第二話 僕の溜息(下)
「成瀬くん、ごめんね。返事打つの面倒で、そのまま来ちゃった」
「あぁいいんだ。お疲れ様」
手を擦り合わせながら現れた緋菜ちゃんは、何の迷いもなくビールとイカフライを頼む。彼女がここに来て真っ先に頼むセットである。それからマフラーを解いて、椅子に腰掛けた。今日は何だか荷物が多そうだ。
「仕事、早かったね」
「あ、うん。今日で年内終わりだから、閉店が少し早かったのよ」
「そうなんだ。僕の方こそ、ごめんね。そんな疲れてるところに」
「あぁ、いえいえ。でも、珍しいね。成瀬くんが私に相談だなんて」
ビールが運ばれて来ると、暗黙の了解で「乾杯」と声を上げる。チラホラ入って来る客は、既に酒が入っているようだった。家で暇を持て余した男たちが、早い内から飲んでいたということだろう。まぁ僕も理解は出来る。
「緋菜ちゃん。陽さんから何か聞いてる?」
「陽さん?特に。明日の話は色々してるけれど。どうしたの?」
「あぁ、いや。僕と何かがあった訳じゃないんだ。何か緋菜ちゃんには、相談みたいなことをしてるのかなって思って」
女同士、という強力な結び付きは、男の僕では計り知れない何かがあるのだろうと思っている。特に誰かの愚痴を言い合う時は、より増してヒートアップするもの。それだけは、心得ている。陽さんと緋菜ちゃんの関係性は、姉妹みたいなものだろうと思う。だからこそ、恋愛相談だとか、何かそういう話をしているのではないかと思ったのだが。流石に教授のことは、簡単に言える訳もないか。
「私は何も聞いてないけれど……あのさ、成瀬くん」
「うぅん?何?」
ハイボールを傾けて、僕は次の手を考えている。緋菜ちゃんには、明日彼女と二人になる時間を作ってもらえないか、と頼むつもりだ。あれから陽さんが、僕の連絡を無視しているということは、下手したら今後断ち切られる可能性があるということ。明日は、以前から予定していたし、昌平くんの応援もある。だから絶対にキャンセルになることはないだろう。明日の内に、彼女と仲直りぐらいはしておかなければいけない。
「陽さんのこと、好き?」
飲みかけたハイボールを、ブッと噴き出した。慌ててお絞りを手に取って、何言ってんの、と緋菜ちゃんを見る。でも彼女は、至って真剣に聞いてきたようだった。一つも笑ってはいない。
「私は、本当の陽さんって知らないんだと思うの。好みとか、本当は彼氏がいるのか、とか。どちらかと言うと、私よりも成瀬くんの方が知ってる気がするんだよね」
「僕の方が?」
「うん。何て言うかなぁ。私と昌平のことは、弟とか妹みたいな感じだけど。成瀬くんはそうじゃないような気がして」
「ううん、そんなことないよ。陽さんはいつだって、僕のことは子供扱いだよ」
それは事実だ。いつだって、可愛らしい男の子、と形容されている気がする。彼女を頼って来る学生たちと同じような括り。緋菜ちゃんが感じているほど、僕と彼女の距離は縮まっていないのかも知れない。
「そうかなぁ。私は、二人が凄くいい感じに見えるな。だから、上手くいけばいいなぁって思ってたんだけど」
「そ、れはどうだろうなぁ。陽さんの気持ちは分からないし」
「ってことは、成瀬くんは嫌ではないってことよね。そうよね?」
「あぁ、まぁ……うん」
完全に勢いに負けた。そうキラキラした目で見られるような、ときめく話ではない。好きだけど、その前にある壁が高過ぎるんだ。
「緋菜ちゃん。昌平くんに黙っておける?それと、陽さんにも」
「勿論。私、そこまで口軽くないよ」
ちょっと信用ならない気もするが、彼女に頼まなければ、明日は上手くいく気がしない。多分ひらりとかわされて、二〇一九年が終わるだろう。でも、そういうわけにはいかない。
「僕ね、確かに陽さんのことが好き、なんだと思う。いや、違うな。好きなんだ」
「う、うん」
「何その反応」
緋菜ちゃんがゴクリと息を飲んで、口を真一文字に結ぶ。「いや、改めて言われると緊張するって言うか。ごめんなさい。続けて」と応じた顔には、確かに緊張が貼り付いていた。
「あぁ、うん。それでね、明日なんだけど。どこかのタイミングで彼女と二人にしてもらえないかな、と思って」
