第一話 俺の家族(上)

 実家の最寄り駅まで、あと二駅というところ。正月三日の朝。下り電車など空いている。周りの客は大概、鞄の脇に土産物屋の紙袋を置き、席に着いてウトウトしている。彼らも実家に帰るのだろうか。俺は何となくそれを視界に入れながら、俺は昨日の出来事を思い出していた。

 昨日のこと、いや正確には緋菜のことである。


 瑠衣先生に会ったのは、本当に偶然だった。仕事中に頬の緩みを何度も指摘されていた訳だ。彼女には、緋菜と居るところを見られたくなかった。茶化されるのは目に見えている。目配せをしてみたが、彼女は既に好奇の目。だから、緋菜から遠ざけて言ったのだ。「今本当に微妙な所だから、余計なことは絶対しないで」と。確かに少しは茶化そうとしたものの、そこは流石に大人だ。緋菜の様子を見てから、俺の状況を察してくれた。手ぐらい繋いだら?とか言い始めたのは面倒だったが、それでも緋菜に対して何かを嗾けたりはしなかった。だから俺は、彼女の背を見送って安堵したのである。それなのに。


「……んだよ、あの態度」


 つい、独り言が漏れた。一応キョロキョロしてみたが、寝入っている客に変わった様子はない。もしかすると薄目を開けているのかも知れないけれど、どうかそのまま知らぬフリをしていてくれ。俺は未だ、色々考えなくちゃいけないんだ。

 思い出し始めれば、直ぐに苛々が募る。緋菜のあの後の態度、言い草。一体、何なんだ。アイツはただの友人である。仮に恋愛感情があったとて、今の二人には関係がない。俺たちのは、あくまで友人なのだ。緋菜は一体、何を考えているのか。瑠衣先生が帰った後、アイツの言うことは全て酷かった。勝手に俺の気持ちを決め付ける。否定したって、聞く耳を持たない。一体、何が正解だったのだ。


「はぁ……」


 小さくも長い溜息。胸に溜まった鬱屈としたものを吐き出すために、態と零した。自分の中に確かに居たはずの恋心が、そうやってどんどん消えていく。また一駅過ぎて、よりそれがクリアになった気がしている。気持ちを伝える前で良かったのではないか。今のままならば、仲直りしたとしても、友人としてやっていける。あくまで、友人として。楓と変わらない、手のかかる妹のように。そう考えられれば、気持ちは少しだけ軽くなる。あぁ、俺は何が許せなかったのか。一つしか違わないのに、やけに子供っぽい所のある緋菜。その一面を目の当たりにして、何かが俺の中で弾けて消えた。そんなこと、分かっていたはずなのに。

 そもそも、緋菜は何を考えているのか。瑠衣先生を好きだと決め付け、勝手にお節介を焼こうとする。そんなことは頼んでもいないし、望んでもいない。まさか、ヤキモチでも妬いていたとでも言うのか。そう気が付けとでも、思っていたのか。それだとしたら、尚更面倒なだけだ。付き合ってもいない、俺たちはただの友人。百歩譲って、高校生ならまだしも、いい加減大人なのだ。


「ん……携帯、携帯」


 ポケットの中のバイブレーションにハッとする。気付けば電車は、最寄り駅に向けて速度を落とし始めたところだった。携帯を探り出し、俺は立ち上がる。目の前を過ぎていく景色は、今のところ変わってはいない。プシューッと音を立てて、ドアが開く。そうして、フッと思った。一度、冷静になろう。緋菜を好きだと思ってから、逸る気持ちがあったのは確かだ。けれど、この状況ではもう、同じ感情に戻れる気がしない。

 ホームに降りると、冷たい風がヒュッと襟元に入り込んで来る。何となく巻いて来たマフラーを、無意識にグルグルと巻き付けた。年明けの下り電車。朝も九時になるかどうかの時間である。人は疎らだ。俺は階段を上る手前で、携帯に届いたメッセージを確認する。『昨日はごめん』と書かれたそれは、緋菜からではない。瑠衣先生からだった。


