第二話 私よ、笑え(上)
「緋菜ちゃん、何かあったね?さては」
「えぇ、何にもないですよぉ。何にも」
そういう私の顔は、微笑んでもいない気がした。聞いて来た先輩も何かを察して、「無理しなくても良いけど、笑顔、笑顔」と苦笑する。慌てて触れた頬は、無理に持ち上げているようで、ヒクヒク動いた。接客業だというのに、全く私の気分は接客する気になっていない。社会人としてダメだな、と自分で烙印を押しながら、また深く溜息を吐いた。
結局私は、どうにもこうにも、昨日のことが気に入らないのである。あの女――ルイよりも、昌平のことだ。あの様子では、彼は彼女のことが好きなのは明白だった。本当の同僚というだけなら、考える間もなく「恋愛対象ではない」と言えるはず。けれど彼は出来なかった。昌平からはあれから、何も連絡がない。ちょっといい感じだな、って思ったし、もしかして、なんて淡い期待をした。それは、私だけだったんだ。どうして?私よりも、ルイの方が良い。それは何?年上が好きってこと?私は何が負けてたの?夕べから何度も、昌平に連絡をしようとはした。このままじゃ駄目だって思ったから。けれど結局、出来なかった。私が、あの女に負けた。面白くないと思う感情が、それを阻んでいたのだ。
「いらっしゃいませ。今年も宜しくお願いします」
常連のお婆さんがやって来て、急いで笑顔を張り付ける。それでも頭の中は、グルグルグルグル、延々と昨日の悔しさが回っていた。
「はい。今年も宜しくお願いしますね。それでね、今日は、仏壇とお墓用のお線香貰いたいんだけれど」
「はい。いつもので宜しいですか」
「そうね。いつもので。急に変わったら、お爺さん驚いちゃうでしょう?」
そう言って彼女は、ふふふっ、と小さな声を発した。あぁきっと、今でも夫を想っているのだな。そう思えるような、そんな笑みだった。
どうしたらそんな風に思い合えるのだろう。亡くなったお爺さんがどうだったかは分からないけれど、それでも残された者がこんな風に微笑むなんて、生前に幸せな家庭が在ったに違いない。それをどうして、私は得ることが出来ないんだろう。
「お爺さんはねぇ、この匂い好きだったのよね」
「白檀ですか」
「そう。お仏壇にはいつもこの匂いがしていたの。ご先祖様にお線香をあげて、それから私たちもお茶をいただく。その時にはね、このふんわりとした匂いが、お部屋中に広がってね。今でもその時を思い出しちゃうのよね」
深く刻まれた皺の中で、細めた目が静かに開く。それから、手にしたいつものお線香に目をやり、また微笑んだ。あぁ、愛は未だにそこにある。そう感じさせるような、穏やかな笑みだった。
「三山さん。何かあったのかしら」
「へ、あっ。申し訳ありません」
また思い耽ってしまった。平謝りしながら、目をギュッと強く瞑る。しっかりしなくちゃ。たかだか昌平と喧嘩したくらいじゃない。顔を持ち上げ、出来る限りの笑顔を見せた。だけれども、そんな私に向けられた微笑みの方が、優しい眼差しをしている。
「お仕事だからね。本当は言っちゃいけないんだろうけれどね。笑えない日だって、あるわよねぇ。彼と喧嘩しちゃった?」
「いや、そういうわけでは」
お婆さんは商品に手を伸ばしながら、私に語り掛けている。不用意なお喋りと思わせない為の配慮、だろう。こういうとっさの判断に、人間の本当の優しさが出る気がする。
「喧嘩してしまったらね、謝ればいいのよ。自分は悪くないって思っててもね、謝っちゃうの。ごめんなさいって。素敵な言葉よね。たった六文字で、元通り仲良く出来るんだから」
お婆さんは私に、そう微笑み掛けた。
そうだけれど……私の場合、喧嘩をしたわけではないような気がする。だってまず、私が謝ること?昌平があの女のことを好きそうにしたから、アドバイスをしてあげたんじゃない。もしも謝罪が必要だとしたら、私からじゃない。昌平からだ。でもお婆さんは、『自分が悪くなくても』と頭に付けた。私は悪くない。それでも、私から謝った方がいいってことなの?
