第三話 僕の償い(中)
「ハムカツ。久しぶりに食べようかな」
「珍しいね。陽さんって、あんまり揚げ物食べるイメージなかった。緋菜ちゃんは、いつもイカフライ食べてるけど」
「あぁ、そうね。わざとそうしてた訳じゃないんだけど」
陽さんはそう苦笑しながら、またメニューを眺める。一杯目のビールは、半分くらい体内に吸収された。椎茸の串焼きを食べながら、彼女は小さな声で、うぅん、と唸っている。僕は、そんな彼女を見てホッとしていた。
僕らは話しながら歩いて、二十分と少し。日暮里まで来ていた。本当はその間にも、賑わっている居酒屋やお洒落なレストランもあったのだけれど、僕らは真っ直ぐに歩き続けた。それは、陽さんが未だ微かに震えていたからだ。
僕の作戦に賛同し、メールを送ってみたものの、これからあの人がどんな反応を見せるのかは分からない。彼女は、何をされたとしても、と覚悟は決めたのだろうが、やはり怖いのだと思った。無理に笑って、僕に話し掛ける。陽さんは、必死に目を逸らそうとしているように見えた。
「よし決めた。ハムカツ食べよう」
「そんなに勢い付けなくても。あ、じゃあ僕も食べるから二つ頼むね」
うん、と陽さんが頷く。何だか寂しそうな顔にも見えた。たかがハムカツだぞ、と思いながら、注文を通す。もしかして何かあるのだろうか。
「ハムカツ、あの人との思い出だった?」
「え?征嗣さんってこと?」
「そう。そんなに意を決して食べるような物でもないような気がして」
「そうね」
薄笑いしてから、彼女はジョッキに手を伸ばした。カウンターの中で串焼きを焼く料理人の、忙しく動く手を眺めながら、ぼんやりと教授の顔を思い出している。あの、何かを読み取ろうとする目を。
「ハムカツは、母の好物だったの」
「お母さんの?」
「そう。お肉屋さんのハムカツが好きでね」
愛おしい者を思い出す目は、遠くの方を見ている。あの写真に写った母親。幸せそうな笑顔をしていたな。
「……だった、って言った?」
「言ったわよ。母が亡くなって、十三回忌も済んだわ。と言っても、私一人だけどね」
「一人?」
「そ、一人。親類縁者って言うの?そう言うのは誰も居ないの。私は一人」
僕の方を見ないまま、彼女はビールを流し込んだ。十三回忌が済んでいる、と言うことは、少なくとも彼女が未だ学生だったと言うことになる。今、彼女は『一人ぼっち』と言った。父親も既に他界しているのだろうか。
「お葬式とか、どうしたら良いか分からなくてね。それを助けてくれたのが、彼だったの。面倒見の良い、せんせ」
「そう、だったんだ。何かごめんね。あの人との思い出があるのかなぁって、思っちゃって。つい」
「あぁいいの。誰にも言ったことなかったけれど、成瀬くんなら良いかって思って」
「そ、それは、有難う」
「何そんな顔して。可愛いわねぇ」
ケラケラッと笑ってから、陽さんは僕を茶化した。でも僕は、いつもほど嫌だとは思わなかった。いや、思えなかったのだ。あまりに、彼女が泣いてしまいそうな目をしていたから。
「じゃあ、そのかわいい男の子が、いつでも一緒に飲みに行きますよ」
「ふふ。有難う」
「もう、本当に僕、おじさんなんだからね」
「分かってるわよ。有難うね。立派な紳士くん」
一瞬喜んだけれど、紳士くんとはなんだ。可愛らしい男の子、から成長を見せた気はするのだけれど、余り進歩していない気もする。でも、陽さんが楽しそうに笑ったから、まぁいいか。
そんな時、彼女がビクッと体を硬直させた。店内で誰かの携帯が鳴る音がしたのだ。彼女の携帯の音がどんなのかは知らない。でも多分違ったとしても、同じ反応をするのだろう。そのくらい陽さんは、あの人からの連絡を今は恐れていた。
