第一話 私は、私は(下)
「陽さん、こっち」
彼と目を合わせるまで、私は迷っていたのだと思う。今甘えてしまったら、私は成瀬くんの手を離すことが出来なくなる。それが分かっていたからだ。午後十二時五分。約束の時間には間に合わなかった。それでも彼は、私を笑顔で迎え入れる。
「……ごめん」
「会って早々で謝る人いる?来てくれて、有難う」
「あ、うん。でも……十二時に間に合わなかった」
「え?あぁ、でも。僕はざっくりしたことしか言ってないよ。お昼までって言ったの。それって、大体十三時くらいまでじゃない?」
成瀬くんは私を責めなかった。それでいて、ニコニコと嘘みたいな笑顔を貼り付けて、私を見るのだ。無理をしているような気がして、彼まで私の重苦しい何かに引き摺られているのかも知れない、と思うと酷く胸が痛んだ。
「少し歩こうか」
「……うん」
何処とも決めずに歩き始める成瀬くんを、私は追った。不忍池ヘ向かって来る人波をかき分けるように進むが、なかなか上手くはいかない。肩をぶつけてしまってはその度に、すみません、と小さく謝るがキリがないものだ。それを見たのか何なのか。成瀬くんがサッと、私の右手を取った。チラッと目を合わせて、苦笑いをしてから。はぐれないように、ということだろう。子供の迷子の予防みたいなものだ。
それなのに。私はやっぱり嬉しかった。胸がキュッと縮むように、苦しい。そして、恥ずかしい。お日様の下で、こんな風に歩ける。それが当たり前のことだったとしても、私にはやっぱり特別だった。
「科学博物館の辺りの方が良いかな。お正月っぽくない所の方が、人が少ないと思うんだ」
公園の中を歩き始めて、彼がそう言った。そうだね、と答えたけれど、聞こえたかは分からない。それくらい、楽しそうで幸せそうな人で溢れている。私たちも、その一部に入れるだろうか。征嗣さんと別れることだ出来たら?いや、それはダメだ。私は彼とこうして並んでいてはいけない。それなのに、私は成瀬くんに甘えるの?対極の意見を自分の中でぶつけては、何度も答えを見失っていた。
「あの辺りで良いかなぁ。人もそんなにいないし」
「うん」
「流石に寒いけど、ごめんね」
成瀬くんの無理をしているような笑顔を見るのが辛い。隣に並んで、私は直ぐに下を向いた。まだ、手は繋がれている。この温かさが、恋しくて、苦しい。
「陽さん。呼び出しちゃってごめんね。でも、本当に来てくれて有難う」
「うん。待たせちゃってごめんね」
彼が電話をくれたのは、十時少し前のこと。成瀬くんに甘える訳にはいかない。ただ心に寄り添ってくれるだけで十分だ。そう思っていたけれど、次第に時計の針が近付くと、私は駆け出していたのである。二時間程の間、何を考えていたのかは覚えていない。同じ押し問答を繰り返していたのだと思う。
「新年早々、嫌な話かも知れないけれど。陽さん。あまり間を空けない方が良いと思って」
「う……うん」
「あまり遠回りしても仕方ないから、単刀直入に聞くね。陽さん、あの人とは別れたいんだよね?」
繋いでくれている手に、少し力が入る。彼は本気で、私と征嗣さんが別れることを望んでいるのだと思った。真っ直ぐだけれど、温かい瞳。私はそれを見つめてから、目をギュッと瞑り頷いた。
「よし、分った。じゃあ、一緒に考えよう。これからどうしたら良いか」
「う、うん。有難う。その……宜しくお願いします」
「うん」
成瀬くんは背を丸めて、大きく太い息を吐いた。溜息というよりは、安堵。つい忘れていた呼吸を慌ててしたような、そんな風だった。
「良かった。僕、怖かったんだ。あの時、陽さんは僕を信じてくれるって言ってくれたけど。陽さんがまた一人で考え出したら、簡単に覆されちゃう気がして。会ってくれないんじゃないかって……怖かったんだ」
力ない笑みを見せた彼と目が合うと、私は自分を酷く責め始めた。どっちつかずの答えを持って、右往左往して。甘えたくてもたれ掛かっては、結局は、彼を苦しめていただけだ。繋いだままの右手を軽く握り返すと、陽さん、と彼は小さな声で私を呼ぶ。
「成瀬くん。お願いがあるの」
「え、お願い?何?」
ゴクリと唾を一度飲み込んでから、ふぅぅ、と長く息を吐いた。そんなことで落ちい付く訳のない気持ちを、ギュウギュウに押し込んでいる。そして、私はしっかりと彼を見た。
「私、征嗣さんと別れます。でもそれは、とても根気の要ることだと思っています。彼は本当に面倒臭い人だから。あなたが言ったように、服の下は想像通り。これも、もっと酷くなるんだと思う。私を嫌いになっても、軽蔑しても、別れるまで見届けてくれませんか」
彼は二度、目をパチパチさせた。そして少し詰まりながら、「も、勿論だよ」と答える。ほんのり嬉しそうな瞳は、何だかキラキラとして見えた。
征嗣さんと別れることが、一歩近づく。寂しさはあるけれど、後悔はしていない。黄色いリュックを思い出し、私は自分に言い聞かせた。
「そうしたら僕からも、一つお願いがある」
「あ、はい。私に出来ることなら」
