第一話 私は、私は(上)

 一月二日、午前九時四十五分。私は珈琲を淹れて、山積してある本の中から、一冊手に取る。わざわざジャンルを決めずに揃えられたものの中から、今日は哲学書。後の残りは、社会学とエッセイ。それから雑誌が数冊。


「とりあえずは、要約掴まないとな」


 はっきりとした声で独り言ちて、メモ書き用のノートを用意する。それと無機質な三色ボールペン。私はそれを、わざとクルクルと回す。それから、今日何度目かの溜息を吐いた。何の飾り気のないペンを見ては、成瀬くんがクリスマスにくれた物を思い起こす。あれは、職場のデスクの中にしまってきた。きっとあれがここにあったら、征嗣さんは間違いなく違和感を持つだろう。彼はそういう人だ。

 いつも通りに戻った部屋を見渡す。緋菜ちゃんたちと過ごした年越しは、楽しかったなぁ。久しぶりに、誰かがここで笑っていることも幸せだった。


 初詣を終えて、私は直ぐに彼らと別れた。皆、片付けをすると言ってくれたけれど、一人になることを選んだのだ。緋菜ちゃんたちを誤魔化すために、何とか仮面を被った訳だが、そういうことは性には合わない。長くやり続ける自信もなかった。

 成瀬くんは――彼らと別れてからだろう、直ぐに連絡をくれた。今から戻ろうと思うんだれど、と。けれども、それも断った。彼と二人きりになることが、何だか怖かったのだ。征嗣さんと別れることが現実になることも。成瀬くんがこの部屋に来ることも。あの時、彼は私を一人にしないと言ってくれた。それを信じると決めたのに、ついこの部屋に一人になると征嗣さんのことばかり考えてしまう。必死に何も考えないように片付けをして、少し寝た。起きた後の携帯には、成瀬くんからの連絡が入っていたけれど、私はそれを今も返せていない。


「とにかく、読まなくちゃ」


 正月感がない休みなのは、いつものことだ。こうして、ただひたすらに本を読む。

それから松の内の終わりごろに、征嗣さんがやって来るのだ。そして、いつものように私に尋ねるだろう。どんな本を読んだの?と。それは内容を知りたいからじゃない。ただ、私を優しく縛り付けて置くための行動。分かっていながらも、今年も私は同じことをしている。別れたい、と確かに思っているのに。

 興味のある物ばかりを選んだのだからページの進みは早いが、その手を止める物も大きい。コーヒーを片手に溜息。これを何度したことか。成瀬くんがあんな風に言ってくれたことは嬉しいけれど、応えることは絶対に出来ないと思っている。征嗣さんと別れられたとしても、だ。私は、汚れた人間。彼に離婚歴があろうと、比にはならない。決して日向を歩いてはいけない。それを何度も自分に言い聞かせている。そうやってボォッとしている静かな部屋に、バイブレーションの音が響いた。電話が鳴っている。


「征嗣さん……」


 しつこく鳴る電話。身を強張らせて、手を伸ばす。まだ、画面は見ない。きっと征嗣さんだろう。家族でいる時間の合間に、私の生存確認をしてくる。孤独なウサギは死ぬ、と思っているのだ。本当は、そんな理由でウサギが死ぬはずもないのに。

 もしかすると来たりするだろうか。慌てて鏡の前に立つ。黒のタートルネックワンピース。黒いタイツ。薄化粧はしてある。今マンションの前だ、と言われても大丈夫だろう。大きく息を吐いて、緊張を少しでも和らげようとする。そうして意を決して見た画面には、彼ではない名が表示されていた。


「……もしもし。成瀬、くん?」

「良かった。出てくれた。今、一人?大丈夫?」

「え、あ、うん。大丈夫」


 電話を掛けて来たのは、征嗣さんじゃない。成瀬くんだ。指先は一瞬スルーしようとしたが、それはしてはいけない、と思った。今出ないと会いにくくなるだろう。彼が嫌な訳ではない。ただ心が綺麗に片付いていないだけだ。征嗣さんと別れる方法も、未だに見つけられていないのだから。


「心配したんだ。昨日、返事がなかったから」

「あぁ、うん。そうだよね。ごめんなさい」

「謝らないで。僕が心配だっただけだから。ちゃんと、ご飯食べてる?」

「あぁ、うん。大丈夫、大丈夫」


 食べてます、と胸を張れるほどではない。年末に無理をして沢山食べたのもあるが、昨日はうどんを啜るのが精一杯だった。気持ち悪いだとか、そう言った具合の悪さではなく、単にお腹が減らなかったのだ。考えることが多過ぎて、今でも処理しきれていないから。


「食べてないでしょ」

「大丈夫、大丈夫。食べたって」

「僕ね。大丈夫って二回言う人のこと信じてないから」


 彼がいつものように、言った。それがあまりに得意気で、ふふっ、と自分から微かな笑い声が漏れた。何だか久しぶりに表情を変えた気がして、頬が強張ったように感じる。成瀬くんの後ろから聞こえるトラックの大きなエンジン音。どこかに出掛けるところだろうか。楽し気な人の声も、私の耳に届いた。


「ねぇ、陽さん。今から出て来られないかな。ちゃんと話がしたい。そんなに直ぐに気持ちの整理なんか付くものじゃないだろうけど、一人でどうしたら良いか悩んでるんじゃない?僕が力になれるか分からない。でも、他に誰にも話せなくて、不安なんじゃないかなって」


 彼が真剣に向き合ってくれていることは、先日の件で流石に理解していた。それを信じているし、心の支えであって欲しいと思っている。だけれども、応えることの出来ない相手の厚意に甘えるのは、どうも気が引けるのだ。あ、とか、えぇと、とか、曖昧な返事をしながらも答えが見つからない。


「僕はね、何が出来るかは分からないけれど、一緒に考えたいと思ってる。成瀬に相談してみようって思ったら、来てくれる?そうだな……駅伝の碑のところ。お昼まで待ってるから」

「……分かった」

「うん。有難う。じゃあ……またね」


 成瀬くんの気持ちは有難いと思っている。だけれども即答出来ない私に、彼はとても明るい声で応え、電話が切れた。そして直ぐに、私の自問自答が始まる。


 私はどうしたいの?もう噛まれたりしたくない。征嗣さんと一緒に居たい。あの子を裏切れない。一人になりたくない。征嗣さんと別れたい。幸せにだってなりたい。怖い。不安……私は、私は――?

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