「大丈夫だよ。とりあえず、一度目の反応があるまでは一緒に居よう」
「え……あ、うん。有難う。へへ、バレてた?」
「そのくらいは」
「上手くやってると思ったのになぁ」
そう言いながらも、また無理して笑おうとする。僕が好きになった彼女は、そういう人だった。物事を卒なくこなし、黒子にも徹せる。そういう賢い人。だけれどそれは、反面で自分を押し殺しているとも言えるのだ。
「はい、おまたせ。ハムカツ二枚ね」
カウンターに座った僕らに、店員が笑顔で差し出した。カリッと揚がっていそうな衣と、分厚いピンク色したハム。ただ美味しそう、としか僕は思えないけれど、陽さんはまた違った思いで見ているのだ。何とも愛しい物を見るかのように。
「本当、久しぶり。いただきます」
丁寧に手を合わせて、彼女はそれに箸を伸ばす。ソースや醤油をかけずに、そのままかぶりつく。一瞬、泣きそうに眉間に皺を寄せたけれど、直ぐに「美味しい」と微笑んだ。それを見てから僕も同じように、それを口に入れる。サクッと噛む音が自分の中に広がり、何もつけなくても美味しいことを知った。
「母はね、料理が得意だったの。それでもハムカツだけは作らなかったなぁ」
「へぇ。そうなんだ」
「うん。好きな物は誰かに作ってもらった物の方が、大事に食べられるからってね」
幸せそうに母親の話をする陽さん。やっぱり、そういう顔の方が良く似合うと思った。
「あっ……」
「どうした?」
笑顔で話していた陽さんが、急に固まった。小さな鞄に触れたままで。それはつまり、そういうことだ。
「陽さん。深呼吸してから、見よう」
「う、うん。そうだね」
彼女は素直に僕の意見に従った。けれど吐き出される息は、心許無いくらいに細い。ゴクリ、と唾を飲み込む音が聞こえた。彼女が携帯を確認し始めると、今度は僕が緊張してしまう。固唾を飲んで、ただ陽さんの反応を待った。何も言わず、それをじっと見ている。幸せそうな表情の消えた顔で、スッと携帯を僕に差し出した。
『陽、何してる』
書かれていたのはそれだけだ。あぁこれは探りを入れているのかな、とも思うが、本当はどうなのだろう。
「何かを企んでいることは、多分気付いてる。でも私が共謀しているかまでは、怪しんでいる気がする」
「そうかぁ」
あの文だけで読み取るのか。彼女とあの人の十数年をふと感じる。陽さんはササッと文字を打ち込んで、また僕に見せた。『お正月だから飲みに出て来たよ』と書かれた画面を。
「こんなこと言って大丈夫なの?」
「うぅん、あまりやったことはないけれど、なかった訳じゃない。私だって一人でお酒飲みに行くことくらいあるしね」
「そっか。じゃあ、大丈夫かな」
今恐々としているのは、僕の方かも知れない。陽さんは、どちらかと言うとキリッとした顔で、送信ボタンをタップした。彼女は、今のあの人の反応で、幾手先まで見たのかも知れない。僕には見えないが、そう思えた。
「うん。大丈夫だと思う」
「本当に?」
「いや、絶対はないけど」
二言、三言。僕らが言葉を投げ合った間に、もうあの人からの返信は着ていた。『誰かと一緒なのか』と言う文字に、陽さんは溜息を吐く。それからまたササッと打ち込むのである。それから、数回やり取りをしていたように思う。あれ以降、彼女が僕にそれを見せることはなかった。それで良いのだ。あくまで、この話は彼ら二人のこと。僕の恋の話は、別物なのである。
「ハイボールください。成瀬くんは?」
「あ、じゃあ僕も」
「おじさん、二つね」
あいよ、遠くから返事が聞こえる。何かが吹っ切れたように、陽さんは大人の顔をしていた。
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