第二話 僕のポテトサラダ(下)
ローストビーフがなくなった二十一時過ぎ。付けてあるテレビには、紅白が映し出されている。特に誰かが見たかったわけではない。色んな話をして、だらだら酒を飲んで、食べて。ゲームをダウンロードして遊んでみたりして、何となく付けただけだけれど。やっぱりこれを見ると、あぁ今日は大晦日か、と感じものである。
「今年も終わりねぇ」
「陽さん、そんなにしんみりして。あと数時間で新年だよ。しんみりしてる場合じゃないんだって」
「そ、そう?」
緋菜ちゃんの勢いのある返しに、陽さんは苦笑いだ。昌平くんもアルコールのせいなのか、ケラケラと笑った。すると、それを見た緋菜ちゃんが、僕に小さく頷くのである。作戦が始まるのだ。
「ポテトチップが食べたい」
「えっ、ポテトチップ?あったかなぁ。あまりお菓子買わないから」
「まったくしょうがねぇなぁ。陽さんいいよ。どうせ好みの味じゃないと嫌なんだろ?買いに行って来るよ。お前も来いよな、緋菜」
「えぇ、分かったよ」
ブスッとした顔で緋菜ちゃんが答えたけれど、結局はすんなりと立ち上がる。昌平くんの様子を見ていると、彼は彼で陽さんとそういう約束をしていたのかも知れないな、と思う。我慢しろよ、と宥められてしまったら、きっと一歩目を踏めずに頓挫しただろう。ある種、好都合だ。
「そうしたら、お葱が売ってたら買って来てもらえる?年越し蕎麦用の買うの忘れちゃって」
「分かった。よし、昌平。行くぞ」
「はいはい。じゃあ、他に買って来るものがあったら連絡ちょうだい」
「うん。分かった。気を付けてね」
上着を着込んで、玄関から出て行く二人を見送る。何だか楽しそうにじゃれ合って、良い感じに見えた。昌平くんの恋も上手くいけばいいな。僕は切にそう願った。
部屋へ戻る時、不自然に伏せられた写真立てが目に留まる。陽さんによく似た、微笑んだ母親の写真。それはとても大事そうに飾られていたのに。幾つもあるそれが、全て伏せられたままだった。きっとここに、教授が来たと言うことだろう。もしかすると今も、陽さんの体は悲鳴を上げているのかも知れない。
「さて、空いたお皿洗っちゃおうかな」
「あ、うん。そうだね」
辛そうな様子は微塵も見せない彼女は、座ろうとはしなかった。量の少なくなった物を一つに纏めていく。僕は、空いた皿を流しに運んだ。二人きりになっても、彼女が顔色は変わることはない。僕は様子を見ながら、洗い物を手伝うことにした。
「陽さん」
「ん?なぁに」
「昌平くんと約束してたの?さっきの」
「あ、バレたよね。ふふ。何だかちょっと良い感じでね。二人きりにするには、そうする他に思いつかなかったのよね。なので、ごめんね。残った者同士で仲良く片付けしましょう」
陽さんは、優しく微笑む。さっきまでと変わらないけれど、僕と目は合わせなかった。彼女の隣に立って、僕は皿を拭く。さっきのゲーム楽しかったね、なんて全く違う話をして様子を探っていた。目を合わせないということは、彼女の中にも気不味さや、何かの覚悟があるのだろうと思っている。陽さんが最後の皿を手に取ると、僕はいよいよだ、と静かに息を飲んだ。
「お酒飲む?それとも温かい物淹れる?」
「あぁそうだなぁ。ゆっくりワイン飲まない?ソーダ系はお腹が膨れちゃって」
「確かにそうだよね。じゃあ、半端なワイン空けちゃおうか」
全て洗い終え、水道の水が止まった。陽さんはハンドクリームを手に取ると、僕の手の甲にも載せる。仄かなフローラルの香りがして、男の子には変だったかしらね、と笑う。ワイングラスを手にした僕らは、また並んで座って、小さく乾杯をした。可愛らし色のロゼを持ち上げて。
「ねぇ、陽さん」
「ん?」
「ポテトサラダ、有難う」
「いえいえ。本当はね、キュウリは入れるつもりなかったの。でも、緋菜ちゃんが入れないの?って聞くからさ。成瀬くんが苦手なのって言えないじゃない。皆でいた時に話したことじゃなかったし」
そう言い終えてから、陽さんが目を泳がせた。それを話したのは二人きりの時、ここでしたのだ。しかも、僕が彼女にキスをしてしまった後に。きっと彼女も、それを思い出したのだと思う。妙に気不味い空気が流れ、僕らは目を逸らしたままグラスに口を付けた。
「こそっと作ったから枝豆被っちゃってごめんね。小鉢に盛り付けたのも私がしたし、緋菜ちゃんも多分気が付いてないとは思うんだけど」
「うん。ありがとう。でもさ、何となくこそこそ食べたよ。絶対にバレたらいけないなって」
「そっかぁ。とんだミッションだったわね。ごめん」
今日の陽さんは、いつもよりもちょっとだけ明るくて、それでいて凄く落ち着いている気がしていた。それが却って疑わしく感じられて仕方ない。教授が来たのは、昨日か一昨日の話だろう。本当は、心も体も傷付いているのではないか。僕の中の疑念は、大きくなるばかりだった。もう後には引けない。
「陽さん。年明けたらさ、また何処かに行かない?」
