第三話 僕の償い(上)

「これでどうだろう」


 僕は頭を捻り倒して作り上げた文面を、陽さんに見せる。まるで作文を添削される生徒の気分だ。懐かしい気持ちにむず痒く思いながらも、じっと彼女の反応を待った。今、陽さんが真剣に読んでいるのは、僕から教授へ宛てたメールである。

 どうしてこうなったのか、と言われれば、それしか思い付かなかった以外はない。あの人は、僕に言った。何かあったら連絡しておいで、と。それに素直に甘えてみようと思ったのだ。そして、陽さんの観察の限りでは、彼は僕のことが怖いと思っていると言う。純粋さが怖い、らしい。僕がそんなに純粋な人間であるか、は別として、それならば尚更使わない手はない。そうして出来上がった文面は、こうである。


『小山田征嗣様


 新年おめでとうございます。

 ご家族でお寛ぎのところ、申し訳ありません。先日お話した件で、また相談にのっていただきたく連絡しました。お言葉に甘えてしまって、すみません。


 実はあの日、何とか連絡先は聞けたのですが、何度誘っても会っては貰えないのです。他の友人が居る場で会うことはあるのですが、二人きりだと返事を曖昧にされてしまうばかりです。あまり言い過ぎてもしつこく思われるでしょうし、途方に暮れておりました。厚かましいことは重々承知しておりますが、何分、こういった事が久しぶりで策に行き詰ってしまい、こうして相談を送らせていただいている次第です。彼女の好きな物等、何かご存じないでしょうか。


 新年早々に厚かましいお願いをして、本当に申し訳ありません。最後になりましたが、本年も宜しくお願い致します。


成瀬文人』


 相手を挑発しないように気を付けて、あの時の流れのままに文を作った。ひたすら申し訳なさをアピールしたも、ただ下手に出ようとしたまでのこと。本当は腸が煮えくり返る程、あの人に対しては苛立ちを覚えている。彼はどう出るだろう。陽さんと一対一で別れ話をさせるよりは、きっと何かしら動くはずだ。こうすることでの問題は一つ。あの人が陽さんの家に押しかけてしまうこと、である。


「多分、大丈夫だと思う。征嗣さんは、頼って来る子は可愛がるから。それにあの人の立場を知っている人ならば、強くは出ない。自分の体裁を気にするからね」

「うん。でも僕がこの計画で一番心配なのは、その後なんだよね。僕とあの人が二人で会って話すとしても、何にしても。彼は多分、自分の本心は見せないと思うんだ。だからそれが、陽さんに降りかかるのが怖い」


 陽さんは表情を変えなかった。風で耳元の後れ毛が揺れてから、小さく唇を噛んでいる。決意はしたものの、怖さはあるのだ。僕は彼女の膝の上に置かれた手を取って、一緒に考えよう、と囁いた。そう言ったものの、良案が思い浮かんでいる訳ではないが。


「職場は人目もあるから大丈夫だろうけど、家……引っ越しは、難しいよね」

「え?あ、あぁ……そうかぁ。考えたことなかった。引っ越しなんて。でも、征嗣さんが家に来てしまうことを考えたら、本当はそれが一番なんだろうな」

「そうなんだけどね。部屋に対する思い入れもあるだろうし、契約期間もあるもんね」

「うん。そうなんだよね」


 こんなことで逃げるように引っ越すのは、次の部屋への思いにあの人が残ってしまうだろう。彼から逃げる為にここに来た。それが陽さんの奥底に刷り込まれるのだから。


「とりあえずは、いつも通りにするよ」

「え?それじゃあ、ま……」


 また噛まれるかも知れない、と言いかけて、口を噤む。僕はそれを恐れているのだ。きっと悍ましく彼女の体に刻まれてしまっている跡を、これ以上増やしたくはない。今のままで居るのなら、僕のすることは、ただ火に油を注ぐ行為なだけだ。


「噛まれる、って思ったよね」

「う、うん」

「成瀬くんからこんな連絡がいった時に、私が急に彼を拒絶してしまったら、絶対に征嗣さんはこの企みに気が付く。もしこの方法を試すならば、私は暫くは今のままで居なければいけないと思うの。このメールはあくまで、成瀬くんが考えて、一人でしたこと。そう思わせないといけないと思うの」


