第四話 私に差し伸べられた手を(上)
「どうして成瀬くんが私を助けないといけないの?」
彼に向って苛立ちを含みながら、そう呟いていた。緋菜ちゃんたちが出掛けて、三十分ほどか。彼が私の現実に触れた。知られたくなかった事実を知られ、もう引くことが出来ないでいる。だけれども、私には分からないのだ。たかが数ヶ月仲良くなっただけ。私たちの関係は、その程度である。成瀬くんがそこまでして、私と征嗣さんを別れさせようとする理由などない。
「どうしてって……」
困った顔を見せる成瀬くんに、私の中が沸々し始める。面白半分で首を突っ込むようなことじゃない。やっぱり、事実を伝えるべきじゃなかったんだ。今更しても遅い後悔が、私を埋めていく。
征嗣さんのことを話したのは、彼が初めてだった。彼の大きな秘密を知ってしまったのだから、友人として、フェアでありたかったのだ。そうすることで出来た覚悟もあるのだから、全てを否定はしないが。ただ彼に話す大前提として、成瀬くんならば余計なことはしないだろう、と思っていた。それが崩れてしまうと、ただの後悔しか残らない。
「同情?そんなのは要らないって、ついこの間言ったばかりよね。本当に放っておいて。お願いだから」
悔しかった。それに、惨めだった。痛ましい状況から一人で抜け出せない、と思われたことも。可哀相だ、と思われたことも。
私は、可哀相な子ではない。征嗣さんと居ることは、私の望みでもあった。愛だとか恋だとか、そんなくだらない感情ではない。私が全てを失くした時、寄り添ってくれた。あの時の、優しさの延長線のままなのだ。だけれど互いの状況も変わった今、終わりにしなければいけないことくらいは分かっている。だから、何度も伝えて来た。征嗣さんが色んなことを結び付けては、私にぶつける苛立ち。それは今日も、確かに服の下で痛んでいる。
それでも、私は可哀相ではない。
「僕は、同情なんてしてるつもりはないよ」
「嘘よ。だって、あなたがそこまでしてくれる理由なんて、何もないでしょう?もうお願いだから……何も見なかった事にしてくれないかな」
彼に晒された腕を服の中に戻し、私は必死に涙を堪える。笑い掛けているつもりだけれど、出来てはいないだろう。それでもいい。きっと彼に会うのは、今日で最後になるのだから。
「陽さん。本当にもう僕に会いたくない?顔を見るのも嫌?」
「そ、うよ……」
「ちゃんと見て。僕のことをちゃんと見て」
分かっている。成瀬くんが傍に居てくれることが、本当はどれ程に心強いことなのか。そのくらいは、私にだって分かっている。だから、彼の強い眼差しに、私は心許無い返答しか出来なかった。どうして放っておいてくれないの、と思う苛立ちもある。でもそれは、彼の言うことに真っ直ぐに反論が出来ないから。情けないことに、事実を言われて逃げ出したいだけなのだ。
「僕は、こんなに傷だらけになる陽さんなんて、見たくない。見たくないよ」
私に触れようとする成瀬くんの手を避けた。触れてしまったら、私はきっと、この手に頼りたくなってしまう。
「本当に、僕のことが嫌いなの?」
成瀬くんは全てに納得のいかない様子で、私を覗き込む。それでも目を合わせることが出来なかった。
征嗣さんとのことは、私なりにきちんと終わりにしようとしている。黄色い可愛らしいリュックを背負ったあの子を、私だって不幸にしたくない。今でもそれが出来ていないのは、征嗣さんが納得出来ていないからだ。簡単に、はいそうですか、と言うわけにはいかない。ただでさえ、先日の成瀬くんの発言に苛立って大変なのだ。これ以上彼に割って入って来られたら、事態がややこしくなるだけ。だから私は、成瀬くんのことなんて嫌いです、と何とか絞り出した。しわしわの、枯れてしまいそうな声で。
「陽さん……ねぇ、それは本心?」
「本当に、もういいので。同情は要りません。全て見なかった事にして下さい。それだけでいいの。お願いします」
頭を下げた。これ以上、関わらないで欲しい。成瀬くんにだって迷惑を掛けたくない。お願いだから放っておいて欲しい。私の願いは、もうそれだけだった。
「陽さん。本当に、本当に同情じゃないんだ」
「じゃあ何なの?何なのよ。私が助けてって頼んだ?征嗣さんに何か言ってって頼んだ?お願いだから、本当にもう止めて」
これ以上、彼が征嗣さんを怒らせるようなことをしたら、本当に終わりにすることが出来なくなる。私は愛されている。心の隅っこでそう感じられるうちに、私は彼との関係を終わりにしたいのだ。憎んでなんかいない。この長い年月をかけて、征嗣さんは私を支えてくれた。征嗣さんが居なかったら、私は笑って来られたかどう分からない。両手を握り込んで、私はまた下を向いた。成瀬くんが「分かった」と言ってくれるまで、目を合わせることは出来ない。そう思った時だった。
彼の大きな両手が突然、私の頬を優しく包んだ。声も出せないまま、驚いて目線を上げる。そうして何時かのように、彼の柔らかな唇が重なった。
「……ごめん。僕は教授と別れて欲しいって、本気で思ってる。同情なんかじゃない。本気でそう思ってるんだ」
そうして私はようやく、何か違和感を覚えた。何かの苦しみを抱えているのは、私だけではなかったのではないか、と。目の前にいる彼は、真っ赤な目をして唇をギュッと噛み締めている。
「僕は、陽さんが好きなんだ」
彼はまた、真っ直ぐに私を見てそう言った。
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