第四話 僕の宣戦布告(上)

「せ……」


 僕の横に立っている陽さんが、そう呟くのが聞こえ顔を上げる。どうしたの?と問い掛ける彼女は、目を見開いて呆然としているように見えた。僕が追った視線の先には同じように立ち尽くす男、とその妻子。彼女が今言いかけた言葉の続きは、「征嗣さん」である。


「陽、くんじゃないか」

「せ、先生、こんにちは」

「あら、あなたお知り合い?」

「あぁえっと私、小山田先生のゼミで、もう大分昔お世話になりました」

「そうでしたか。偶然でしたね」


 陽さんは消えていた表情を一瞬で戻した。そうして、あの男の奥さんと笑顔で話している。ゼミがどうの、というのは良く分からないけれど、変なことを言ってはいけない。


「彼女は、小川陽くん。昔から優秀な子でね。今は、うちの大学の就職課に居るんだよ。仕事も出来る子でね。教え子の評判が良いと鼻が高くて有難いんだ」

「あら。それはそれは。小川さん。主人がいつもお世話になっております」

「いっ、いえ。こちらこそ。お世話になっております」


 違った意味に聞こえて来る僕は、一人で冷汗をかいている。絶対に、何があっても、この妻子に勘づかれてはいけない。


「小川さんも、ご夫婦で万年筆を?」

「夫婦?あぁっ、いえ。彼は友人なんです。残念ながら。私たちはそういう関係じゃないです」


 女性二人が笑顔で会話しているのを、背筋が凍る思いで見ている。それでも、私たちはそういう関係じゃない、という言葉は、僕に強く殴りかかった。これを言われるのは、確か二度目。クリスマスの夜にもそう言われた。事実だけれど、それが上手く進まないのも、あなたの夫のせいなんです。とは、言えるはずもなく。ただ気不味い顔をして、彼女の脇に立っているのが、精一杯だった。


「あれ?君は、確か」


 勝手に苛立っていた僕に視線が向けられる。教授が気が付いたのだ。僕という男に。


「成瀬です。先日は大変お世話になりました。お陰様で、開発も順調に進んでいます。また後日、サンプルが出来ましたら、ご相談に伺えればと思っています」

「おぉ、そうか。では、連絡待っているね。あ、あぁ。やっぱり君たちは知り合いだったのかな」


 教授が微笑み掛けるが、全く目が笑っていない。陽さんが慌てて「違うんです。たまたま、ここでお会いして」とフォローに回る。これは僕の為ではなく、きっと自分の為のフォローだ。そう感じた僕は、咄嗟に行動に出ることにした。


「あの、教授……少しよろしいですか」

「ん、何かな」


 あの時と同じ穏やかな表情に変わった顔は、僕の誘導に何の疑問も持っていないようだった。陽さんは、僕を見つめて何か目で合図している。余計なことは言うな、ということだろう。大丈夫、余計なことは言わないつもりだ。僕はあの男を、彼女たちから離れたところに手招きした。


「すみません。お休みのところ。あ、でも仕事の話じゃないんです」

「ん、どうした?えぇと、成瀬くん」

「いや実は……彼女は覚えていなかったようなんですけど、前に万年筆のオフ会で知り合ってたんです。僕たち」

「あ、そうなの?そんな社交的なことをするのか。小川くんはそう言うのが苦手な子でね。男の子特に苦手なんだよ。だから覚えてなかったのかな」


 適当な嘘を並べた僕に、何の疑いもなく教授はそう答えた。彼女のことは良く分かっている、とでも言いたそうな顔をして。腹を立ててはいけない。優越感に浸っているようなこの男を、睨みつけたい気持ちを堪えていた。


「それで、その……僕、彼女のことが気になってまして」

「えっ。君が?ひ、小川くんを?」


 陽、と言いそうになったのは聞き逃していない。でも僕は気付いていない振りをして、そうなんです、と大きく頷いて見せた。


「オフ会で会った時に連絡先を聞きそびれてしまって、落ち込んでたんですけど。先日お会い出来たじゃないですか。名刺はいただけましたけど、プライベートな連絡は出来ませんし。もう一人で悩んでまして。そうしたら、今ここで会えたんです」

「へぇぇぇ。そうだったの。何だかドラマティックだねぇ」


 何がドラマティックだよ、と苛立ちは顔に出してはいけない。とにかく必死になって、彼に相談をしたい体を整えている。


「仕事のことでないのに、申し訳ないんですけど……教授は彼女のこと、よくご存じですよね?僕、出来れば彼女をお誘いしたいんです。どうしたら良いと思いますか」

「あ、あぁ。そうだなぁ。小川くんは、昔からね。ちょっとガードが固いんだよな。先ずは焦らないで、プライベートの連絡先を交換してみたらどうだい?」

「そ、そうですか。連絡先、ですね。確かに、それは大きな一歩です」


 とんだ猿芝居だ。どうしても彼女を落としたいとしても、普通は仕事で関わる相手に頼み込むようなことはしない。でも態とアクションを起こしたのは、教授への宣戦布告のようなもの。これは彼らの関係性に、僕が入り込むための一手である。こうやって教授に公言してしまえば、僕が彼女を誘っても文句は言わせない。既成事実を作ったようなものだ。


