第一話 私の決意

 いつだったか。成瀬くんに「殴るような人ではない」と言ったことがあったな。確かに殴られてはいないし、あの時はそんなことをするような人ではないと思っていた。それと同じことを今、私は言えるだろうか。


「陽、アイツとはどうなったんだ」


 部屋に入って来るなり、征嗣さんの尋問は始まった。今日は十二月三十日。あの遭遇事件の二日後である。


「どうなったも何もないよ。万年筆見に行って、お勧めとかは聞いたけれどね。結局インクも買えなかったよ」


 笑って誤魔化そうとしてはみるが、どうせこんなのは茶番だ。彼だって、そのくらい分かっているだろう。目を見合わせたら終わり。だから彼を見ずに母の写真を伏せ、私はキッチンに立った。背後から睨まれていることくらい、分かっている。


「陽。コーヒーは良いから。おいで」

「だって、喉か湧いちゃうじゃない」

「いいから。早く来なさい」


 背を向けたままフィルターをセットし始めた私に、そう声が掛かる。征嗣さんが命令口調になり始めると、ピリッと背筋に緊張が走った。カフェオレくらい淹れさせて、と断りを入れてから、粉末状のそれをマグカップに入れる。張り詰めた部屋に薬缶から湯を注ぐ音が響いた。


「簡単でごめんなさい」


 テーブルへ静かに彼のカップを置く。私はまだ征嗣さんの顔を見られていない。カフェオレを口に運ぶ私の手は、やっぱり震えている。でも、今日はどうしても先に切り出さなければいけない。


「征嗣さん。先日は家族で居る所を邪魔してしまって、ごめんなさい」

「あぁ。それは仕方ないさ」

「私、決心が付きました。征嗣さん、私たち……もう本当に終わりにしましょう。奥様も娘さんも、とても幸せそうだった。私はあんな家庭を壊すことは出来ない」


 一度に言い切った。今更、と言われるのは分かっている。けれど、きっと征嗣さんが思っている以上に、私の意志は固い。


「それで?陽。あの男とは、どこまでやったんだ?」

「何でそうなるの。彼が何を言ったかは知らないけれど、私と彼は何もない。ただの友人よ」

「ほぉ。どの口がそんな嘘吐くんだ?」


 成瀬くんにを言われたことで、征嗣さんは完全に苛立っていることは分かっている。成瀬くんは「気になっている」と言ったと教えてくれたけれど、大事なのはそこではないのだ。その時の表情や目、それから口調。それらがどう征嗣さんを煽ってしまったのか、が問題なのである。私は、ようやく彼と目を合わせた。征嗣さんは、私を疑っているように見える。


「あの男、成瀬と言ったな。陽を好きだと言って来た。俺に、わざわざ」

「……はい」

「アイツは俺たちのことを知っているな?」

「どうしてそう思うの?」

「あの目だ。それに含みのある言い方。現状を知った上で、アイツは俺にそう言ってきたわけだ」


 征嗣さんは、人の奥底にある感情を読むのが上手い。褒められたものではないけれど、元来彼は臆病なのだ。人の奥の奥にある物を感じるように、神経を研ぎ澄まして生きている。そうやってすり減らした神経を休めるために、私が在るようなものだ。だから彼は、私に裏切られることを、多分最も恐れている。


「陽が話したのか?」


 段々に口調が冷たく重くなり始めた。頷く訳にもいかずに、私は必死に首を振る。カフェオレの甘い匂いが漂っているのに、征嗣さんには届かないようだ。彼の瞳には今、何が映っているのだろう。歪んだ何かが見えているのだろうか。


「陽。あの男は危険だ。分かるね?」

「征嗣さん。本当に、彼は友人なの。それ以上ではないわ」

「だとしても、だ」

「分かった。彼とはもう付き合わないから。でもね、征嗣さん。それとこれとは別なの。私が終わりにしたいのは、彼のことなど関係ないの。奥様と娘さんの笑顔を見ていたら、もう……」


 成瀬くんに、淡い夢を見た私が馬鹿だった。一人で幸せな妄想に耽っているだけで良かったのに。一緒にご飯を食べて、お酒を飲んで、並んで歩いた。友人なら許される、と思った私が馬鹿だったのだ。


「陽。あの男に吹聴されたんだね。そうだね」

「違う。本当に違うの」

「陽はそんなことは言わない。言わなかっただろ?」

「言えなかったのよ。だって、征嗣さんが私を選ばなかったとしても、私を大事にはしてくれた。それで良かったから……選んだのは奥様だったけれど、あなたが幸せなのは私と居る時だと思っていた。思い込んでいたのよ。だけれど、違うのよね?娘さんとあんなに幸せそうに笑ってた。あれを見てしまったら、同じようには出来ない」


 ここまで言ったのは初めてだと思う。別れたい、と言ったことは何度もあったが、そこまでしか言ったことがない。言い包められてしまうのだ。いつも、彼の上手い言葉に。


「成瀬、と言ったな。アイツ、どうしてくれようか。陽がこんなことを言うなんて」

「ちょ、ちょっと。変なことしないで。そうしたら」

「そうしたら?」

「私たちの関係を大声で叫んでいるようなものじゃない」


 十数年一緒に居て、ここまで怒った征嗣さんを見るのは初めてかも知れない。あぁちょっと愛されてる、とか思ってしまうのは、もう末期だ。幸せを感じている訳ではないけれど、私の心の隅っこは、そうやって少しだけ喜んでいる。


「征嗣さんの今後に良くないことは、やめて。お願い。変なことはしないで。私が自分の考えで、征嗣さんとお別れをしたいと言っているの。彼とは無関係よ」

「庇うのか?」

「そんなことしないわよ。確かに友人だけれど、彼が傷付こうが何しようが、私には関係はない。だけれど、それで征嗣さんが悪者になるのは嫌なの」

「……そうか。そうだよな」


 あぁ成瀬くん、ごめんなさい。私には良い手が見つからなかった。あなたと過ごした時間は楽しかったけれど、それももう明日で終わり。私は征嗣さんと別れる為に、あなたとも離れる道を取るしかなさそうです。


「征嗣さん。彼とは連絡も取りません。会ったりもしません。だからお願いします。別れてください」

「どうしてそうなるんだよ。どうして」


 子供と一緒に、幸せそうに微笑んでいた征嗣さんの影もない。一人ぼっちになるのが怖くて震えているのだ。征嗣さんが私の肩に手を伸ばす。あぁまた始まってしまう。押し倒され、凄い力で抑え込まれる。今日で最後にしてください、と微かに声を振り絞った。

 それから征嗣さんは何も言わなかった。何も言わないまま、私の腹を、胸を、腕を噛んだ。殴ったりはしない。ただ悔しさを上手く言葉に出来ず、そうしているのだ。まるで赤子のように。


 始まりは、昌平くんと喫茶店にいるのを見られたこと。それから私の体は、他人に見せられない程に傷だらけ。あの時、「誤解だ」と泣いた私の声は彼に届かなかった。強く噛まれたところは痣になり、戒めのように私の体に鎮座している。きっと今日もこのまま抱かれるのだろう。心を殺してするセックス程、無意味な物はない。

 こんなことをいつまで続けるのか。空しくなれば、なっただけ、私は征嗣さん以外にを求めるだろう。だけれども、きっと征嗣さんは、そんなことに気が付いてはいない。

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