第四話 私の乙女心(下)

「緋菜。あの本買わなくて良かったの?」

「あぁうん。今日は良いの」


 観光雑誌だけを買い、店を出ると、昌平が直ぐにそう言って来る。『あの本』というのは、旅行何とか、と言う資格の本のことだ。

 資格なんて、私は何も考えたことがなかった。高校を卒業して、今の仕事に就いて。特に不満もなかったし、別の仕事について考えたことなどなかった。多分、何も知らなかったのだ。今からでもなれるかも知れない、と別の仕事を探すことすらなかった。流石に今更、未経験で他職種へ、簡単に転職出来るなんて思ってはいないけれど。


「一冊くらい、買っても良かったのに」

「でも、何だか沢山あったじゃない?まずは、自分でも調べてみる。それから、陽さんに相談してみようと思って」

「そう?なら、一歩前進かぁ」


 そう納得したような顔を見せても、昌平は少し不満気だった。私を変えたいと思ったのか知らないが、彼の方が乗り気だったのは確かだ。仮に、資格の勉強をしてみたとしても、私は転職まではしないだろう。昌平は知らないのだ。彼は大学を出て、保育士という免許を持っている。何の取り柄もない高卒の転職が、どれだけ大変なのかを絶対に知らない。


「よし、カフェ覗いてみようか」


 私は昌平のお尻を叩いて、看板が見えていたカフェへ走り出す。おいこら、と追いかけてくる昌平にベェッと舌を出した。新年早々、暗いことばかり考えていたくはない。折角、二人でいるんだもの。


「あぁ、やっぱ混んでるよなぁ。どうするか」

「じゃあ、いつものところ行く?そろそろ開くんじゃない?正月だし」

「開くかもしれないけどさぁ。お前、これをあそこで開く勇気ある?しかも、成瀬くん来るかもしれないじゃん」


 それは、確かにそうだった。成瀬くんが来てしまうことは、私としては問題は何もないんだけれど、それよりもあの店のおじさんたちの方が面倒なのだ。絶対に冷やかし始める。それも多分、今日だけでは済まないだろう。提案しておいて何だが、それは流石に面倒臭い。


「あぁじゃあ……うち、来る?」

「え、緋菜の家?」

「そう。だって、私の家の方が近いし、どうせこの間来たじゃない。別に……変な気も起こさないでしょ」


 まだ、日暮れ前。混んでるから仕方ないね、って帰るのは、ちょっと寂しかった。だからそうやって誘ってはみたけれど、クリスマスケーキを作って来てくれたのとは訳が違う。最後に付け足したのは、照れ隠しみたいなものだ。それなのに昌平は、何一つ表情を変えずに「そりゃ、当たり前だ」と言い切る。私の乙女心が、密やかに痛んだ。


「じゃあさ、どら焼きとかたい焼きとか買って行こうよ。コーヒーはインスタントしかないけど」

「なぁ、酒飲むかなぁ。それなら甘い物より、つまみになる物じゃねぇ?」

「あぁ、なるほど……」


 そう言って二人で時計を見る。時刻は十六時過ぎ。コーヒーだけで話し合いをするには、微妙な時間だった。


「私は明日仕事だから、少ししか飲まないけど」

「あぁ、俺も実家に帰るんだった。じゃあ一本くらいってとこだな。でもお腹も空くだろうし、つまみになる物探そうぜ」


 二人であれが食べたいと騒ぎながら、仲見世の方へ並んで歩いた。手など繋がない。触れるか触れないかの微妙な距離だ。高校生だったら、ドキドキしながら歩くんだろうなぁ。あの頃、私はどうしていたっけ。この前まで普通に思い出せていた過去が、何だか上手く思い出せない。今の感情に上書きされてしまって、小さくなっているのかも知れないな。


「メンチかコロッケ、この辺になかったっけ」

「あぁ、それは。えぇとね……」


 聞かれたから、店の場所を思い出して、方角を確認しているのに。昌平はキョロキョロ見渡しながら、二、三歩前をどんどん行ってしまう。こういう時は、周りが見えてないんだよな。直ぐに自分の探し物に夢中になる。でも結局は、ブツブツ言いながらも、私は直ぐに追うのだ。

 ところが、追い始めた背中が、直ぐにピタリと止まった。何だか後ろ手で、来るな、と言われているようにも見えるけれど、一体何なんだ。


「あらぁ、偶然」


 昌平に向けて掛けられたであろう、女性の声に立ち止まる。ギリギリ隣には立たなかった程度の距離で。昌平が、タイミング悪いわ、と漏らすのが聞こえてくる。


「あけましておめでとうございます」

「おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。って……何でこんなところにいるんですか。家こっちじゃないでしょう?」

「あぁ、祖母の家がそこでお店やっててね。お正月は総出で手伝いなのよ。ほら、浅草って混むからね。あら、彼女?噂の?」


 噂の?一体なんだ。その女性は、嬉々とした表情で私を覗き込んだ。相手が誰なのかも分からないし、下手に睨んだりも出来ない。保育士だし、保護者かも知れない。ただただ引き攣った愛想笑いを浮かべて、昌平の後ろに少しずつ隠れるのがやっとだった。