「頑張って。そんなこと相談してくれる子もいなくなったから、嬉しいよ」

「すみません。社会人としてはどうかと思ったんですけど、藁をもすがる思いでして……」

「大丈夫だと思うよ。あの子はとても優しいから。連絡先は交換出来るんじゃないかな。ほら自信持って」


 教授はあの時のように、穏やかに笑った。その余裕に苛ついているけれど、僕は純朴な素振りを見せる。男の騙し合いだ。どうにか円満にやり過ごしている陽さんたちの元へ戻ろうとした時、一つだけ確認して良いかい?と彼が後ろから僕に問うた。


「なんでしょうか」

「今の話は本当なんだね?」

「あ……はい。今日ここでお会いして、ちゃんと確信を持ちました」

「そうか」


 応援するよ、と言った彼の目は、また笑っていなかった。僕を試しているのかも知れない。でももしかしたら、これが潮時だ、と感じたかも知れない。僕は後者の期待をして、また歩き始めた。


「すみません。折角お会い出来たので、仕事の話をしてしまいました」


 僕は奥さんに丁寧に頭を下げた。自分では、あなたの夫と闘う準備をしました、という挨拶のようにも感じる。奥さんはおっとりとした反応で、「あぁ、私たちは良いんですよ。お気になさらずに」と返す。とても落ち着いていて、気持ちにゆとりのある感じだった。陽さんは僕の方は見ずに、娘に「パパ来たよ」と笑い掛けている。彼女もまた、何かと闘っているのだと思った。


「小川さん。今度は違うお店行きませんか」

「え?」


 急にそう呼んだ僕に、彼女は戸惑った。返答にも困ったのだろう。挙動が不審で、チラチラとあの男を見ている。


「小川くん、折角だからいいんじゃない?」

「え?せっ、先生何を」

「成瀬くんはプロだろう?折角だから色々説明して貰うと良いよ。僕も聞いてみたいけれど、もう買う物が決まっているし。きっと、君は迷っているんだろう?プロの説明は、なかなか聞けないぞ」

「あ……はい」

「じゃあ、小川さん。行きましょう」


 蚊の鳴くような声で、はい、と陽さんが応じる。妻子は特に気が付いていないようだ。僕は笑顔を意識して、陽さんにもう一度「行こう」と声を掛けた。


「それでは、お休みのところすみませんでした。今後とも宜しくお願いします」

「うん。成瀬くん、君は素直で良い子だね。また何かあったら、連絡しておいで」

「有難うございます」

「うんうん。二人共、楽しい休暇をね」


 あの表情の読めない笑みが、僕の腹の中を沸々させる。この男はきっと、真っ直ぐに僕の告白を受けてはいないだろう。次の手も考えなければいけないな。


「せっ……先生」


 征嗣さん、と言おうとしたのか分からないが、陽さんが慌てたように彼を呼ぶ。彼女の表情は、硬い。


「あの……このことは誰にも言わないでいただけますか」

「分かった、分かった。ほら、行っておいで」

「は、はい。奥様、お邪魔してすみませんでした。皆さま、良いお年をお迎えください」


 陽さんは、奥さんに向かって深々と頭を下げたが、あの男の方は見なかった。僕には言葉とは違う謝罪が見えている。

 そして僕らは、彼らにまた軽く会釈をして背を向けた。行く当てがあるわけではない。ただここから遠くへ、逃げるような気でいるだけだ。僕が心配する陽さんは、クルリと向きを変えた瞬間に表情を失くした。ずんずん、ずんずんと僕を置いて行くように、歩を進める。今の彼女は、僕よりもあの場から離れたいに違いない。


「陽さん。陽さん。ちょっと」


 僕の声に、彼女は急に立ち止まる。蒼白い顔。焦点の合わない目。泣く訳でもない。怒る訳でもない。抜け殻のような彼女がそこに居る。


「成瀬くん、征嗣さんに何言った?」

「え?」

「何か言ったでしょう。あんなに怒った目……どうしよう」


 そんなに心配になる程に怒っていたようには見えなかった。もう何年も一緒に居る彼女とは違うことくらいは分かっているが、ほんの僅かな間に彼女へそんな顔を見せたのだろう。陽さんは震えている。困惑しているのか、呼吸も整わない。自分の右腕をギュッと掴む左手。そこに段々と、力が入るのが分かる。


「行こう」


 僕はそれだけ言って、彼女の手を引いた。パニックになっている彼女は、何も言わない。あの時――紗貴に会った日のように、繋いでいたいと願った物とは違う。ただ彼女が消えてなくならないように、僕は彼女を捕まえていたかった。

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