第四話 僕の宣戦布告(下)

「大丈夫?」

「……うん」


 僕は彼女の手を引いたまま、銀座線に乗り、上野まで帰って来た。いつもの上野公園。未だ人通りのある動物園通りを避け、不忍池の畔に出る。僕らはそれ以上は何も喋らずに、ただゆっくりと歩いた。少しずつ落ち着いて来たように見える彼女の手は、まだ震えている。


「成瀬くん……ごめんなさい」

「うん。僕は、大丈夫だよ。それよりも陽さんが心配」


 怯えるような目で僕を見上げた陽さんは、まだ蒼白い顔。大丈夫?と聞いてみても、心はどこか違うところに行っている。抜け殻のまま、ただ僕の隣を歩いているようだった。


「陽さん?無理しないで」

「……うん。ごめんね。大丈夫。大丈夫、大丈夫」


 無理矢理に自分を持ち上げようとする彼女は、強張ったままの頬を持ち上げる。必死に自分を鼓舞し、陽さんは何とか笑みを作って見せた。


「今日は無理しなくていいんじゃない?」

「大丈夫よ。ごめんね。本当に大丈夫、だから」


 ニコッと引き攣った笑いを見せた彼女は、僕の手を離そうとする。でも、僕はそれを許さなかった。例え剛腕じゃなくとも、非力な女性よりは、多少は力がある。僕は、もう一度ギュッと強く握った。


「……分かったよ。でももう少しだけ、こうしてても良い?僕が繋いでたいんだ」

「なる、せくん」

「ごめんね」

 

 ちょっとお道化た僕を見上げた陽さんの目には、今にも零れそうな涙。僕は嘘を言ったわけじゃない。折角また手を繋げたんだ。もう少しこうしていたい。微笑み掛けた僕は、彼女の目尻に溜まった涙を拭った。薄暗くなり始めた街に、ぽつぽつと灯りが点き始める。


「少し歩こうか」


 彼女は何も言わずに頷いた。手を握ったまま、不忍池の畔を歩く。湖上を冷たい風が抜けて来る。思わず、身を縮めた。

 陽さんは、今何を思っているだろう。教授のこと、彼の家族のこと、それから自分のこと。現実に見なければいけない課題は山積しているが、そこまで辿り着けていないかも知れない。妻子を目の当たりにして、強いままで居られるような人ではない。今まで目を瞑って来た物を、現実だと実感してしまった。彼女は今、急に突きつけられた事実を何とか飲み込もうとしているところだろうか。


「成瀬くん。私、ちゃんと征嗣さんと別れる」

「陽さん……」

「今までもそう思って来たし、何度も言ったけれど出来なかった。でもあんなに可愛い子がいるのに、ズルズルしてるのなんてダメだもの……ね」


 ダメだ、と自分に言い聞かせているようだった。しげしげと彼女を見ることなど出来ず、僕は繋がれている手に、また少し力を込める。

 何度も言った、と言うのは初めて知ったことだ。言おうとしているけれど、言い出せないのだとばかり思っていた。教授との関係を失くしたくないのだろうと、僕はそう思っていたのだ。それでも出来なかったというのは、教授の方が問題なのか。僕はあれこれ考えるが、昼間の彼の余裕を思い出して、つい苛ついている。


「出来るかなぁ」


 ポツリと零れた。どんな風に彼女が彼に伝えて来たのかは分からないが、何度も言っても別れられなかったとなれば、確かにそう不安になるのも頷ける。


「そんなに、難しいの?」

「え?あぁ……そうね。きっと難しいと思う。私はそれで何度も挫折してしまったから。でも今日のことは、ちょっと堪えるな。私が目を瞑っているだけで済む問題じゃないものね」


 陽さんは、今強く決心をしたのだろうと思った。薄雲の張った月を眺めるその横顔は、何だか清々しかった。

 僕らは前を見て歩くだけ。目的などないし、笑い合うこともない。陽さんは教授とのことを考えている。そして僕は、そんな彼女に掛ける言葉が見つからないのだ。周りから見れば、物静かでおしとやかなデートかも知れないが、ちっともそんな初々しい話ではない。僕らはずっと大人の、暗く、淀んだ時間を歩いているんだ。


「あ、ここ」


 辿って来た遊歩道は、ちょっとした広場にぶつかる。僕らが以前、紗貴に会ったところだ。あの時の醜態を思い出して一人苦笑いしても、彼女は僕の方など見てはいない。でもここに来て強く思ったのは、あの時のように今度は僕が陽さんを守りたい、ということ。今は笑ってくれなくてもいい。ただ、一人ぼっちだと思わないで欲しかった。


「そう言えばね、この間気になって調べたんだけどね。駅伝、二十三区間だったみたいだよ」

「駅伝……あ、駅伝」

「そうそう、駅伝。関東と関西で戦ったんだって」


 僕はあの時に話題になった駅伝の碑を指差した。見れば一瞬だけ、紗貴を思い出す。彼女が幸せになってくれてホッとして、でもやっぱり翔太は許せなくて。ぐちゃぐちゃになった僕を、ふわりと掬い上げてくれた陽さん。あの日、ドキドキしていたことは、僕は忘れていない。