「ちょ、ちょっと。緋菜、ちょっと待ってて」

「あ、うん」


 小声で私にそう言うと、昌平はその女性を手招いた。「いや、ご挨拶したいんだけど」と言う彼女を引っ張る様に、少し離れた所に連れて行く。私はただ呆気に取られて、キョトンとしながらその様子を見ていた。

 二人はこそこそと、何かを話し始める。もう飲んでます?とか、昌平の声は時々聞こえるが、彼女の方は楽しそうに笑っているだけ。それから、私をチラチラと見るのだ。何だか、面白くない。


「だから、ルイ先生。本当にやめてって」


 昌平の言葉に、私は目を見開いていた。あれが、あの女が、ルイ?私が何度も闘って来た、ハテナマークの顔をした女?昌平は彼女を説き伏せたのか、何なのか、溜息を零しながら戻って来る。勿論、ルイも一緒に。


「彼女さん、ごめんなさいね。私は、彼の同僚でハナオカと言います。こんなところで見かけたものだから、つい。本当にごめんなさいね。じゃあ、昌平先生。また園で。今年もよろしくね」


 ルイは楽しそうに、私たちに微笑んで消えて行った。私はまだキョトンとしたまま、彼女が手を振るのに釣られて振り返している。だって相手は、思いがけず現れた恋敵。ハテナマークの顔だったルイなのだ。それは、何と言うか普通の……そう、あのブルーのニットを着た冴えない女のようだった。髪は一つに縛って、薄化粧。可愛らしい訳でも、美人な訳でもない。そんな女だった。


「綺麗な人だね。先輩?」

「あ、あぁ」


 思ってもいないのに、私はそう笑い掛けた。だって私が、あんな女に負けるわけないもの。それだけは自信があった。それなのに、顔を合わせた昌平は、何だかバツが悪そうにしている。


「私と居るの、見られたくなかった?」

「あぁ……まぁなぁ」


 職場の先輩だ。色々気不味いことだって、理解はしている。私だって誰かに会えば、同じようにしているかも知れないし。それなのに。ただ、面白くなかった。


「昌平はあの人のこと、好きなんだね」

「は?それは……ない。うん……ないな」


 何、その妙な間は。カマをかけた方が馬鹿を見ることになるのは、よくある話。ほんの僅かな表情と目の動き、流れる時間。私には分かった。昌平は、あの女が好きなのだ。私はただの飲み仲間。妹のようなもの。それ以上でも以下でもない。そういうことだ。

 徐々に、徐々に、自分の内側から苛立ちが溢れて来るのが分かる。私がどうして、あんな冴えない女に負けないといけないの?そうやって、フラれた時に思っていたことと同じ物が、沸々と湧くのだ。あのブルーのニットを着た冴えない女。今でも忘れてはいない。それを愛おしそうに見ていた元カレの顔を。


「昌平、私帰るわ。明日仕事だし」

「え、いや何で」

「何でって。今から追いかけてみると良いんじゃない?」

「は?だから、何言ってんのお前」


 呆れた表情を作ろうとする昌平が、チラッとルイの消えて行った方を見た。あぁ、やっぱりそういうことなんだな、と思った。冷静に受け止ようとするのに、苛々が募る。もうこんな思い、捨ててしまいたいのに。


「今追いかければ、訂正出来るって。あれはただの妹みたいなもんだって、言って来なよ。ほら」


 私はグッと、昌平の背中を押した。決して泣いたりはしない。だって、困惑と苛立ちの方が勝っているから。泣くなんて、有り得ない。


「いや、緋菜。本当に意味分かんねぇんだけど。何なの」

「は?素直になれない昌平くんの、背中を押してあげてるんでしょうよ」

「だから、何なんだよ。ルイ先生は、別にただの先輩だって言ってんじゃん」


 まだそう言う昌平に呆れて、ほら、とまた背を押す。好きなら、とっとと行ってしまえばいいのに。そうしてグイグイ押す私の腕を、昌平がグッと掴んだ。何だか苛立ちを帯びたような目で、私を睨みながら。


「緋菜。いい加減にしろよ。何なんだよ」

「はぁ?こっちは背中を押してあげてるんでしょうよ」

「だから、それが何なんだって言ってんの。そんなこと、誰が頼んだ」


 恋は自分のペースで進めるもの。そういうことか。だから、私のお節介なんて要らない、と言う訳だ。


「そうだね。頼まれてない。でもアドバイスはしたからね」

「いや、要らねぇわ。そんなん」


 眉間に皺を寄せて、昌平が私を睨んでいる。私のアドバイスなんてなくても、上手くやれるってことね。あぁ、何だかそれもムカつく。じゃあね、と吐き捨てるように言って、昌平に背を向けた。

 どれだけ進んでも、昌平は追って来てはくれなかった。本当にルイが好きだったんだな、と妙に実感する。私の方が若いのに。私の方が綺麗なのに。押し込んでいた感情が、また一つ二つと顔を出し始めていた。涙など出ない。ただ、私の乙女心だけが、静かに泣いていた。

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