『昨日はごめん』

『つい詮索したくなっちゃったけど、よく考えたら酷いわよね』

『ホントごめんなさい。大丈夫だった?』


 そう書かれたメッセージにホッとする。瑠衣先生は、大人だ。あれから考えたのだろう。余計なことをしたのではないか、と。

 それに反して、緋菜からは何も連絡はない。多分、アイツのことだ。俺から頭を下げるのを待っているのだろう。それもまたアイツの良くない所だ。今日は何だか、緋菜の悪い面ばかり思い出してしまう。改札を抜けながら、俺はまた溜息を吐いた。やはりこの恋は、一度終わりにしよう。せめても友人として、あの店で飲むくらいの相手だと思おう。心のどこかで、そう決め始めている。


「何、難しい顔してんの。お兄ちゃん」

「あ?」


 まだスッキリとしない気持ちのまま、家の方向へ足を向けたところで、急に話し掛けられた。今日ここまで早い時間に来なければならない理由、楓である。いつから待っていたのか楓は、ミニスカートを穿いて、寒い寒い、と手を擦っていた。


「寒いなら、もっと暖かい格好すればいいじゃん」

「煩いな。乙女はね、いつでも気を抜いたらいけない訳」

「あ、そうっすか。てか、別に迎えになんて来なくていいんだけど」

「分かってるよ」


 駅から徒歩で二十分ちょっと。バスに乗るかどうかの微妙な距離である。歩いて帰りながら、少し頭をスッキリさせようと思っていたが、どうもそれは叶わないらしい。妹がわざわざ迎えに来たということは、何か話でもあるのだ。それくらい、察している。奏介がどうの、学校がどうの。他愛もない話をしながら、ロータリーに出る。大きな駅ではない。住宅地の中の比較的新しく整えられた、ちょっと殺風景な駅である。


「で、どうした?兄ちゃんに何か言いたいことがあったんだろ?」

「え、あぁ……うん」


 驚いた声を上げる楓。俺が何も気付いていないと思っていたらしい。一瞬立ち止まったが、俺がそのまま歩き続けたから、小走りで並んだ。


「あのね、クッキーのこと。ありがと」

「ん、いや難題はこれからだぞ?」

「あぁ、うん。そうなんだろうけど。先に言っておこうと思って」

「お、おぉ。それはそれは、どうも」


 前もって礼を言おうと思った、ということのようだ。それをわざわざ?とも思ったけれど、思春期の難しい年頃。礼を言ってくれるだけでも、素直だな、と褒めてやらねばなるまいか。


「楓、好きな人出来たんだろ?」

「いや、それはさぁ」

「別に恥ずかしいことじゃねぇよ。お前も大人になり始めたんだ。そうやって成長してる。それで良いんだよ」

「う、うん。そっか」


 頭をグルグル撫で回したら、イィッとされたけれど可愛いもんだ。モジモジして、その彼のことを考えているのだろう。また素直に、有難うね、と言うのである。


「でもね、お母さんたちには言わないで欲しいの」

「あ、分かったよ。別に女同士だからって、ペラペラ報告しなくていいんだ。俺だって父さんに言ったこともねぇ。だけどな。千代さんは心配はしてると思うよ。楓は直ぐ一人で解決しようとするから。片想いをするのは自由だけどさ。もしもお付き合いするようなことになったら、それは千代さんに言ってごらん」


 うん、と小さく頷いた。楓は分かっているのだろう。千代さんが、どれだけ心配しているのか。だけれども、上手に伝えられないのだと思う。そのもどかしさが、そこにある気がした。


「直接言いにくいならな。メッセージを送るでも何でもいいと思うんだ。女同士で内緒話したいって。千代さん、察してくれると思うよ」

「そうか。うん……やってみる」

「まぁ、その前に上手くいかなきゃ意味がねぇけどな」

「うざっ」


 はいはい、と窘めながら、やっぱり緋菜はこの感覚に似ている気がした。妹と同じように、察してやらねばならない。そう言うのは、恋とは違うのではないか、と思い始める。ただ楓のように放っておけなくて、可愛らしく見えただけ。あぁ、恋ですらなかったのかも知れない。

 実際、ちゃんとドキドキしていたのに。そうやって理由を見つけては、あの思いを否定する。俺は自分の中から、緋菜へ持った感情を消し去りたいのだ。そうすれば、今まで通り友人で済むのだから。

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