「どっちが……どっちが勝ったの?」

「ん?関東みたい。でねアンカーがさ、二十代の関東に対して関西は五十代だったんだって。凄いチョイスだよね」

「そうだね」


 僕のくだらない話に、陽さんが少しだけ笑った。微かに緩んだ口元。彼女に戻り始めた色。僕は一人、胸を撫で下ろしていた。

 あぁ、どうして教授との関係が始まったのだろう。それから、どうして終われないのだろう。二人にしか分からない時間が、僕はもどかしかった。あんなに幸せそうな家庭が在るくせに、彼女との関係を断ち切れない教授。彼には、僕に素知らぬ顔をして「応援するよ」と言う余裕がある。それは、俺の物だけどな、とでも言いたげに見えた。きっとあの男は、僕を小馬鹿にしたのだろう。


「今日ね……あの子が背負ってた可愛らしいリュック。パパに今日買って貰ったんだって。征嗣さんも、そうやってきちんと父親をしてるんだなぁって思ったんだ。奥様は娘さんに優しそうに微笑み掛けてて」

「うん」

「私ね。私の方が先に付き合ってたのにって、意地があったんだと思う。馬鹿みたいよね。選ばれなかったのに。今となっては、始まりなんて関係ないじゃない?私はもう、加害者でしかないんだなって思っちゃった」


 気付いたら陽さんは、下を向いてポタポタと涙を零していた。僕にそう言うことで、自分の気持ちを整理しているようだった。何も声を掛けられず、星の見えない空を見上げながら、僕は彼女の手を強く握る。それしか出来なかったのである。

 そして、彼女は消えるような声で呟いた。どうしたら終わりに出来るんだろう、と。


「陽さんは、教授が居ないと寂しい?」


 彼女は驚いた顔をした後で、弱り切ったように眉を落とした。それから、小さく頷く。僕はまた握る手にキュッと力が入った。


「それは……さ。僕じゃ代わりにならない?」


 頭で考えたんじゃない。言葉がスルッと滑り出て来た。僕はあの男の代わりでもいい。どうしても陽さんをこの渦から助け出したかった。だけれども、彼女は「え……何で?」とまた目を丸くする。僕の気持ちは、全く感じていないようだった。


「僕ね。教授に言ったんだ。彼女のことが気になっる、って。だから」

「いや、いや。ちょっと……ちょっと待って。何でそんなこと言ったの?成瀬くんが優しくしてくれるのは嬉しいけれど、それは違うでしょ。あなたと私は、ただの友人。そんな風にしてくれなくていい」


 陽さんは、僕の手を振り解いた。さっきよりも強い力で。そして少し苛立った目で僕を睨んだ。


「いや、優しさじゃないんだ」

「じゃあ、何?同情?そんなの要らない。確かに私のしていることは、倫理的に問題だし、ふしだらなことよ。批判されても仕方ない。だけれど、勝手に……勝手にそんなことしないで」


 本心だよ、と言おうとしたのに、凄い勢いで彼女に上書きされる。陽さんは何度も腕を擦って、袖を強く握り締めた。一度落ち着いたのに、またパニックに陥ったようだった。


「陽さん……ごめん」

「成瀬くん、征嗣さんに何言ったの」


 凍り付くような声で、彼女は僕に問うた。


「待ち合わせてご飯を食べてたって、知られたら行けないんだろうなって思ったんだ。だから……前に万年筆のオフ会で出会ってたんだけれど、彼女には忘れられてたって。それで今日は偶然に会ったんだって」

「そんな嘘……あの人に通じるはずがない」


 青褪めていく陽さんは、どんどん強張り始める。そしてまた、表情が消えた。


「どうしよう……どうしよう」

「ごめん」


 今の彼女に僕の謝罪はきっと届いていない。どうしよう、とまた何度も腕を擦る。そしてまた震え始めた。


「どうしよう……何されるか」

「え?」


 言いかけてハッとした陽さんは、「今日は帰るね」と慌てて僕に背を向ける。ちょっと待って、と腕を掴もうと手を伸ばしたが、血の気の引いた顔の彼女と目が合った。それは怒っているのか、困っているのか、それとも泣いてしまいそうなのか。何だか分からないような表情だった。


「ごめんなさい。今日は有難う」

「ちょっと、陽さん」


 僕に頭を下げ、彼女は走り出した。ここから逃げるように。いや、違う。僕から逃げるように。

 状況が理解出来ないままの僕は、ただ立ち尽くしていた。何されるか、ってどういうことだ?けれど確か、殴ったりする人じゃないって、言っていたはずだ。何だ。何かが引っ掛かる。追うことも、帰ることも出来ない僕は、それを必死に思い出そうとしていた。何だ。何かぼんやりと見えているのだけれど、それが思い出せない。でもそれは、とても大事な、大事なことのような気がしている。

 そして今ただ一つ言えるのは、僕の宣戦布告は失敗だったようだ。

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