう。不安、と繰り返して零し、無表情のまま目を泳がせている。


「そう。だって、仮に私が助けを呼んでも、征嗣さんは直ぐに駆けつけては来られない。そもそも、きっと電話にすら出られないだろうから」

「それは……」

「あぁ、ごめんなさい。責めるつもりなんじゃないの。でも、そういう時の為に、私はもう少しお友達は作った方が良いのかなって」


 思ってもないことを言われたのだろう。征嗣さんは小さな声で、確かにな、と言った。心から思って出た言葉と言うよりも、驚きに言わされたようなものだろう。顎の右側を掻きながら、何かを考えている。自分の中の整合性を取っているのかも知れない。


「でもさ、いつもなら電話をして来ない陽がかけて来るなら、俺はきっと出るよ。うん。仮に家にいたとしても。緊急な感じするじゃん」

「本当に?夜中でも?」

「夜中?」

「そうよ。だって、具合が悪くなるのって、夜中が多いじゃない。まぁ救急車を呼ぶのが先だろうけれど」


 彼は今、完全に困惑している。何故なら、今までこんな話をしたことなどないからだ。彼が私を噛むようになる前は、いつも二人で本を読んだり、講義のような議論をしたりしていた。征嗣さんの家族の話も、私の将来の話もしない。昔はあったかも知れないが、彼が結婚をしてからは、そういう話は互いに避けるようになっていた。


「征嗣さん。私、今年はお友達を作ろうと思うの。この年になって、小学生みたいな目標だけれど。それはきっとね、私自身の為でもあるけれど、二人の為にもなると思う」

「俺たち、ってこと?」

「そう。だって征嗣さんしか居なかったら、私はこれから先、ずっと征嗣さんに縋ってしまう。そんな状態になってしまったら、いつかあの幸せな家庭を壊してしまいそうで。そんなことはしたくないし、あなたも嫌でしょう?」


 まぁな、と言いながら、カップを大きな手で包み込む。もう既に壊している気はするけれど、彼は何も感じてはいないらしい。感じないからこそ、私との関係を維持したまま、結婚が出来たのだろうが。


「友達って言ったって、どうする気だ」

「そうねぇ。一先ずはね、ほら、万年筆仲間ともう少し仲良くしてみようかな。それこそ、成瀬くんとか。征嗣さんも相手の素性を知ってるから、安心じゃない?」

「成瀬……か。まぁ確かに、彼の勤務先も知ってるしな。上司も知ってる。そういう意味では、ちゃんとした奴だと思うけどさ」

「ほら、あの時。征嗣さん言ってたじゃない。彼は素直な子だ、だっけ?」


 自分で言ったことを覚えているとは思っていない。あの時は、全て上辺を取り繕っていただけだ。本心では、成瀬くんを『危険な奴』だと思っているのだろうから。


「征嗣さん。別に彼とだけ仲良くしようってことじゃなくてね。出来れば、女の子のお友達も作りたいなぁって思ってて」

「なるほどな……まぁ同性の友人が居るのは良いことだと思うよ」

「うん、有難う。今年の目標、頑張ります」


 へへッと笑って見せた。同性の友人なら良いのか。そう、冷めた目を持ちながら。すると征嗣さんは、一瞬の躊躇いを持った後で、私を抱き締めた。何かを捻り潰すような勢いで。

 私はそのまま、彼に身を委ねた。何も言わず、重なる唇。髪の中に手を入れながら、絡まり始める舌。それから先にあることは、一つだけだった。

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