第二話 僕のポテトサラダ(上)

「根津って、そう言えば来たことないかも」

「あ、そう?……って、僕もないや」


 昌平くんと笑い話をしながら、歩いている大晦日の夕暮れ。彼女の家まではもう少し、ということころである。一度行ったことがある、というわけにも行かず、二人でを歩き探しているところだ。地図は前もって貰っている。

 夕べ、家に帰ってから、僕は色々な事を考えた。彼女を助け出すにはどうしたら良いか。ただでさえ僕は、先日誤った選択をしている。正直、正解なんてないだろうが、あの事実に気付いてしまったからには、そのままにしておくわけにはいかない。多分、今日が最初で最後のチャンスになると思う。尻込みしている場合ではないんだ。


「お酒、買い過ぎたかな」

「あぁどうだろうな。でもほら、残ったらさ。また適当に理由付けて、陽さんの家で飲めばいいじゃん」

「そんなに何回も、部屋を提供してくれるかな」

「大丈夫だよ。酒という人質置いてくんだよ?陽さんなら、勝手に飲んだりしない」

「あぁ、そう言われると確かに」


 昌平くんは、今日は何だか楽しそうだ。寝袋を一つ脇に抱えて、ワインを持ってくれている。ケーキともう一つの寝袋は、朝のうちに緋菜ちゃんに託したらしい。意外とこの二人は、仲良くやっている気がしている。

 あぁ段々と彼女の家が近付く。ここを通るのは、あの日以来だ。離れた手を握って、僕が陽さんを好きだと自覚した場所を通り過ぎる。忘れる訳はない。今でもあの時の感覚だけは、鮮明に思い出せる。


「あれ?成瀬くん、もうちょっと先じゃない?」

「あ、ごめん。ここ……だね」


 あの時のことを思い出して、何の迷いもなく立ち止まったマンション前。昌平くんにそう言われて、慌てて携帯で確認していたフリをした。画面は付いていないけれど。


「もう少し先かと思ったよ」

「そう?僕、意外と地図で道覚えるの得意でさ」

「へぇ。俺は行きあたりばったりな所あるからなぁ」


 昌平くんが部屋番号を確認すると、インターホンを押す。どうぞ、と直ぐに彼女の声が聞こえると、ピリッと僕の中に緊張が走った。

 ここに来るのは、勿論あの日以来だ。薄っすらと思い出し始める景色。部屋へ続く床の色。壁の質感。陽さんの部屋に向かった記憶は定かではないけれど、逆方向に見た物がヴィヴィットに色付いていった。僕は、あの日……。


「どうぞぉ」


 扉が開いて顔を出したのは、緋菜ちゃんだった。ニコニコしながら僕らを中へ導き、スリッパを出す。いつも店で会う時よりも、女の子、に見えた。クールな印象は消え、随分と可愛らしくなったように思えたのである。


「おぉ、緋菜。寝袋受け取って」

「はいはい。陽さん、二人とも来たよ」


 奥の方から、はぁい、と彼女の返事が聞こえただけで、僕はまた緊張に身を縮めた。緋菜ちゃんはハンガーを僕に渡しながら、ギュッと口を結んで力強く頷いた。頑張れ、と言うことだろう。真実は知らなくとも、背を押してくれる友はいるのだ。僕はもう迷わない。

 コートを掛けながら、ここに立って改めてあの日のことを思い出していた。全て明確なシチュエーションを思い出せている自信はないが、ぼんやりと浮かんでいるのだ。僕があの日、彼女の唇を奪ったことを。それから、僕が手を伸ばした彼女の柔らかい肌のことを。その時は、どんな感情だったのか。一体、何をしようとしたのか。今となっては分からないけれど、思い出せる範囲でも最低なことをしている。今更、謝れるはずもけれど。


「いらっしゃい。寒かったでしょう?」


 扉を開けて部屋に入ると、キッチンに立っている陽さんと目が合った。かれこれ数日、僕のことを無視し続けている彼女は、そんなことなど微塵も感じさせないような笑顔を見せる。どこか強張った顔をしているのは、きっと僕の方だ。


「陽さん、ワインとかお酒冷やしたいんだけど。冷蔵庫、いい?」

「あぁうん。どうぞ。でも全部入るかなぁ」


 張り詰めたやり取りをしている僕らを知ってか知らずか、昌平くんと緋菜ちゃんはもう既に口喧嘩が始まっている。どうも緋菜ちゃんは、乾杯の前に昌平くんが何かをつまみ食いしたのが気に入らないらしい。陽さんは彼らを困った顔で見つめてから、僕に微笑み掛けるのだ。また始まったね、と。