「若いうちはね、血気盛んだからね。何で私が謝るの、なんて思ったりもするんでしょう?ふふ、でもね。本当に大事な人ならばね、そんな仲違いしてる時間が勿体ないのよ」
「勿体ない……ですか」
「そうよ。手を伸ばせばまだ、その人に触れられるでしょう?……羨ましいわ」
彼女の老いた瞳が、悲しそうに揺れた。お爺さんは亡くなってしまって、もう触れられない。それに比べて私まだ……手を伸ばせば確かにそこに、昌平は居るのだ。お婆さんの言わんとしていることは、良く分かる。でもそれは、その年まで生きて来たからこそ、思うことなのだろうと思う。少し時間が必要な時だって、あるはずだ。
「三山さん。後はね、とにかく笑うことよ。笑うって、体にとっても良いし、心にとっても良いことなのよ。ふふ、お婆さんの戯言だと思って、頭の片隅に入れてくれたら嬉しいわ」
「有難うございます」
その言葉は、どこか上辺である気がした。私の気持ちなんて知らないくせに。反抗期の中高生のようだった。
「笑っていたら、良いことがあるからね」
彼女はそう言って、会計へと向かう。その小さな背中に、私は情けなくも苛立ってしまった。昨日だって、私は笑っていたの。楽しいって思っていたの。それでも、そんな時間は呆気なく潰された。笑っているくらいじゃ、何もやって来てはくれない。
「ミツコさん、買えましたか」
「えぇ。お待たせしました」
「では行きましょう」
会計を済ませたお婆さんに、優しそうに老紳士が微笑み掛けた。彼女は彼の腕にそっと手を乗せて、私に「それではまたね」と言うのだ。驚きながらも、有難うございました、と頭を下げた。そしてそのまま、悩んでいる。お爺さんは亡くなった、はず。私に見えていたのは何?亡霊?
「何、狐に摘ままれた顔してるの」
「え、いやだって。先輩、あのお爺さん。見えてます?大丈夫です?」
「緋菜ちゃん。しっかりしてよ」
唖然としたままの私のところに、レジから先輩が歩み寄る。私の驚きを見て、彼女は瞬時に呆れ顔を作った。変なことを言わないで、と言いながら、私の背をバシバシッと叩く。今一つ、私にはあれが幻だったのか判別がつかないままだった。
「あれは、新しい彼氏、よ」
「彼氏?」
「そ。俳句だったか、何だかの集まりでね。一緒になるお爺さん。で、お付き合いって言うか、時々お洒落をして一緒にお茶を飲むんだって。彼女はね、生存確認をし合う相手よ、って笑ってたけれど」
そうなんだ、と言えたが、言葉は何だかしどろもどろだった。何でだろう。夫が亡くなって、恋をしたって良いのに。お婆さんだから?私は勝手に決め付けていたのかも知れない。
「良いわよねぇ。あぁいう関係って。お年を召しても、誰かと会うのにお洒落をする。それだけでも素敵って言うか」
「あぁ、そうですね。一人寂しくしているよりも、ずっと健康的だし。それに、幸せそうだった」
「うん。あんなこともあるのね。私も見習わないとなぁ」
「確かに。笑って、って言われました。笑ってたら、良いことがあるって」
「そうか、それって大事なのかもね。緋菜ちゃんも、眉間に皺を寄せてないで笑って。どこに良い出会いが転がってるか分かんないわよ」
先輩は、そう悪戯っ子のように笑った。そして私も、それに釣られるように、ようやく笑えていた。
笑っていたら、良いことがある。それは多分、しかめっ面をしている時よりも、誰かと楽しい時間を過ごせるからだ。笑っていたら、良いこと、あるかな。そして私は、昌平のことを考えている。素直に謝ればいい。昨日はごめん、とメッセージを送るだけでいい。昼休憩にでも送ってみようか。もしかしたら、昌平だって同じように思っているかも知れない。私だって、あのお婆さんのように、幸せな微笑みをしていたいのだ。
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