第一話 俺の家族(下)
「お兄ちゃん、次はいつ来る?」
「あぁそうだなぁ。夏かな。あぁそうだ。奏介、春休みになったら楓とおいで」
「本当?」
「えぇ、ヤダよぉ」
一瞬で乗り気になった奏介と、一瞬でしかめっ面になった楓。幾つになっても二人は、仲が良いのか悪いの分からない。ただ言えることは、親から離れれば、ちゃんと楓は『お姉ちゃん』だと言うこと。俺の家に来る時も、奏介が迷子にならないようにして。疲れて、よく眠る。父さんや千代さんは知らない顔だろう。
「楓、ちゃんと分量通りに量って作れよ。そうすれば大丈夫だから」
「うん、分かった」
「お兄ちゃん、またホットケーキ焼いてね」
「はいはい。また今度な」
奏介はニィッと口を広げて、頷く。あれだけ申し訳なさそうにしてた千代さんも、一緒になって頷いている。彼女も多少は、気に入ったのだろうか。
ホットケーキはごく弱火でじっくりと。そう言った俺に、千代さんは完全に驚いた表情を見せたのだ。それを見て顔には出さなかったが、俺は大分驚いた。ミックス粉を買えば、大抵は作り方の欄に記載されている。それをきっと読みもせずに、適当にガッと強めの火で焼いていたのだろう。彼女のことだ。俺でも何となくは、想像が付いた。つまり、楓がレシピを確認せずに勘で動こうとするのは、遺伝ということだろう。
「じゃあ、また」
「昌平くん、色々有難うね。気を付けて」
「お兄ちゃんまたね」
「昌平、気を付けて帰れよ」
父の言葉に笑い返して、俺は実家を後にした。手を振ったまま門まで出て来た奏介に、俺も振り返す。そう広くない住宅地だ。直ぐやって来る角を曲がれば、もう振り返っても家は見えない。久しぶりに楽しかったな、なんて思いながら、俺は駅まで歩き始めた。
あれから、ホットケーキを皆で食べた。久しぶりに俺の作った物を父さんが食べているのは、少し照れ臭かったな。それからデリバリーのピザを取って、奏介とゲーム。それから、妹弟の学校の話と勉強。日が暮れるまで、何だかあっという間だった。夕飯も食べて行けば?と千代さんは言ってくれた。けれど俺は、それをやんわりと断った。酒が入れば父さんは、きっとアレを言い始めるだろうからだ。
「何だかな……」
帰っても結局、一番話をしないのは父だった。いつからこんなに、俺たちの会話はなくなってしまったのだろう。二人で暮らしていた時の方が、ずっと互いの話をしていた。父さんは今日こんなことがあったよ。そう笑って話してくれる時間が好きだった。俺も、学校の話や授業の分からなかったこと、色々話したし、教えてもらったのに。思い出す父さんの顔は、その時のまま。ちょっと小憎たらしい笑みを見せる。俺は思い出の中を歩いているようだった。
「おい、おい。昌平」
急に掛けられた声に振り返る。そこに居たのは、どう見ても父。上着は羽織っているものの、サンダル履きの父である。
「何、どうしたの」
「あぁ、いや。煙草をな。買いに行こうかなってさ」
「へぇ……父さん、煙草止めなかったっけ」
「それは、まぁ」
結局、アレを言うために俺を追って来たのだろう。止めたはずの煙草を買うなんて言い訳をして。何だかな、とまた思って、小さく溜息を吐いた。
気不味さを持ちながら、俺たちは並んで歩き始める。父と二人でこうして歩くのはいつぶりだろう。何だかちょっと、父さんが小さくなったように見えた。
「仕事、忙しいのか」
「あぁ。まぁあまり変わらないよ。新年度になればまた、子供は入って来るしね。その繰り返し。父さんは?」
「俺も変わんないさ。定年後どうするのか、なんて同期と話したりしてな。そんな話題が増えてきたくらいだ」
「そっかぁ」
何かしたいことあるの?と聞こうと思ったが、避けては通れない千代さん。俺が『千代さん』と言ってしまったら、きっとまた始まる。それが面倒で、避けたくて、俺は会話自体をぼやかして濁していた。昌平、と父さんが俺を呼ぶ。結局避けていても始まるのか、と半ば諦め始める俺。人生、嫌なことばかり避けては通れない、ということだ。
「なぁお前、何か悩み事あるんだろ」
「は?何で」
父さんが言ったのは、想定外の話だった。千代さんのことではない。ただ心配そうに俺を見上げてから、フワッと柔和な顔を見せる。
「いや、そんな気がしただけだ。三十年近くお前の親をしてればな、何となく分かるんだよ。どうせ、彼女のことだろう?」
そう言いながら今度は、小憎たらしい顔をして俺のことを見た。それは少しだけ、あの頃の、二人であれこれ話が出来た時の、父さんを見たようだった。
「彼女じゃねぇよ」
「ほぉ。でも、女の話だな。昌平は昔からキチッとしてたからなぁ。相手の雑なとこでも見て、嫌になったか」
「う、そんなんじゃねぇよ。何だよ、急に」
親に恋愛の話を指摘される程、嫌な物はない。結婚は未だか、と言われている方がずっとマシだ。こういう具体的な話は、触れて欲しくはない物である。
「いやなぁ。さっきの見てたら、昔のこと思い出しちゃってなぁ」
「昔?」