「乾杯はビールで良いのかな」

「あぁ、うん。良いんじゃない?」


 それから陽さんはいつもと変わらない様子で、僕に話し掛けた。僕が戸惑っているのにも気が付いているはずなのに、それは見て見ぬ振りをするらしい。あくまで、例の件にはこの場で触れてくれるな、ということだろうか。


「ほらほら、喧嘩しないの。乾杯のビールね。それから緋菜ちゃん、マグカップちょうだい。洗っちゃう」

「はぁい」


 きっと僕らが来るまでの間、二人で何か話しながら準備をしていたのだろう。何だかいつもよりも穏やかで、二人がより増して姉妹のように見えた。そんな微笑ましい光景に目を細めて、僕は料理の並んだテーブルに着いた。昌平くんと緋菜ちゃんは並んで座りながら、未だ何かに揉めている。あの二人を並べたのは、陽さんだろう。一先ずここは、僕は彼らの恋のサポーターに徹しなければいけない。

 すると緋菜ちゃんが、何やらチラチラと僕を見ていた。何だろうと思ったが、多分、陽さんの隣にしたよ、ということだろう。だから僕は小さく頷いて応じた。


「じゃ、乾杯」

「乾杯」


 何故か昌平くんが乾杯の音頭を取ったけれど、誰も疑問にも思わなかった。今日は酒を飲んで楽しもう、というコンセプトである。それは誰が言い出しても、誰も気に留めなかったろう。静かにジャズが流れる部屋。奥にある小上がりが目に入る。あぁ僕はあそこに座ったな、と断片的に思い出していた。


「よし食べよう」


 所狭しと並んでいる料理に、真っ先に緋菜ちゃんが手を伸ばした。とても嬉しそうに頬張るのは、見ていてこちらも頬が緩む。唐揚げは、緋菜ちゃんが買って来ると言っていた。ローストビーフやポテトサラダは、陽さんが作ったのだろうか。彼女の手料理と意識して、勝手にドキドキし始める。それを何とか誤魔化して、玉ねぎが入ったソースがかけられているローストビーフに手を伸ばした。それは、とてもさっぱりとしていて、他の料理の邪魔をしない。こういう細かいところが、陽さんらしいな、と思う。僕の目の前で昌平くんが唐揚げを頬張ると、直ぐに緋菜ちゃんがそれを覗き込んだ。


「美味しいでしょう?」

「お、本当。家の近く?」

「そうそう。後で教えてあげるよ」


 そんなやり取りをする二人を見ていると、何だか本当に上手くいきそうな気がしてくる。直ぐ口喧嘩になるのは変わらないけれど、少し恋の風味が混じっているようだ。互いに照れたり、躊躇う間があったり。緋菜ちゃんももしかしたら、昌平くんのことが気になって来たのだろうか。それならば僕らの共犯関係は、多少は役に立ったということだろう。


「そうだ。ポテトサラダね、私が混ぜたんだけど、玉子潰れちゃって。ごめん」

「緋菜ちゃん。大丈夫よ、これくらい。ねぇ、昌平くん?」


 陽さんが直ぐに、昌平くんに話を振る。彼はちょっと緊張したように肩肘を張って、「お、うん。味は美味しいよ」と応じるのだ。見ているこっちまでも緊張してしまう程、初々しさがあった。


「それはさ……陽さんの味付けだから」

「あっ……いや」

「緋菜ちゃん。混ぜるのも丁寧にやらないとね、味が均一にならないのよ。上手に出来てるからね」


 緋菜ちゃんは、ちょっとだけシュンとしている。気付いた昌平くんは掛ける言葉に躓き、直ぐに陽さんがサポートに回った。懸命に昌平くんも「そうだよ」とか言って同調すると、緋菜ちゃんがおずおずと顔を上げる。恋の始まりって難しいよな。彼らを見ていると、もどかしさが勝ってしまう。いっそのこと言ってしまえばいいのに、なんて他人だから言えることをつい思ってしまうのだ。良くないな、と反省しながら、僕もポテトサラダに手を伸ばした。


「……ん、あれ?」


 僕の声に、陽さんが小さく人差し指を立てた。本当にさり気なく、何か他の物に手を伸ばしながら。だからきっと、緋菜ちゃんを覗き込んでいる昌平くんは気が付いてない。


 僕が声を出してしまった理由。それは緋菜ちゃんが、「潰れちゃった」と言った玉子が、僕の物は潰れていなかったのだ。彼らの物とは違いがなさそうに見えたが、よく見ると僕のにはキュウリがない。その代わりに、枝豆が入っている。

 あぁ陽さんだ。僕がキュウリが嫌いだ、と言ったから。緋菜ちゃんに内緒で用意してくれたのだ。僕はそれをコソコソと頬張る。少しだけ、ニンマリした顔で。

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