第一話 私の疑問(上)

「緋菜ちゃん、大丈夫だった?」

「うん。迷うような感じじゃなかったよ」

「そう、良かった。さ、入って」


 十二月三十一日、十五時。私は直接陽さんの家にやって来た。両手には唐揚げと刺身、それから昌平の作ったケーキと寝袋一つ。そこそこの大荷物を抱えている。


「寝袋、先に預かってあげれば良かったね。ごめんね」

「いや、私も昌平も、昨日まで気付かなかったんだよね」

「そっかぁ。はい、スリッパ。とにかく上がって。寒かったでしょう」

「うん。有難う」


 迎えられて入った陽さんの家は、とってもシンプルな感じだった。壁には絵が飾ってあって、それ以外はあまり装飾品がない。それも、陽さんの家っぽい。コートを掛けてくれる彼女の脇で、私の鼻に届く美味しそうな匂いが気になっていた。何だか香ばしくて、お腹が空いてしまいそうな匂いだった。


「美味しそうな匂い。ふふふ、楽しみ」

「良かった。さぁ、どうぞ」


 通された奥の部屋は、壁付のキッチンと窓際に小上がりの畳敷きがあった。緑が良く見えて、何か雑誌に載ってる部屋みたい。生活感があるようで、ない。床に大量の本が置いてあるくらいだ。しかもそれは、私が読まなそうな分厚い本だった。


「あ、はい。お刺身と唐揚げ。それからケーキ」

「わぁ有難う。美味しそうだね。お刺身とケーキは冷蔵庫ね」


 受け取った陽さんは、テキパキと動いた。こんなに美味しそうな匂いがしているのに、キッチンはちっとも散らかっていない。彼女はきっと締め切りまで物事を溜めないタイプだ。夏休み最終日に慌てることなど、きっと無縁だったろう。一人でそんな気がして、勝手に納得している。


「よし、寛いじゃうと動きたくなくなっちゃうから。間髪入れずにお手伝いします」

「あら、そう?じゃあねぇ。彼らが来るのが十七時だから、ソース作りはもう少し後にして、サラダ作ろうか」

「うん。何サラダ?ポテトサラダが食べたい」

「あぁ……うん。大丈夫、作れるよ」


 陽さんにエプロンを借りて、手を洗う。何だかお母さんのお手伝いみたい。陽さんは冷蔵庫を覗き込んで、材料を並べた。ジャガイモ、玉ねぎ、ベーコン。それから、卵。


「へぇ卵使うの?陽さんの家の味?うちのはキュウリとか人参とか入ってたよ。懐かしいなぁ。あれ?キュウリは入れないの?マストかと思ってた」

「あ、そ……うか。そうだね。入れようね。グリーンが足らないものね」

「うん。何から手を付けるの?」

「そうねぇ。キュウリを塩揉みしようかな。ジャガイモは簡単に、チンしちゃおう」


 母娘、と言うよりは、先生と助手の方が近そうだ。ジャガイモやベーコンの準備。キュウリや玉ねぎを切って、茹で玉子を剥いたりする。言われた通りにやって行くのに、私がやると何故だか直ぐにグチャグチャになった。それでも陽さんは嫌な顔せずに、慌てないでいいよ、と微笑むのだから大人だ。


「緋菜ちゃん。力を抜いて。失敗したって良いのよ。お料理はそうやって覚えていくんだから」

「う、うん」


 陽さんは手際良く作業を進める。茹でたジャガイモを潰して、お酢を振って。お酢なんて入れるんだ、と思ったけど、何だか恥ずかしくて言えなかった。だって、当たり前かも知れない。料理に関しては、私は知らないことが多過ぎる。


「そうだ。緋菜ちゃんと昌平くんは、寝袋で寝るのかな。そうしたら、小上がりで良い?でもやっぱり、お隣だと緊張しちゃうかしら」

「陽さんっ。た、多分大丈夫だよ……。それにさ、ほら寝ないかも知れないし」

「本当?ずっと起きてる?」

「ほら、初詣行ったりとかさ」

「あ、そうか。年越しのことばかり考えてた。そうよねぇ。年が明けたら、初詣行きたいよね。そっか、そっか」


 陽さんは、そうすることに特に反対はないようだ。昌平と外に出て帰って来た時の成瀬くんの反応を見て、行けるかどうかを判断しよう。何だか楽しみが増えた。この二人、上手くいくといいなぁ。


「緋菜ちゃん、これ混ぜてもらえる?さっくりとね」

「うん。さっくり、さっくり」


 私は、彼女がボウルに入れた材料と調味料を混ぜる係。さっくり、と念仏のように繰り返しながら、こんな簡単なことに緊張している。少しは私も、頑張ったねって褒めて貰えるかな。そんな打算が浮かんだから、いつになく真面目に取り組んでいるのかも知れない。

 微笑みながら見ていた陽さんが、少し貰うね、と小さなボウルにそれを取り分けた。それから茹で玉子を追加して彼女は、潰し過ぎないようにね、と念仏を追加する。また私は真剣になった。陽さんも同じように小さなボウルを混ぜている。あれは何だろうな。全く見当のつかないその先に、私は好奇心が湧いている。