「こ、告白するのね」
「いや、するつもりはないけど……ただランチとか誘ってみようかなって思って」
「そうね、うん。そうだよね。急にね、告白するってね」
ランチに誘うはずがない。そんな悠長な話ではないのだ。だからと言って、これまでのことを事細かに話すわけにはいかない。結局はこれが最善の言い訳なのだ。緋菜ちゃんは素直に、理解を示してくれた。
「あ、ってことは。やっぱりクリスマスは一緒じゃなかったの?」
「クリスマス?仕事だったし。同僚とは飲んだけど、陽さんには会ってないよ」
「あぁそうなんだ。てっきり誘うのかなぁって思ってたの。ほら、私に色々聞いて来たからさぁ」
一緒にはいたけれど、ここで嘘を覆すことはないだろう。あの日僕は同僚と飲んでいた。それでいい。
「誘ってみようかなって思ったんだけどね。出来なかったんだ」
「そっかぁ」
「うん。だけど新しい年になるし、ウジウジしててもね。仕方ないから。思い切って誘ってみようかなって」
「うんうん。良いと思う。私は応援するからね」
緋菜ちゃんは僕の背を押してくれる。少しだけ後ろめたい気持ちはあれど、感謝しなければいけない。有難うね、と丁寧に礼を言うと、また嬉しそうに彼女は微笑んだ。
「ねぇ、成瀬くん。明日のことは、勿論協力するし、応援もしてる。でもさ、一つ聞いても良い?ねぇ、片想いって何?」
「え?何その哲学的な質問……」
「いや、まぁそうだよね」
モジモジした緋菜ちゃんは、気不味そうにビールに手を伸ばした。運ばれて来た衣の立ったイカフライに急いで齧りついて、熱い、と叫び慌てる。何だか変なのは確かだ。
「緋菜ちゃん、誰かに片想いしてるの?」
もしかして、とストレートにぶつけてみる。目線は外したまま、威圧感を与えないように注意はした。だって何だか、緋菜ちゃんは困惑しているように見えたから。
「陽さんから、聞いてない?」
「何を?特にそんな話はしたことないよ」
「そっか。黙っててくれたんだ……そっかぁ。陽さんは優しいなぁ」
僕と陽さんは、昌平くんの恋路に関しての協定を結んでいる共犯である。だけれどもそんな話は聞いたことがない。緋菜ちゃんの恋の矢印が、昌平くんへ向かなかったと言うことか。
「成瀬くん。ごめん、今の忘れて」
「あぁ、うん」
緋菜ちゃんがそう言うから、深くは突っ込まなかった。気になったけれど、今は他人の恋の応援を大らかに出来るような状態ではない。自分のことで精一杯なのだ。
「緋菜ちゃん。頑張ろうね」
「う、うん」
緋菜ちゃんは強張った笑みを作ったけれど、ちょっとだけ嬉しそうに見えた。きっと、恋をしているんだと思う。
「ごめんね。あ、でさ。明日は昌平と途中で買い出しに出るようにするね。お酒がなくなったとかが無難かな」
「そうだね。お料理はあれこれ話に上がったけれど、意外とスナックとかの話はしてないよね。それを買いに行く、でもいいかなと思うけど」
緋菜ちゃんは皆で話し合ったメッセージの画面を開いて、確認する。料理は女性陣の買い出しと手作り。昌平くんがチーズケーキを焼いてくれて、僕はお酒を用意する。担当はそう決まっているが、スナック菓子を買う話は出ていないはずだ。
「分かった。じゃあ上手いことやるね。ちょっと散歩とかして、三十分から一時間くらい空けても良いかな」
「え?あぁうん。それは構わないよ。すんなり誘えるか自信はないから、少し長めだと嬉しいな」
「了解です」
何を言われるか分からない。喧嘩になるかも知れない。十分やそこらで戻って来られたら、修羅場になっている可能性だって秘めているのだ。申し訳ないけれどよろしくお願いします、と頭を下げた。ほどなくして、店の扉が開く。冷たい風がスッと店内に入り込んだ。
「あ、昌平くんだ。緋菜ちゃん。さっきの話は、絶対に内緒にしてね。お願い」
「分かってる。それくらいは、任せて」
ちょっと不安が残る。けれど願いを聞き入れてくれた彼女は、僕の前で得意気に笑った。
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