第二話 その優しさに、私は溺れてしまいそう(上)
『私、昌平のことが好き、みたい』
返信を打っていたところに、上書きするように送られて来たメッセージ。緋菜ちゃんは自分の気持ちを受け止めたようだ。打ち込み始めていたメッセージを削除して、私は新しく作り直した。
『うん、気持ちに気が付けて良かった』
『困った時はいつでも相談して』
『力になれるかは分からないけれど、一緒に考えるよ』
きっとこの様子では、彼女はこれから生まれる様々な感情に戸惑うことになりそうだ。私に何が出来るかは分からないけれど、彼らが思い合っていることが分かったのならば、そんなに難しいことはない気がしている。
今日は、成瀬くんとランチに出掛ける日。服がおかしくないかな、とか考えながら、電車を待っていた数十分前のこと。緋菜ちゃんから急に、モヤモヤする、とメッセージを受け取ったのである。状況が全く見えず、病気を心配したのだが、どうもそうではないで。フッと何かを思う浮かべてしまう、と言う割に、肝心な何かが出て来ない。それを探ろうとすれば、パッパッとやり取りが続いてたメッセージが、躊躇うかのように間が空いたのだ。電車に乗って揺られながら、私は画面を注視していた。まさか、まさかな……という緊張感からである。そして、『昌平』と返って来た時は、電車の中で「わぁ」と声を上げてしまった。昌平くんには勿論言えないけれど、成瀬くんに会ったら、何だかすぐにバレてしまいそうな気がする。その位私は、本当に嬉しかった。
それにしても、彼女は恋だということを認めるのに時間がかかったな。私に連絡をする前から、これは恋かも知れない、と思っても良さそうだと思ったけれど。もしかすると、あの子は片想い――自分から誰かを好きになる気持ちを知らないのかな。そんな風に恋愛をして来たとしても、彼女ならおかしくはない。若くて、美人で、明るくて。引く手数多だとしても、納得が出来る。羨ましいというよりも、凄い人生だな、と私は感服すらしていた。
「ふぅ」
今日は土曜日。大型連休に入った十一時過ぎの街中は、楽しそうな声で溢れていた。それに、クリスマスを過ぎたばかりだ。大きなキャリーを持った父母に手を引かれる子供は、真新しい洋服を着ていたり、おもちゃを大事そうに抱き締めていたり。手を繋ぐ男女が、どこか初々しかったりもする。そんな幸せを横目に見ながら、私は大手町駅で電車を降りた。本当は、湯島で降りて銀座線まで歩こうと思っていたのに、緋菜ちゃんとのやり取りに夢中になって乗り過ごしてしまったのだ。待ち合わせは、日本橋の商用施設前。多分、十五分もかからずに行けるだろう。襟首に入り込む冷たい空気がピリリとするのに、今日はそれも気にならない。緋菜ちゃんの気持ちを知って、私まで幸せな気分だ。
緋菜ちゃんが昌平くんを好きだと認識した。彼が思い切ってしたことは、功を奏したわけだ。あぁ、昌平くんに伝えてあげたい。そんな気持ちを我慢しながら、私は日本橋方面へ急ぐ。待ち合わせまではまだあるけれど、この興奮気味の自分を落ち着かせないといけない。
あぁ私のクリスマスも、思いがけないものだったな。成瀬くんから可愛らしい誘いを受け、寂しさを感じることはなかったのだ。それに加えて、征嗣さんも年末で忙しいらしく、連絡が全くない。だからあの夜の楽しい余韻が、私の中で今でも保てていた。
黒のニットワンピースを着て来たけれど、もう少しラフでも良かったかな。焼肉だからと気にしたら結果真っ黒になって、グレーのブーティでちょっと大人っぽく仕上げた。別にデートな訳ではないのに、何だか女を意識しているようで恥ずかしい。少し速まって来た動悸は、足早に歩いているからではない気がする。こうして誰かと明るい内に堂々と会う。それが成瀬くんでなくても、私には特別なことに様に思えた。友人と一年のご褒美に美味しいお肉を食べる。そんな普通のことを、もう何年もして来なかった。ある意味、大分遅れて来た青春みたいなものだろう。大きな交差点で止まる。待ち合わせは、ここを渡れば直ぐそこである。
「あっ陽さん、こっち」
「あぁ、遅くなってごめんなさい」
「いやいや。まだ待ち合わせの十五分も前だよ。僕が早く来過ぎたんだ」
「そ、そう?こんにちは」
ぺこりと頭を下げた私に、彼はプププッと声を出して笑う。タートルネックのニット、スリムなパンツ、それからチェスターコート。それは微妙な濃淡の黒系で纏められ、とても彼に似合っている。
「陽さん。やっぱり、焼肉意識した?」
「え?あ、服?」