「そうだ、陽さん。年が明けたらさ、まだ何か教えてくれない?」

「お味噌汁の次ってこと?」

「うん。お味噌汁はね、出来るだけ作るように頑張ってて。続いてるんだよ」

「偉いねぇ。次は何が良いかしら?あ、昌平くんの好きな物にする?」

「そ、そう……だね」


 改めて言われると、何だか緊張する。昌平を好きな気持ちはあるけれど、やっぱり他の人に言われると、恥ずかしいもの。でも陽さんならば、いいか。絶対に私の失態を笑ったりはしないから。陽さんは、意地悪にこっちを見たりはしない。冷凍の枝豆を解凍してみたり、何かの準備をしたりしている。手元にあるポテトサラダ。ちょっと潰し過ぎちゃったかな。


「でもね、昌平って何でも出来るんだ。料理はあまりしないって言ってたけど、きっとレシピを見れば美味しいのが作れるんだと思う。私が頑張っても仕方ないよ」

「緋菜ちゃん。そんなことないと思うな。私ね。昌平くんは、一生懸命にやったことを笑うような人じゃないと思う。違うかな?」

「……うん。そうだと思う」

「じゃあ自信持って。何が良いかしらね」


 作ってみたい物をあれこれ提案してみる。玉子焼き、炊き込みご飯、パスタ、フレンチトースト。陽さんはそれを頷きながら聞いて、何かを作り始めていた。部屋中に香ばしい匂いが充満していく。


「おにぎり、はどう?」

「おにぎり?」

「そう。握れるだろうけれど、具をアレンジしたり色々出来るし。それに、昌平くんがお泊りした時とかに、朝ごはんで出せそうじゃない?おにぎりとお味噌汁」

「お泊りって……」


 あまりにサラッと凄いことを言われた気がする。何言ってんの、とひっくり返ったような声を出す私に、陽さんはペロッと小さく舌を出した。

 昌平がうちに泊まるなんて、そんなことあるのかな。だって実際は、ルイのことが好きなのかも知れない。昨日あげたエプロン、本当に年明けに使ってくれるのかな。その場を取り繕っただけで、本当はルイと買った方のそれを付けるんじゃないのかな。見たこともない敵に勝手に翻弄されて、私の心は直ぐに落ち込み始めた。片想いって、本当に難しい。


「何暗い顔してるの。もう。緋菜ちゃん、こっち向いて」

「うん……」

「ほら、口開けて」


 え?と見た陽さんは、何かを手に持っている。味見かな?私は疑いもせずに大きく口を開けた。


「なにこれ、美味しい。チーズ?」

「そう。簡単なのよ。お煎餅みたいに焼くの。結構ビールにも合うしね」

「うん、合いそう。あぁビール飲みたいなぁ」

「まだあと一時間ちょっとあるね……半分ずつ飲んじゃう?」

「いいの?いや、いいよね」


 缶ビールを開けて、陽さんはグラスに二つ注ぐ。何だか悪いことをしている気になりながらも、私たちは小さくグラスを鳴らした。小さな女子会の開催である。


「ポテトサラダも食べたい」

「えぇ、ちょっとだけね。お腹一杯になっちゃうよ」

「だよね。でも、ちょっとだけ」


 仕方ないわねぇ、と呆れながらも、やっぱり陽さんは優しい。それが少し載せられた皿をテーブルに置く。私はその前に座って、有難く手を伸ばした。茹で玉子が入っているそれは、しっかり重みのあるポテトサラダ。良く見ると不細工だけれど、味は美味しい。まだ何か作るのかな。味見が楽しみになって来た。


「緋菜ちゃん。エプロンどうだった?」

「あ、あれね。大変だったんだよ。丁度、昌平も買ったばっかりだったんだって。職場の先輩と行ったらしくて。またルイかなぁって……」

「ヤキモチ妬いちゃうよねぇ」

「……うん」


 陽さんは、私に背を向けてキッチンに立ったまま、まだ手を動かしていた。面と向かっていないから、私もスルリと弱音を零したのだと思う。そうじゃなければ、本当に見えない相手に負けそうで、苦しいのだ。

 エプロンのことは、陽さんにも相談をした。あげようと思うのだけれどどうだろう、と。自分で色々考えて導き出した品だったが、やっぱり不安だったのだと思う。

いや、品物ではないかな。昌平に何かをあげる、という行為自体が心配だったんだ。だから、「絶対に喜んでくれると思うな」と陽さんが言ってくれた時は、どれだけ心強かったか分からない。


「でもきっと、昌平くんは使ってくれると思うよ。何か園児に自慢してそうな所が思い浮かぶもん」

「そう?うぅん……言われてみれば、そんな気もする」


 でしょう?と陽さんが振り返った。そう誰かに言われるとそうとしか思えなくなるのだから、面白い。昌平なら、園児の真ん中で、あのエプロンを付けてくれる。私は簡単に笑顔に戻って行った。

 あぁいつの間にか、外は薄暗い。彼らが来るのも、もう少しだろう。今日は成瀬くんから頼まれたミッションがある。緊張する前に、もう一つくらい、とチーズに手を伸ばした。

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