第二話 その優しさに、私は溺れてしまいそう(下)

「そうだ。大晦日にあるといい物、見ておこうか。陽さんの家……に足りない物、買い足したりして」

「あぁ、そうだね」


 今の妙な間は何だ。私の家、を想像して思い出したのだろうか。あの日のキスを。成瀬くんは覚えていないと思っているけれど、本当はどうなんだろう。


「飾りつけでもする?」

「成瀬くん、クリスマスじゃないってば。あれ?それとも年越しもやるもの?」

「いや、知らない」

「何それ」


 くだらない話をしながら並んで歩くけれど、もう手は触れない。あの日、彼が繋いでいたい、と言ってくれたのは何だったのだろう。そう言うのは新鮮で、ちょっと自惚れるような気もあったけれど、あれはやっぱり寂しかったからなのかな。私の右手のほんの僅かなところにある彼の左手。触れそうで、触れない。その間には、超えてはいけない線が引かれている気がする。

 何の目的もなく、銀座の方へ歩いている。こういうのが、私の憧れる時間なんだと思う。何かの目的だけをこなして帰る、のではなくて。ただ街を見ながら、あぁじゃないこうじゃない言って、並んで歩く。征嗣さんとは決して出来ないことだからなのか、凄く憧れる時間だ。


「あ、そうだ。万年筆見に行きたい。冬のボーナスで買おうと思ってたの」

「行ってもいいけど……僕と言ったら、自社製品勧めますけど」


 だよね、と笑った。楽しいなぁ。万年筆はまだ決めてないけれど、インクは買っても良いな。あれは見るだけでも楽しいし、今日はプロがいるのだから心強い。そうなると紙も欲しくなるのがワンセット。今日は時間もあるし、成瀬くんにとことん付き合って貰おうかな。


「そうだ。一つ聞いておきたいんだけどね、大晦日ってご飯物欲しい?男の子って、お酒飲んでも食べたりもするじゃない?」

「確かに。でも僕は、お蕎麦とか食べるなら、マストじゃないかな。昌平くんはどうだろうなぁ」

「そうか。うぅん。あ、じゃあ稲荷寿司とかどう?あれなら、お蕎麦食べるタイミングになっても大丈夫だし」

「うんうん。それはいいね」


 こんな風に楽しい年末を過ごすのなんで、どれくらい振りだろう。いつもの年末は沢山本を借りて、部屋に山積みにしてある。征嗣さんが来ても来なくても、寂しくないように。今年はそれをしていない。でも全くないのも怪しまれるから、何か借りておけば良かったな。私たちは、近くの書店に入る。ここは文具も沢山種類があるので、見ていて飽きない店。ついでに文庫本のフロアも、見て行きたいな。そんな欲も出てしまう。万年筆を見たら、寄りたいって言ってみようかな。征嗣さんだったら、絶対にそんななど言えないけれど。成瀬くんなら、言っても大丈夫かな。

 

「さぁ、どちらの商品から見ましょうかね」

「営業するの?」

「いや、どちらかというと偵察だね」


 嬉しそうな成瀬くんは、直ぐに別メーカーの物を見始めた。その目はあっという間に真剣な物に変わり、あぁ変なスイッチを入れてしまったのかな、なんて苦笑いしてしまう。彼が楽しいならそれで良いけれど、つい私はクスッと笑ってしまった。でも成瀬くんは、それにも気が付いてないない。そんな彼の脇に立って、デートみたい、とか思う位は許されるだろうか。何だか胸がポカポカするようで、勝手に照れて目を泳がせた。店の奥の方から、「ママ。パパ。早く」と駆けて来る子供が目に入る。追いかける母親はまだ若く、私よりもずっと下だろう。あんな風に、と来るはずもない未来を想像しては、直ぐに薄い溜息を漏らす。


「慌てないの、静かにね」


 困った顔をした母親が注意すると、元気に手を上げた娘は「はぁい」と可愛らしい返事をした。背中には、ヒヨコ色の小さなリュックが背負われている。それが何だか微笑ましくて、つい見入って頬が緩んだ。私の中ではまた、戻せない時間が疼いている。


「ほら、転ぶぞ」


 聞こえて来た太い声に釣られて、子供に合わせていた視線を持ち上げる。目が合ったのは、その子の父親。彼もまた、私を見て固まった。


「せ……」


 そんな偶然なんてあるものか。緋菜ちゃんの時と言い、東京駅付近には魔物でも住んでいるのか。微笑ましく見ていたヒヨコ色のリュックが、一気に色味を失った。


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