「そう。色々見たけど、タレが跳ねたら嫌だなって、僕は真っ黒になりました」
「同じようなものだね。洗えて、飛び跳ねが気にならないようにって絞るとね。何だか私たち、焼肉に情熱を燃やし過ぎじゃない?」
「いいじゃん。ほら、一年のご褒美だよ。兎に角食べよう」
ね、と成瀬くんが笑う。こうして誰かと焼肉を食べる日が来るなんて、と感動していることは内緒だ。征嗣さんと行くわけないし、同僚と行ったとしても居酒屋程度だ。一人焼肉に行ったこともあるけれど、そこまでして肉を食らう欲もなかった。彼は南の方を指差し、行こう、と誘う。同僚にお勧めされたという店は、ここの近くの様だ。私は、彼の少しだけ関節の太い指先を眺める。弾みそうになる心を感じては、彼は友人だ、と頭の中で繰り返しながら。彼は私に不倫を止めさせたいだけ。勘違いするな。何度も何度も言い聞かせた。
「大手町から来たの?」
「あぁうん。本当は広小路から銀座線に乗ろうと思ってたんだけどね……ちょっと」
「ちょっと?」
「あぁ、いや。考え事してたらね、乗り過ごしちゃってね」
緋菜ちゃんとメッセージやり取りに必死だった、とは言えない。彼は共犯だけれど、彼女の芽生えたばかりの気持ちを勝手に他人に伝えるわけにはいかないのである。ふぅん、という彼は、また今日も何かを疑っているように見えた。彼の想像するのは、征嗣さんのことだろうと思う。確かにそれも考えなければならないけれど、好きで思い耽ったりはしない。どちらかというと、別れる方法について思い悩む方である。彼はまだ不機嫌そうで、「ねぇねぇ、今日は飲んでいいの?」と呑気な振りをして問い掛けてみた。
「焼肉でさ……ビール我慢出来ると思う?」
「確かに。でも昼間から飲んだくれる訳にもいかないしなぁ。一杯、せめて二杯くらいだよね」
「じゃあ、食べた後にプラプラ歩いてさ。夜また飲んだって良いんじゃない?」
「あぁ……うぅんと、そうだね」
もう年末年始の休暇である。征嗣さんはきっと、家族でゆっくりと過ごすのだろう。特に予定は聞いていないが、今年も義理の家族が自宅に来るのではないか。毎年毎年、そうグチグチと言っている。時々連絡はあるだろうが、それでもいつもより縛りは少ない。今夜少し遅くまで飲んでいても、多分バレやしないだろう。そこまで考えを巡らせてから、こうやって征嗣さんのことを念頭に置いている時点でダメだ、と気付く。あぁ、と反省して見つめた足元は、枯れ葉がカラカラと舞った。
「教授、今日は来ない?大丈夫?」
「あ、あぁ。うん。大丈夫。もう年末だから、ほら、彼は家族と過ごすんじゃないかな」
表情を緩めてみたけれど、多分困った顔してしまっている。ダメだなぁ。十年以上、彼を中心にして生きて来たから、なかなか抜けてはくれない。どうやったら別れられるんだろう。それすら分からない。もう会わない、と言ってしまった時も、彼は私を慰めるように抱き締めた。そうやっていつも誤魔化されて、結局は離れられていない。
「そうだ。成瀬くんって、実家はどこ?」
「実家?長野だよ。あ、でも帰らないけど」
「そうなの?年末年始って、親族が集まったりするものじゃないの?」
「あぁ、まぁ確かにそれはあるけどさ。ほら、離婚してからね。帰りにくくなっちゃって。僕の顔を見たら、親もサキの愚痴言いたくなるみたいでね。そうすると、僕もまた反省しなくちゃいけなくなる。悪循環だからさ」
「そ、そうか。何かごめん」
話題の方向転換に、と思って見たけれど、とてもデリケートな所に触れてしまった。気にしないでよ、と言ってはくれるが、成瀬くんはちょっと寂しそうだ。サキ、という元妻は、そろそろ子供が生まれる。新しい、幸せな家庭を築き始めたのに、彼だけが取り残されているのか。何だか不公平だな。
「成瀬くん、今夜は飲みませんか。二日酔いになっても、明日も明後日も休みだからね。どうでしょう」
「うん。僕は良いけれど、陽さんは大丈夫なの?その、教授じゃなくって、お母さん。実家に帰ったりしないの?」
「あぁ、うん。まぁ……ね。私はいつも通り、あの家で寂しく過ごしてますよ」
別に言ったって良かったのに。適当に話題を逸らして、ベェッと舌を出した。それから大きなビルを見上げるふりをして、私は空を見つめる。私は、征嗣さんとのことに目を瞑って、成瀬くんの優しさに甘えているのだ。それくらい、私と言う人間は孤独で、虚しいのである。
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