第二話 僕の溜息(上)

 一昨日のことを、僕は陽さんに謝罪しなければいけないと思っている。二人の関係を知らないくせに、踏み込み過ぎてしまったから。でも、あれから電話にも出てくれない。メッセージを送れど、既読にすらならない。完全に怒らせてしまったのだ。

 今日は家でのんびりしようと思っていたが、それどころではない。まだ仕事であろう緋菜ちゃんにメッセージを送り付け、僕は先にいつもの店へ急いだ。



「お、今日は早いね。何飲む?」

「あぁ、もう休みなんですよ。すみません。ハイボールとモツ煮ください」

「はいよ」


 ほぼ開店と同時に現れた僕に、店主の息子は驚いた顔をして出て来た。外は寒いのに半袖のシャツを着ている彼は、四十ちょっと過ぎたくらいか。まだ現役の父親と時折大喧嘩し、母親である女将が二人を窘める。いつもそうなっては、店中に笑いが起きた。彼は誰とでも仲良くなれるタイプで、こうやって僕にも話し掛けてくれる人である。

 僕は携帯を確認したが、緋菜ちゃんからの返事はまだない。『今日、お店来られる?相談したいことがあるんだ』と送ったが、訝しまれたろうか。


「どうしたの。そんな落ち込んだ顔して。ほい、ハイボール」

「有難うございます。まぁ、大したことじゃないですよ」

「そぉ?フラれたみたいな顔してるよ。元気出して」


 客がまだいないからか、彼は大きな口を開けてガハハと頭を掻きながら笑う。その笑顔に呆れ返しながら、僕はその二の腕に釘付けになった。何かが目を引いたのだ。ボォッと凝視したそれは、黄色い跡のようなものだった。


「あ、これ?」

「あぁっ、すみません。気になっちゃって」

「いやいや。これこそ大した話じゃないんだよ。息子に噛まれてさ。嫁の話ではね、まだ言葉が上手くないから、こういうがあるんだって」

「へぇ。そうなんですか」

「まぁ今は減って来たからさ。良かったけど。ゆっくりしてってね」


 有難うございます、と会釈した後で、ぐんぐんと僕の血の気が引いていく。どうしてそれが気になったのか。それは僕が見たことがあるような物だったからだ。しかも僕の知っている物は、可愛らしい大きさではない。もっと憎悪に満ちた大人のそれを、僕は見ていた。


 あぁ何で気が付かなかったのだろう。あの時のことを明確に思い出せる自信はないけれど、彼女の柔肌に触れた感覚は覚えている。僕がセーターを捲りあげたそこにあった物。それが今の彼と同じような、黄色い跡。それと確か、赤黒い傷のようなものが少し見えたんだ。僕は拒否されたのだと思っていた。いや、現にそうだったのかも知れないけれど。彼女はそれを隠したかったのではないか。だから、皆で温泉に行く話も、頑なに拒否したのではないか。

 どうして僕は、あの時直ぐ彼女に手を差し伸べられなかったのだろう。陽さんは、間違いなく苦しんでいる。そうでないのならば、あの男に洗脳されているだけだ。やっぱり助け出さなければいけない。僕に何が出来るか。ただ、のんびりしているような時間はないように思った。

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