第一話 俺の家族(中)

「いいか。分量通りに量る。余計なことはしない。欲張らない。これは守ること」

「はい」


 しっかりと返事をした妹は、何も確認をせず直ぐに、粉の袋を開けようとする。慌ててそれを止め、何より先に手を洗え、から始めることにした。前途は多難である。


「手を良く拭いて。それから、レシピを確認する。そもそもこの粉が何グラム入ってるのか分かってるか」

「ううん、分かってない」

「だろうな……」


 こうなる事など目に見えていた。クッキーの作り方を教えて、と言った楓。つまりそれは、後々一人で再現することになるだろう。だから最も簡単に出来る物として、ホットケーキミックスを選択した訳だ。いざと言う時に電話で泣き付かれても、困るのは俺だ。結局は、自己防衛の策である。

 今のところは、楓は素直に俺の言うことを聞いている。言われた通りにレシピを見て、ミックス粉の表示を確認するのだ。たかがそれだけでも、おぉ楓が成長している、と感じられるのだから可笑しな話だ。電子量りを用意して、ボウルを乗せ、いちいち「よし、出来た」と言っている。まだ可愛いもんだな。下手したら、奏介に教えても同じかも知れない。


「四十グラム……あ、二グラム多い。まぁいっか」

「ちょっ、待て、待て。俺は何て言った?」

「余計なことはしない。えぇと、欲張らない……」

「楓、一番大事なことだ。分量通り量る。お菓子はな、その二グラムが味を台無しにする。料理みたいに、後から作り変えることは難しいだろ?」

「あぁそうか。うん。分かった」


 感心していたのに、ちょっとでも目を離すとこれだ。たかがミックス粉を使ったクッキーだと、侮ってはいけない。溜息を吐いた俺と目が合ったのは、ソファに座った千代さん。口元はパクパクと、ごめんね、と言い表している。父さんと奏介がトランプをしているのを見ながら、何度も何度もこちらを心配そうにチラチラ見ていたのだ。楓は彼女によく似ている。だからこそ心配なのだろうと思う。俺は特に、そんなことは気にしていないけれど。

 そうして苦笑いで応じながらも、俺は父さんに目をやった。今のところは、玄関で正月の挨拶をしたくらい。いつものアレは言われていない。今日も言われるのだろう。緋菜のこともあるし、俺だって頭の中は忙しいんだけどな。父さんは、俺が千代さんを「おかあさん」と呼べるまで、幾つになっても言い続けるのだと思う。それを思うと、やっぱり窮屈で仕方ない。


「量れた。次は……混ぜるって、何で混ぜればいい?」

「ある程度までは、ゴムベラ使うと良いよ。纏まって来たら、手で捏ねる」

「分かった」


 楓は意外と軌道を逸れずにいる。彼女が大人になって来たということも、それから恋をしていることも、きっと関係しているのだろう。確実に楓は、いつも教えるよりも集中していて、やる気を出している。見ている方はいつまでもヒヤヒヤしていなければならないが、それも巣立つまでに通る道なのだ。


「あ、手で捏ね始めて良い頃だよ。見た目がどう変わったか、ちゃんと覚えておけ。一人で作る時に慌てるから」

「分かった。じゃあ写真撮っておこう」

「お、そうだな。それなら自分で確認しながら作れるな」


 携帯と言う便利機器に感謝だ。これこそ、電話で聞かれても疎通が出来ると思えない案件である。


「携帯触ったら、また手を洗えよ」

「えぇ……面倒臭い」

「食う人の気持ちになれ、まったく。携帯だって綺麗じゃねぇんだぞ」


 直ぐ手を抜こうとする。楓は結局、楓だ。大人になって来たと思っても、地の性格が変わる訳ではない。それはそうか。俺だって、子供のころから何か変わった訳でもない。父子家庭だった頃から、何でも我慢をする子だった。素直に「あれが欲しい」と手が伸ばせなかった。それは今でも、変わっていないんだと思う。そう言えたら、何か変わるのだろうか。欲しい物は欲しいと主張出来たら、何が見えたのだろうか。そう考えることもあるが、結局俺は言えないまま、子供の頃よりもずっとドライになっただけだった。