「ん、そうねぇ」
「旅行ってことじゃなくて、ランチとか。ほら、お好み焼きも行こうよって言ったじゃない?それとかさ」
「時間が……時間が合えば、ね」
陽さんは、目を合わせない。あぁ僕にはもう会うつもりがないのだ、と確信した。今までランチは断られたことはない。寧ろ、僕がダメだろうと諦めても、彼女は変わらずに付き合ってくれた。だからこうして濁されるということは、それが彼女の決意なのだろうと思ったのだ。
「それはさ、教授にバレるからダメなんだよね」
「そんな、そんなことはない。征嗣さんは関係ない話よ。年度末で、仕事も忙しくなるし。今までのように時間が取れるか分からないから」
「本当に?それなら、僕は春まででも待つよ。美味しいお店探して、陽さんが時間出来たよって言ってくれるのを待つ」
「成瀬くん……」
陽さんは下を向いた。それから口元に力が入る。
「陽さん。この間は余計なことをして、ごめんなさい。僕は単に、教授に別れて欲しいと思ったんだ。あんなに幸せそうな家庭を自分は持っているのに、不公平だって思って。真っ直ぐに伝えたら、教授にも何か届くんじゃないかと思った。でも、もしかしたら、僕はたき付けてしまったのかも知れないって思ってて」
僕は上辺の教授しか知らない。良い人そうに学生を見守る。そんな優しい顔しか知らない。あの時は気付いていなかったんだ。陽さんに傷を付けているような男だとは。後悔しても仕方ない。陽さんに素直に伝えたつもりだけど、彼女は僕を決して見なかった。
「陽さん。本当にごめんなさい」
「もう、もういいのよ。成瀬くんが謝る事じゃないから。私が悪いの。征嗣さんとズルズル離れることが出来なかった。別れたいって思いながらも、手放すことが出来なかったから。成瀬くんが悪い訳じゃない。だからもう、本当にいいから」
膝の上で強く握られた拳の上に、僕はそっと手を乗せた。その小さな手は、微かに震えている。
「それで、もう僕と会うつもりないんでしょ」
陽さんは何も言わない。だけれど、その手はまた強く握られた。
「あまり第三者が核心に触れることじゃないかも知れないけれど……たき付けてしまったのは僕だから、言うね。陽さん、教授に何かされてるよね」
「え、何も……何もされてないよ」
「本当に?僕、昨日ようやく思い出したんだよ。ずっと引っ掛かってた残像があって。それが……誰かの歯形だった、って」
青褪めた顔をした陽さんが、ようやく僕と目を合わせる。この間、僕が教授に話したことを伝えた時のように、目を見開いて、こちらを見るのだ。僕は事実を察すると同時に、彼女の中の苦しみを見た気がした。
「な、何かの間違いじゃない。成瀬くん。流石にそんなことはないよ。ほら、言ったでしょう?彼は口は悪いけれど、殴ったりはしない人よって」
「うん、言ったよね。僕もそれを疑わなかった。でもさ、ここで陽さんの体に触れてしまった時、僕は確かに見た。その時は一瞬で判断が出来なかったけれど、昨日似たような物を見たんだよ」
陽さんは腕を何とも擦って、ゴクリ、と唾を飲み込む。その音がハッキリと聞こえた。何度も何度も腕を擦って、どうにか普通を装おうとしている。だから僕は、彼女の名を呼び、その袖を一気に捲り上げた。
そうして僕が見た物は、おぞましい程の噛み跡。彼女の細腕ですらこうなのだ。きっと柔らかな腹や胸は、もっと酷いことになっているに違いない。目を伏せてはいけない。僕はそれを優しく覆って、それから彼女を抱き締めた。そうする他に思い浮かばなかったのだ。どんな言葉を掛けても、この傷を覆えるような力はないから。
「陽さん。お願いだから、教授と別れてください。お願いします。僕、もう見ていられないんだ」
彼女は泣きもせず、僕を力一杯に突き放してから、僅かに口元に笑みを作る。それから、僕の奥の方を見ながらこう言った。私は大丈夫だから、と。
「そんな訳ないでしょう?実際にこれは、どう説明するの?流石に他を見せて、とは言わない。それでも想像は付くよ」
そう言っても、彼女は空を見つめたまま笑って、また言うのだ。「大丈夫、大丈夫。私は大丈夫だから」と。
「僕は、大丈夫って二回言う人を信じないんだ」
何も言わない。言えないのかも知れない。でも彼女は微かな笑みを保ったまま、一粒涙を零した。それは、綺麗な玉になって、彼女の白く滑らかな肌を滑って行く。
「もう……もう放っておいてよ、私のことなんて」
「そういう訳にはいかない。僕は陽さんを助けたいんだ」
「助ける?何で?どうして成瀬くんが私を助けないといけないの?私と征嗣さんのことは、お願いだから放っておいて」
ポロポロと涙の粒を零しながら、陽さんは僕を必死に突き放している。そして、もう一度言った。どうして成瀬くんが私を助けないといけないの?と。微かな、消えてしまいそうな声で。
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