「あの人と本当にちゃんと別れられたら、僕はもう一度陽さんに気持ちを伝えます。そうしたらその時は、ちゃんと考えてくれませんか」
彼は真っ直ぐに、私から目を逸らすことなく言った。その真剣さは、苦しいくらいに、私を締め付けている。そこまで言って貰えるほど、私は立派ではない。だけれども、日向を歩いてはいけないとか、そんな言い訳ばかり並べているのは、ただ逃げているだけだ。私はこの気持ちに、向き合わなければならないだろう。いつか、征嗣さんと別れられたなら。
「はい。その時は、きちんと」
「……良かったぁ。断られたらどうしようかと思った」
「流石にそれは、断らないです」
だよね、と笑った成瀬くんは、ようやく自然な表情を見せた。彼は優しい。だからこうして、私なんかに手を差し伸べてくれる。それを言い訳ばかり並べて拒むのは、罪なことだ。彼をこれ以上傷付けないために、黄色い可愛らしいリュックを背負ったあの子を悲しませないために、私は征嗣さんと向き合わねばならない。
「あのね。征嗣さんは、多分。成瀬くんが怖いんだと思うの」
「え、僕が?怖い顔してる?」
「あぁいや、そう言うことじゃなくて。彼、とても臆病な人なの。きっと成瀬くんの真っ直ぐさが怖いのよ。裏が読みにくいからね」
「裏を読むかぁ。そっか。だから、鋭い目で僕を見てたのかな。陽さんとのことを探ろうとしただけだとは思うけど、人の腹の底まで見るような目だった」
あの鋭い目線。人のアラを探して、蓄えようとする蛇のような目。
だけれど、出会った頃はあんな感じではなかったのだ。ただ、陽だまりで二人肩を並べて本を読む。私たちは、それだけで幸せだった。
「あの人ね。本当は優しい人なのよ。そう言われても、信じられないかも知れないけれど」
「うぅん、そっかぁ。学生を見る目は優しいから、そういう一面は確かにあるよね。だから僕は、良い先生だなぁって思ったんだし。学生の悩みもきちんと聞いてさ」
「そうなんだけどね。今の大学に移ってから、私には厳しくなった気がするんだよなぁ。理由は良く分からないけれど」
征嗣さんは、結婚をしてから、周りの目を酷く気にするようになった。それならばいっそ、私と別れてしまえばいいものを。彼はそうすることは望まずに、ただ私を鳥籠に仕舞い込んだ。誰の目にも触れないために。
「へぇ……あぁそれはさ、嫉妬なんじゃないかなぁ」
「嫉妬?征嗣さんが?」
成瀬くんの口から、征嗣さんとは似合わない言葉が出て来た。嫉妬など、彼がするわけがない。私を噛んだりするのも、あれは自分のモルモットが思い通りに動かないことへの苛立ち。子供を躾けるような物か。いや、あの黄色いリュックの可愛らしい娘に、そんな非道なことはするはずないか。
「うん。僕は同性だから、余計気になったんだけどね。嫌なんだよ。陽さんが誰かに触れられるの。変な話だけど」
「へ、へぇ……それは考えたことがなかった」
「……あのさ、今ちょっと喜んだでしょ」
「そんなこと……ないです」
図星だった。私は未だ、こんなことで喜んでしまう。愛されている、と思ってしまう。悔しいかな。十数年重ねてしまった偏ったものは、簡単には消えてはくれないのである。
「ごめん」
「謝らないでよ。その方が傷付く。だけどさ、陽さん。彼のことが未だ好きでも、仕方がないと思うんだ。十年以上一緒に居たって言ってたし。寧ろ、そういう反応をしてしまう位は、好きでいてくれて良かったよ。そこに愛が少しでもあるなら、まだ良かった」
愛、か。そんなものはもう無いと思ってたけれど、未だそれは私の中に存在していた。帰らないで欲しいと思ったり、会いたい夜もある。ただ、認めたくないだけなのだ。私が選ばれなかったということを。
私たちの関係を不純だとしながらも、彼は完全に否定はしなかった。日陰しか歩けないことに違いはないけれど、汚れた私が少しだけ浄化される。
「有難うって言うの変だけど。うん、有難う」
成瀬くんは、不思議そうに私を見た。当然だ。この気持ちは、きっと彼には分からない。
「どうしたら別れられるんだろうな。何度言ってもダメだった。余計に固執するようになっただけ。征嗣さんには、あんなに温かい家庭が在るのになぁ」
「何度言ってもダメかぁ……家で二人で会うだけ、だもんね」
「そうだね。私の部屋に、彼が来るだけよ」
征嗣さんと外で会えたら。そう最後に思ったのは何時だろう。カフェで一緒にコーヒーを飲むことすら、私たちには叶わない。
「陽さん、反対するかもしれないけどね。考えて来たことがあるんだ」
彼の考えは、一理あった。私と征嗣さんが二人で向き合っているだけでは、力関係がひっくり返ることもないだろう。つまり、彼が私の言うことに、首を縦に振ることはない。そんなことをしたら、征嗣さんはどうするだろう。けれど、別れたいのならば、やってみる価値はあるかも知れない。ただ、私の中では、怖さが勝っているけれど。
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