「そう。キチッとグラムを量って、ホットケーキを焼いてた。子供の頃からそうだったな。お前は。調理実習でちゃんと量らないでやろうとした子と、喧嘩したりな。そう言うの嫌いだったなぁってさ。思い出して」
父さんは、昔話に目を細めた。彼の中に色濃く残っているのは、やっぱり二人で暮らしていた頃の俺。二人だけで、歯を食いしばって生きていたあの頃。千代さんと楓が加わって、その力みは薄れていったけれど、こうして二人で話し始めれば、あの頃が一番の思い出ということだ。
「なぁ。昌平」
「ん?」
「お前のな、そういう所。アイツに、母さんにそっくりなんだよ。お前は覚えてないだろうけど、よく同じようにお菓子を作ってた。パンが膨らんでくのを良くじっと見てたなぁ」
父さんの言う「母さん」と言うのは、この場合、俺を生んだ母親と言うことだろう。残念ながら俺には、その母親の記憶はほぼない。幼稚園の頃に出て行った、と思う。それすら定かでないその人と、俺が似ている。遺伝子、という物の悪戯だろうか。いまいちピンと来ることもなく、父さんの言うその話は、今まで感じたことのないような感情を俺に持たせた。
そうなんだ、と何とか吐き出した声も、どこか震えている。知らなかったとは言え、もしかしたら、俺がお菓子を作ることで父さんを苦しめていたのではないか。そんな罪悪感に苛まれ始めていた。
「千代が来てから、あまりお菓子作らなくなったんだよな。今でも覚えてるよ。再婚して初めての俺の誕生日のこと」
「父さんの誕生日?」
「そう。それまでは昌平が焼いてくれてたケーキが、見事に買った物に変わった。それが何とも言えなくてな。自分で再婚しといてなんだけど、ショックだったと言うか。昌平に可哀相なことをしたんじゃないかってな」
苦笑する父さんは、少し老けて見えた。薄っすら涙を溜めたような目で、その当時を思い出している。俺にはそう見えていた。
「昌平。今でもお菓子を作るのは好きか?」
「ん……そう、だね。飯を作るよりは、ケーキを焼いた方が得意だと思う」
「そっか。そうかぁ」
少し躊躇いがあった。その母親――俺を生んだ人を、父が思い出している。俺の苦しみを知らないくせに。どこかで俺は、父さんを恨んでいた。だけれども、父は父で苦しかったのだ。
「なぁ、昌平。父さんが再婚したのは、勿論千代と一緒に居たいって思ったこともあったけれど、お前にお母さんという愛情を感じて欲しかったんだよな。でもそれもさ、俺の勝手だったなぁ。お前は『千代さん』のままだし」
その話が始まると、俺は分かりやすいくらいに拒否反応を示した。父さんを見られない。
「今日お前たちを見てて、思ったんだ。あぁ別に『お母さん』って呼ばなくたって、ちゃんと家族になってんだなぁって。昌平、今まで押し付けて悪かったな」
「え、あぁ。うん。俺はさ、別に千代さんのこと嫌いじゃないし。学校のことも、父さんよりもやってくれたし。それは感謝してるんだ。ただ、俺には皆と同じような『母さん』じゃなかった。よく覚えちゃないけど、俺を生んだ人だけが、俺の『母さん』なんだと思う」
言葉にして、そんなことを思っていたのか、と自分で思う。俺を生んだ人の記憶はない。それなのに、俺はそう思っていたんだ。父さんは驚いたようにも見えたけれど、そうだな、と小さく頷いた。
「あ、父さん。俺さ、やってみたいことがあるんだけど」
「何だよ。改まって」
「あそこ」
駅まであと少し、と言うところで目に入ったのは、見慣れたチェーンの居酒屋。それを俺は指差して言った。「俺、父さんと酒が飲みたい」と。成人した後も、俺は日帰りで数時間しか帰って来たことがない。良く言う、父親と酒を飲むあの儀式をやったことがないのだ。
「そうか。うん。そうか……何だよ、デカくなりやがって」
「幾つだと思ってんだよ」
「ん、小学生」
あ?と怪訝な顔をしたが、本当に父の記憶の俺は、そのくらいで止まっているのかも知れない。変な話だけれど。
暖簾を潜り、席に通される。ビール、と言おうと思ったが、先に父が熱燗を頼んだ。だから、俺は黙ってそれを受け入れる。父さんにも、息子と酒を飲む幻想があったかも知れないから。
「昌平。好きな物頼め。俺は何でも良いから」
「うん。あ、でも揚げ物はもたれるでしょ?」
「馬鹿にしやがって……でもさっぱり目が良いな、父さんは」
「はいはい」
こんな風にただの談笑をするのも、本当に久しぶりで、自然と顔が綻ぶ。色々話をしながら、身を寄せ合っていた、あの頃のような気になるのだ。父さんはどうだろうか。メニューから顔を上げると、父は携帯を懸命に操作している。あぁ、もう父さんも老眼なんだな。俺は、それにすら気が付けていなかった。反省すべきは自分にもあるんだ。
「大丈夫?見えるの?」
「おぉ。お前泊ってくだろ?千代に布団敷いといてって」
「いや、帰るって」
そんなに長居するつもりで誘ったわけじゃない。それなのに、「はい、もう送っちゃった。さ、今日は飲むぞ」と父さんが嬉しそうに笑うのだ。
「んだよ、しょうがねぇな」
そう言う俺も、ちょっと笑っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます