第三話 私は籠の中の鳥(上)
『陽さん。昌平と喧嘩しちゃった』
メッセージを受信したと、ポップアップが立ち上がる。私はつい、それを見て溜息を零した。喧嘩をした、とだけ言われて、私に何を望んでいるのだろう。愚痴を聞いて慰めて欲しいのか。解決策を探りたいのか。それとも、仲裁に入って欲しいのか。喧嘩をした、という事象を告げられただけで、私はその裏まで読み取って返事をしなければならないのだろうか。そう思うとまた、溜息を零した。
好きな人と喧嘩をして、緋菜ちゃんにしてみたら一大事だろう。だけれども、昌平くんもまた片想いをしているはずだ。そちら側からの訴えかけは何もない。つまり、緋菜ちゃんが何かをしてしまった。そういうことだろうと思った。
それでも私の大事な友人である。本当ならば、大丈夫?と直ぐに返してあげたいけれど、今の私にその余裕などなかった。申し訳なく思いながらも、私は静かに携帯の電源を落とした。
「とにかく考えなくっちゃ」
私はドリッパーから落ちていくコーヒーを見つめながら、これからどうするかを必死に考えていたところだった。今日一日のうちに、色んな判断の先を考えていかなければならないからだ。何手先までも考えて、頭に経路を描いては、行き詰って抹消する。そんなことを必死にやっているのだ。メモを取ってはいけない。形跡を残しては、いつ見つけられてしまうか分からない。だから、自分の脳みそをフル回転させているのである。
そもそも、どうしてここまで急を要しているのか。それは、昨夜まで遡る。家に帰り、まず目にしたのは未読のままの本。それを読もうか悩んだが、まずはゆっくりお風呂に入ろう、そう思った時だった。鳴るはずのない電話が鳴ったのだ。征嗣さんから、である――――
「陽、どこ行ってた」
「ん、近所の居酒屋だよ。お正月だからね、たまにはと思って。あ、明けましておめでとうございます」
疑っているのは直ぐに分かった。だけれども、躊躇ったりしてはいけない。素直に正直に話す。成瀬くんだけを透明人間にして。
「誰かと一緒だったのか」
あぁやっぱり始まった。家族と離れる時間をわざわざ作ってまで、こうして探りを入れて来る。目の前に居ないからか、私はあからさまな溜息を吐いていた。
「一人で、って言いましたよね?征嗣さんは私を信じてくれないの?」
「いや、そう言う訳じゃない」
「じゃあ、何?どう言う訳?私はお休みの間、一歩も外に出ずに、誰とも会わずに居ろって。本当は、そう思ってるのよね」
電話の向こうで彼が、焦り始めたのが分かった。お酒が入っているのを良いことに、私がいつになく彼に反抗した。ここまで強気に言い返したことなど、確か今まではなかったはずだ。
「陽。俺は心配してるんだよ」
「うん。それは、有難うございます」
「一人で飲み歩いて、何かあったらいけないだろう?」
何かあったら、か。この場合、痴漢だとか物取りだとか、そういう犯罪を指している訳ではないだろう。多分、こういうことだ。
「それは、もし酔っ払って他の男のところへ行ったら、って言いたいの?」
「そういうことを言ってないだろ」
「自分は結婚したくせに……酷いよ」
「陽。それは」
「残念だけれど、それはないわ。安心して。こんな体、引かれて終わりなんだから」
呆れ口調で言ってしまった後で、失敗したことに気付く。こんな体にしておけば、そんなことは起きない。彼はそう学習するだろう。珍しく苛立ちをぶつけていたら、言わなくてもいいことを言ってしまった。征嗣さんからは、直ぐに答えは返って来ない。少し冷静にならなければ。電話を少し離して、薄い深呼吸をする。
「とにかく、征嗣さん。心配してくれて、有難うございます。でも、今そんな時間ないでしょ?大丈夫だから」
「そう、か?」
「うん。もう私も、お家だし。ね?心配かけて、ごめんなさい」
「いや、それなら良いんだ」
おやすみなさい、と出来るだけ可愛らしい声を出した。少しでも彼が安堵してくれるように。今はお酒が入っているから、安易な計画を立ててもミスが出る。今日は何も仕掛けない方がいい。そう判断していたのだった――――
「あぁ失敗したなぁ……」
独りごちた後悔は、昨夜の自分が言ってしまったことにである。『こんな体、引かれて終わり』だなんて、本当のことを言ってしまった。征嗣さんは、自分のシルシを残せば他の男とは寝ない、と思ったろうか。だからと言って、急に会わないことは無理がある。仕事に響くことだけは避けたい。どうするか。コーヒーを落とし終え、テーブルへ運ぶ。香ばしい香りを吸い込みながら、どんよりとした重たい現実が、頭の中でクルクルと回った。
「とにかく、一番気を付けなけないのは、成瀬くんのこと。征嗣さんはきっと、結び付けて来るだろうから、私は私でしっかりと気を持たなきゃ」
パシンと頬を叩いてから、コーヒーを啜った。グアテマラコーヒーの花のような香りが、部屋中に広がって行く。結局、征嗣さんが飲んでいる豆を選んで買ってしまった私。本当に別れることが出来るのか、自分が一番懐疑的だった。
昨日、私は何と彼に言ったか。それを順繰りに思い出そうとしている。誰かと一緒だったか、と聞かれ、一人で、と少し怒った。休みの間私は、
「あっ、確か……」
征嗣さんは結婚したくせに、と言ったような気がした。あの時、征嗣さんはどうだった?怒ってはいなかったはずだ。口調が怖かった記憶はない。それならば、それを理由にしよう。ズルい、と思っているのは事実だ。自分だけ幸せな家庭を作って、私は何時までも鳥籠の中だなんて。
私だって幸せになりたい。私だって温かな家庭が欲しい。それをそのまま素直に、伝えたら?本当にそんな人生が欲しいのだ、と思わせられるように言えたら?やってみないことには、正直分からない。分からないけれど、「別れてください」とだけ言い続けるよりは良い気がする。征嗣さんだって人の子だし、人の親だ。それを聞いて踏み潰すほど、彼は鬼にはなっていないはず。コーヒーをまた一口飲んで、柔らかく息を吐いた。そしてまだ頭の中は、その何手も先を計算している。これもまた、行き詰ってしまうかも知れない。けれどもう、引き返すことは出来ないのだ。
暖かくなる頃には、状況は変わってるかな。成瀬くんが、大丈夫だって言ってくれた。それを信じたい。信じよう。自分の中に芽生えていた、新しい信念。年が明けて、何だか丁度良い気がする。コーヒーを口元に運びながら、フフッと小さな笑みが零れた。少し気持ちが整った気がした。本を読んで、掃除をしよう。
「よしっ」
そう口角を上げた時、インターホンが鳴った。バクバクと心臓の音が、一気に大きくなる。私の家に来る人なんて、限られている。こんな昼間。緋菜ちゃんではない。
「征嗣、さん」
モニターに映し出されたのは、見慣れた征嗣さんの難しい顔。たった今、別れよう、と心に強く思った彼だ。
「征嗣さん、どうしたの?」
「いや、心配になって」
「来てくれたの?」
「おぉ」
「寒いでしょう?上がって」
心を決めて、私はロックを解除した。出来るだけ、いつものように彼を迎えよう。母の写真を伏せて、またバシッと頬を叩いた。
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