第四話 私に差し伸べられた手を(下)

「え……?」 


 私が目を丸くしても、彼は変わらない。赤い目は未だ、ただ真っ直ぐに私を見ている。


「いや、ちょっと待って。成瀬くん……私は、そんな風に言って貰える女じゃない。知ってるじゃない。人の家庭を壊している、最低な女よ。成瀬くんが一番軽蔑するはずの女でしょう?何かが間違ってそう思ってしまったのだとしてもね、それはきっと、幻みたいなものだから。ね、お願い。私のことなんて放っておいて」


 哀れみで、勘違いしているのだ。可哀相な女に手を差し伸べて、そう錯覚してしまったんだ。それなのに……私の胸の中はドキンドキンと大きな鼓動の音が響いている。勘違いするな、と自分に何度も何度も言い聞かせた。


「ねぇ、陽さん。どうしたら信じてくれる?」


 そう言う表情は、本当に苦しみの中にいるようだった。本気で言ってくれているの?喉元まで出かかった疑問を、何とか飲み込んだ。自惚れるな、と何かが私を殴りつける。今まで、成瀬くんにドキドキしたことがない訳じゃない。幾度か、いや何度もそう感じたことがあった。でもそれは、が出来なかった私の、ただの憧れだ。


「僕は、陽さんを可哀相だとか。同情をして助け出したいとか。それから、良い人ぶって救おうとするだとか。そんな風に考えてるんじゃないんだ。上手く言葉じゃ伝えられないんだけど」


 彼はそれを言い表せない悔しさに、唇を噛んでいるようだった。真剣に話す彼を見ているのだけれど、私はまだ訝しんでいる。本気にしてしまうから、止めて。心の中で、必死に叫び続けていた。


「ポテトサラダ、凄く嬉しかったよ。忘れても良いような話だったのに、ちゃんと覚えててくれた。そういう細やかな気遣いが出来るところとか。昌平くんたちの恋を優しくフォローしようとしているところとか。僕はきっと、陽さんの好きな所を沢山言えると思うんだ。まだ少ししか知らないから、教授よりは少ないかも知れないけれど」


 彼は本気で言っているのだろうか。こんな私に、本気で手を差し伸べているのだろうか。


「あの……何て言えばいいのか分からないけれど、有難う。でも、私は成瀬くんの横には、立てないような人間だから。そう言ってくれただけで、十分。うん。本当に有難う」


 感謝はしている。きっと懸命に考えて、こう言ってくれたのだと思う。どうしたら私が、征嗣さんとちゃんと別れるのか。それを色々考えたのだろう。やっぱり成瀬くんは、優しい。


「どうして?僕らは並んでいたらいけないの?僕だって、バツが付いてる人間だよ。しかも、それを誰にも知られたくなくて隠して生きてるような、姑息な人間だよ。僕はそんなに立派な人間じゃない。陽さんには話したじゃないか」

「確かに、聞いたけれど」


 不倫をする女など、彼が一番嫌いな人間だと思う。サキと言ったか。元妻と同じなのだ。誰かを裏切って、自分の寂しさを埋めているのだから。


「それならば、分かってるでしょう。僕は自分の苛立ちを妻にぶつけてしまった。最低な男だよ。それでも陽さんは言ってくれたよね?私の知ってる成瀬くんは優しい。過去は過去だって。ならば同じように、陽さんのことを思ってもいいはずじゃない?僕が知ってる陽さんは、誰にでも優しい。それだけでいいよ」


 成瀬くんは、そう訴えかける。明らかに私は、その勢いに押し負けていた。


「陽さん、僕は本気だよ。お願いだから、それは信じて」


 その目は真っ直ぐで、澄んでいて、嘘はないような気がした。私は何も言えず、ただ呆然としている。彼は、本気で?私を?


「もう一度、聞くね。陽さん、噛まれたり、してない?」


 私の奥底にある物を覗き見ようとする瞳。頷くことも、首を振ることも出来なかった。彼を見つめ返す私の目から、涙の粒が零れ落ちる。一粒、二粒……それは、誰にも縋れなくなった私の心が、必死に助けを求めたようだった。


「……そっか。うん、分かった。嫌なこと聞いて、ごめんね」


 ポロポロと溢れ出る物を拭うこともせず、私は真顔でゆっくりと首を振った。温かな成瀬くんの手が、私の頭を撫でた。

 気持ちはどれも纏まらず、右に左に行ったり来たりしている。助けの手が差し伸べられ、それを掴むことの出来る安堵。征嗣さんと別れたいけれど、別れたくない気持ち。それから、体に残る痛み。色んな相反するような感情が湧いては、直ぐにシュンと萎んでいく。


「昨日か一昨日、あの人ここに来たよね?体、大丈夫?」

「え?」

「気付いてなかったんだ。あれ。お母さんの写真、伏せたままだったから」


 彼が指さす方を眺めると、母の写真が伏せられている。そうか。昨日は征嗣さんがいつもよりも執拗で、彼が帰るとそのまま寝てしまったんだ。今日はそれを忘れるために、朝から買い物に出てバタバタと動き回っていた。全く部屋のことなど、考えている余裕がなかったのだ。


「大丈夫。大丈夫よ」

「本当に?」

「うん……大丈夫。まだちょっと痛むけど、きっと明日には落ち着くから」


 成瀬くんは苦しそうに俯くと、また私を抱き締めた。彼の肩越しに、床に置かれた本の山を見る。土曜日に慌てて買った文庫本。あれが置いてなかったら、昨日はもっと大変だったかも知れない。


「僕はね、陽さんが嫌じゃなければ、傍にいたいなって思ってる。教授の代わりになりたい訳じゃないよ。僕は僕だから」

「う……ん」

「今は友達のままでいい。何も考えなくていいから。僕は傍にいるよ」

「うん……」

「絶対に一人にはさせないから。信じてくれる?」


 温かな腕の中。鼻先に彼の髪の匂いが届く。私は、はい、と小さく答えた。キュッと彼の腕に力が入る。一瞬だけ、本当に一瞬だけ。幸せだな、と思っていた。何だか緩やかに時間が流れる。征嗣さんが居た昨日とは、全く異なる色と匂いがする私の部屋。味気ない程の殺風景なこの部屋に、ほんの少し彩を感じた。


 二〇一九年が始まった時、私は一人ぼっちだった。征嗣さんは家族と過ごしていたし、私はここで一人、いつもと変わらない朝を迎えたんだ。まさかその年の終わりに、こうして優しい手を差し伸べてくれる人が現れるとは思わなかった。私は彼の心ある言葉に甘えて、その手を取ってみようと思っている。それは、年が明けたら逃げずに戦おうとする、私の意志でもあった。

 成瀬くんが温和な笑みを見せる。私は彼を体から離して、きちんと目を見て言った。成瀬くん本当に有難う、と。

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