「楓、そんなに力入れなくて良いから。もう少し優しくやってごらん」

「だって……」

「大丈夫。優しくやっても、上手く焼けるから」

「うん。分かった」


 目一杯の力を込めて捏ねていた楓。しっかり捏ねないと、という考えが働いたのだろう。俺の言葉に少しだけ力は弱まった気がするが、それでもまだ手に力が入っていた。楓は失敗したくないのだ。上手にやって、褒められたい。幾つになってもそれは、見え隠れしている。

 そんな妹を見ていて、俺はまた、緋菜を思い出していた。やっぱりアイツは、楓と似ているのだ。懸命にやろうとするのは、失敗したくないから。負けたくないから。それに改めて気が付けば、やっぱり緋菜は友人のままであるべきだと思った。楓は妹だ。彼女が我慢をして来たのも知っている。だから、つい甘やかしてしまうが、緋菜はそうしていてはいけない。俺は、アイツの兄貴になりたい訳じゃない。今までの感情は嘘ではないだろう。だけれど、少しずつ引き始めている自分の感情も、嘘ではないのだ。


「お兄ちゃん、このくらいでどう?」

「じゃあ、そこにチョコチップを入れて」

「うんうん。この袋のやつね」

「そう。そうしたら、また手を洗って、オーブンの予熱をする」


 本当はもう少し早く予熱を始めたかったが、この後もスムーズにいくとは思えない。ここまで来ると、楓は手を洗うことに、いちいち文句を言わなくなった。段々形になって行く生地を見て、嬉しくなってきたのかも知れないな。


「予熱したよ。そしたらまた捏ねるの?」

「捏ねる、と言うか、混ぜるかな。チョコがバランス良く行くように」

「ふんふん」


 明らかに嬉しそうな表情でチョコを混ぜ込む楓。上手く混ざったところで、成形しよう、と楓を止める。俺は手を洗い、一つ丸めて見本を作って見せた。楓はそれを写真に撮ると、自ら手を洗って、同じように丸め出す。チラリと目を合わせた千代さんも、何だか嬉しそうに微笑んだ。


「お姉ちゃん、出来た?」

「まだだよ。奏介、触っちゃダメよ。あんた、手を洗ってないでしょう?」


 トランプを終えて駆け寄ってきた弟に、数十分前に自分が言われていたようなことを言う。ちょっと偉そうに。奏介は、何だよぉ、とムスッとしながらも、直ぐにキラキラした目で丸められるクッキーを見つめた。まだ可愛いもんだ。楓も、奏介も。


「お兄ちゃん、ねぇ。ホットケーキ作って」

「ん、腹減ったか?お昼食えなくなるぞ」

「大丈夫だって。ねぇ、お母さん。いい?」


 奏介は千代さんに問い掛ける。俺に頼んで良いのか悩んだのだろうか。千代さんは即答せずに、そうねぇ、と濁してしまう。その後ろで、父さんがそれをじっと見ているのが気になった。


「千代さん。ミックス粉使っちゃっても平気?」

「あぁ、うん。大丈夫」

「よし、じゃあ奏介。兄ちゃんが、フッカフカの作ってやろう」

「本当?やった」

「楓は、そのまま生地全部丸めて。ここにいるから、分かんなきゃ聞けよ」


 楓が頷いたのを確認して、俺は大きめのボウルを取り出した。粉は二袋。それから、卵と牛乳。覗いた冷蔵庫には、ヨーグルトはない。それならば、と手にしたのはマヨネーズ。


「マヨネーズ?お父さん、お母さん。ねぇ見て。お兄ちゃん、マヨネーズ入れるんだって」

「えぇ?ちょ、ちょっと待って。昌平くん」

「え?あ、はい」

「あぁいや、私も……その。一緒にやっても」


 酷く申し訳なさそうな顔をして、千代さんはキッチンへ来るとそう言った。俺はびっくりして、二、三度瞬きをしてから頷く。勿論、と。まさかこんなことになるとは思っていなかった。そこまで広くないキッチンに、四人立つ。即席の料理教室のようだった。千代さんと奏介は嬉しそうに手を洗うと、「昌平先生、宜しくお願いします」と頭を下げた。何だか仕事のようだが、俺もそれに乗っかることにした。


「はい、では始めますよ」

「はぁい」


 元気に返事をする奏介と、緊張気味の千代さん。楓も二人を見てニッコリ微笑むと、俺と目を合わせる。何だか、本当の家族みたいだなって思った。

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