 陽さんは、寂しそうに笑った。それがあまりに儚くて、苦しい。でもその顔は、覚悟は決まっているのだと思った。僕はそう決めた彼女を守らないといけない。スゥッと息を吸って、一息で言い切った。危ない時は僕の家に逃げておいでね、と。


「有難う。耐えられなくなったら、居留守を使ってでも出ないから。だから大丈夫よ」

「そ、そうだよね。でも危ない時は、連絡だけはして。お願い」

「分かった。私は、自分の人生なんて諦めていたけれど、幸せね。こうして心配して、支えてくれる友人が出来たんだもの」


 僕を覗き込んで、有難うね、と陽さんは微笑んだ。友人、友人か。そこに引っ掛かったのは、きっと僕だけ。今は考えてくれなくていい、なんて格好つけて言ったのに、結局は不満なんだな。子供染みた自分の考えに疲弊しながら、いえいえ、なんてヘラヘラと返していた。


「このメールは今送っても平気?」

「あぁ、大丈夫だと思う。公のメールは毎日チェックするだろうけれど、緊急でなければ、返答は学校が始まってから。征嗣さんは毎年そうしてるから、送るのは問題ないよ」

「分かった。じゃあ、送るね」


 彼女の手を握り込んだまま、僕は反対の手で送信をタップする。僕よりも緊張している手に、グッと力が入った。呆気なく『送信しました』と表示されると、戦いの火蓋が切られたのだと実感する。僕がそうしたということは、彼女の人生にも変化が起きるということ。僕の中にある華奢な手を、少しだけ握る。大丈夫だよ、と思いながら。


「成瀬くん。お腹空かない?」


 急に陽さんが、立ち上がってそう言った。僕の手を離し、コートに付いた埃を払っている。慌てて見る時計は、もう十四時近い。寒空の中二人で話して、色々考えて、行動を起こした。それに夢中だったから、昼食のことなどすっかり忘れていたのだ。


「お腹空いた。何か急に」

「だよね。じゃあ、どこか行かない?そうだなぁ。レストランは混んでるだろうし、もう飲んじゃう?」

「いいねぇ。体も冷えちゃったしね」

「うんうん」


 行こう、と飛び切りの笑顔を見せた陽さんが、僕にスッと手を差し出す。早く、と。初めて彼女から出された手を、僕はドキドキしながら取り、立ち上がる。目の前で微笑む陽さんには、そんな音は聞こえるはずがない。それなのに、必死に隠そうとしたのか。僕は無意識にコートのボタンを、丁寧に掛けていた。


「寒かったよね。アメ横の方は混んでるだろうし、逆に行った方が良いかな」

「あぁそうだね。プラプラ歩きながら、探そう」

「うん。じゃあ、初めは私の勘で谷根千の方ね」

「つまりは、根津の方ね。最悪、陽さんが酔っ払っても近いから、いいよ」

「そういう訳じゃないのに」


 もう、と顔をしかめる陽さんが、ようやく人間味が出たような気がした。彼女は多分、もっと天真爛漫な人だと思っている。屈託のない笑みを見せて、僕の隣を歩く。僕がこの気持ちを自覚したあの日のように。


 彼女は大丈夫だろうか。朝起きて先ず、僕はそんなことを思った。顔を洗っても、パンを齧っても、何をしても、そればかりが気になった。メッセージを送っても、返事は返って来ない。思い切ってかけた電話も、長くコール音が続いていた。何とか呼び出してはみたものの、またふと不安が過ったのだ。彼女はもう僕に会うつもりなどないのではないか、と。人混みの中、躊躇いながら近付いて来る彼女を見つけた時は、迷わず直ぐに声を掛けた。怖かったのだ。彼女に背を向かられることが。


「熱燗。いや、おでんとかかな?」

「あぁ、おでんあるといいね。成瀬くんは、おでんの具は何が好き?」

「そうだなぁ。結局、大根かな」

「美味しいよねぇ」


 こうやって歩くのも、彼女は新鮮だったりするのかな。今まで教授に閉じ込められていたようなものだ。彼女の羽はくしゃくしゃに握りつぶされていて、それを一枚一枚丁寧に伸ばしている。今はその過程だ。慌ててはいけない。

 その羽は、伸び切らないかも知れない。このまま、もがれてしまうかも知れない。けれど、飛べなくなっても、何をしても。僕が隣に居られたらいいと思う。

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