第三話 僕の償い(下)

「成瀬くん。征嗣さんから連絡が着ても、教えてくれなくていいからね」

「あ、うん?」

「聞いてしまったら、絶対にインプットされてしまうでしょう?そうしない方が良いと思うの。だから、私も知らせないよ」


 居酒屋からの帰り道、彼女はそう言った。直ぐにそれが良いことなのか判断出来ずに、僕は何度も反芻している。確かに進めるやり方としては、それは良い判断だろう。双方の状況を知らない方が、あの人にとってはリアルなのだ。だけれども、それはまた彼女を孤独にさせやしないか。僕は、どうしてもそこが引っ掛かっていた。


「分かった。分かったけど」

「うん。大丈夫。どうしても辛いときは、連絡する。それは約束するから」


 完全に言いたいことを見透かされていた。顔に書いてあったのかも知れないが、それを笑う訳でもない。どちらかと言えば、彼女の方が懇願しているようだった。これを失敗してしまったら、次はきっと無い。それを僕より実感しているのだろう。


「うん。それなら。ただ、やっちゃいけないことってある?言わない方が良いこととか。素直に挑むつもりで居るんだけれど、出来るだけ時間はかけたくない。だから、変に対立したりはしたくないんだ」

「やっちゃいけないこと、か。そうだなぁ。彼のプライドを逆撫でしないこと、かな。あの人、疲れるくらいにアンテナ張って生きてる人だから。それだけは、しないで。お願い」


 分かったよ、と答えたけれど、最後の一言が違う意味に捉えさせる。この作戦の為ではなく、あの人の為にしないで欲しい、と。彼女は無意識のうちに、彼を想っているのだ。母親が亡くなってからの生活を唯一支えてくれた人。感謝の念というのもあるのだろうと思う。そこを知った以上は、ヤキモチを妬いても仕方ない。それが彼女たちの十数年なのだから。


「それと……暫くは、二人では会わないでおこう。征嗣さんは、そういうの敏感だから。直ぐに上手くやれなくなると思うの」

「うん……そっか」

「出来るだけ、連絡もしないね」

「いや、それは……良いんじゃない?」


 会えない。連絡も出来ない。自分の恋を動かすために始めたことなのに、新年早々、そんな寂しい宣言があるだろうか。それに、このまま……ということだって有り得る。陽さんに限ってそんなことはしないだろうが、僅かでも可能性はある話だ。掴むものがない僕は、その提案が不安でしかなかった。


「ごめんなさい。そうさせて下さい」

「陽さん……」

「私が、私がね。そういうの、上手じゃないから。きっと直ぐに成瀬くんに甘えたくなっちゃう。征嗣さんと別れるには、本当に最後のチャンスを貰ったんだと思ってる。頑張るから。ね、お願いします」


 甘えたくなっちゃう、と言われると、やっぱりちょっと嬉しくて。でも、そんなこと認めるのは本当は嫌だ。それなのに、彼女が深く頭を下げている。だから、認めざるを得なくなってしまった。


「分かった、分かったよ。でもさ、友人としての最小限は良いよね?緋菜ちゃんたちと会ったりとか」

「あぁそれも、悩んでるんだけど」

「でもそれは、いつも通りで良いと思う。じゃないと、緋菜ちゃんたちが疑う。それってさ」


 陽さんは直ぐに、あぁ、と小さな声を漏らした。緋菜ちゃんのに、気が付いたのだと思う。確かにそうだね、と苦笑いした。そういう瞬間は、ハムカツを食べて微笑んだ時と同じ。素の陽さん、だった。


「分かった。皆と会うのは、いつも通りにするよ」

「うん。良かった」


 緋菜ちゃんの好奇心に救われる時があろうとは。ちょっと笑ってしまうけれど。


「私がもっと早く、しっかりしてれば良かっただけなのにね。ごめん」

「そんな風に言わないの。大丈夫。暖かくなるころには、状況は変わってるよ。少しの辛抱だと思おうよ」

「そう、だと良いんだけれどね。でも本当に、成瀬くんにここまでして貰って、申し訳なくて……」

「そういうのは気にしないの。ほら帰ろう」


 僕はサッと彼女の右手を取った。顔は見ずに、手を大きく振って歩く。そう、あの時の陽さんと同じように。


 彼女のことが好きだから、僕は頑張れるんだ。そんな青春漫画みたいなことを、言うつもりはない。自分でも分かっているのだ。これは、自分の為の償いだ、と。紗貴へ何も出来ないまま別れることになって、その不甲斐なさや苛立ちと言った醜い物を、僕は昇華させることが出来なかった。陽さんを助けることで、過去の償いをしている。僕の方が、申し訳ないことをしているのかも知れない。

 この年になって困惑しながらも、僕は新しい恋を見つけた。紗貴もそろそろ子供が生まれるだろう。きっと、古い愛を清算する良い機会なのだ。僕は、陽さんの手を強く握る。これから来るはずの幸せな時間を信じて。彼女もそれを握り返して、頑張るね、と呟いた。

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