第四話 彼が私にしたこと(下)
「イチゴのタルトも捨て難かったねぇ」
「そうだね。ちょっと寒いけどさ、あの辺で食べようよ」
成瀬くんと私は、コンビニでケーキを買うと、不忍池の畔に向かう。流石に冬の風。真正面から吹いて来ると冷たくて、痛い。私たちはホットコーヒーを両手で握り締めながら、遊歩道の植栽の縁に腰掛けた。彼はチョコレート、私はチーズ。一人用の丸い、シンプルなケーキを袋から取り出す。それを膝に乗せて、美味しそうだね、と顔を見合った。
「いただきます」
「ふふ、いただきます」
頬張るケーキは、思っていたよりも甘い。甘味など、時折カフェで頑張ったご褒美に食べるくらいだ。今日のケーキはいつもよりも甘く感じる気がして、私はブラックコーヒーを思わず口に流し込む。美味しそうに食べる成瀬くんをチラッと見て、あぁ誰かと食べているからかも知れないな、と思う。何だかいつもよりも味がはっきりしている気がする。まぁ店が違うのだから、当然なのかも知れないけれど。
「あ、そろそろ昌平くんに返そうかな。まだ一緒に居るのかな」
「あぁどうだろう。私のところには、昌平くんから着てないから。一緒かも知れないね」
コンビニの小さなプラスティックスプーンを口に咥えた彼は、ササッと携帯を操作し始めた。上手くいってるかなぁ、と笑い掛けてくれる度に、私は膝に乗せたケーキが転がってしまわないかと内心ヒヤヒヤしている。手をそちらに出して見るが、触れてしまいそうになって引っ込めた。目の前を身を寄せ合ったカップルが通り過ぎていく。バッグからプレゼントのようなものを覗かせた彼女は、幸せそうに彼の手を握っている。
そうか。あんな風に幸せな人たちは過ごしているんだな。こんな日は私を、真っ直ぐに前を向いて歩かせてはくれない。見えているようで見えていない。そんな風に歩いて来たのだと思う。
「そうだ、成瀬くん。土曜日どうしようか」
今年はこうしてケーキを食べられたけれど、世の中を羨む気持ちが全くない訳ではない。話題を見つけて、どうにか現実から目を逸らそうとしていた。
「え、あ。土曜日……」
「あ、予定入っちゃった?大丈夫だよ、それなら。気にしないで」
成瀬くんは何だか驚いたように、私を見て、何度も瞬きをした。彼に気を遣わせてはいけない。予定があるのなら、そちらを優先させるべきだ。私なんかに、今日――クリスマスの夜をくれたのだから。
「本当に大丈夫だよ。気にしないで」
成瀬くんは私の言葉にハッとする。いや違うんだ、と慌てて右手をパタパタさせた。
「今日誘っちゃったから、土曜日は会ってもらえないかと思ってた」
「え?何で」
「いや……今日火曜日だし。土曜日なんて直ぐに来るし。僕とそんなに会う理由もないだろうし……」
今度は私の方が、目を見開いて驚いている。そして彼の言うことの意味が良く分からなくて、僕と会う理由って、と鸚鵡返ししていた。別に友人なら、また明日ね、と言ったって構わないはず。今日はケーキを食べたかったから、暇そうな私を誘っただけ。一体、何を気にしているのだろう。
「あ、征嗣さんのこと気にしてる?昼間は絶対に来ないし、大丈夫だよ」
「征嗣さん?……あぁ、教授。いや、それは全く気にしてなかったです」
「そう?じゃあ土曜日は土曜日で良いんじゃないの?」
「そう、だよね。うん。そうだ」
うん、と返したけれど、可笑しな子だ。成瀬くんはホッとしたように、ようやくニッコリと笑った。何も元々予定していたのだから、気にすることないのに。そう思う方が変なのだろうか。
「陽さんは、何か食べたいものある?」
「そうだなぁ。何だろう。カフェランチして、お買い物とかする?それとも、昼から肉とビール、みたいなことする?」
「それって、陽さんの意見じゃないじゃん。もう、僕が聞いてるのに」
成瀬くんは大きく息を吐いてから、そうだなぁ、と上を見上げる。長い睫毛が、ゆっくりと揺れた。
私は、いつからか、こうして人と会話することが多くなっていた。質問を質問で返してしまうのは、自分の意思がないからではない。意見を言うことを抑制されてきた結果、私は何でも大丈夫ですよ、という意思表示をしているのだ。こんなこと征嗣さん以外に伝わるわけがない。
「よし、じゃあね。こうしない?美味しい焼肉を食べて、それからプラプラお買い物とかする。どう?」
私の話を一つに纏めた成瀬くんは、どこか得意気だ。それがあまりに子供っぽくて、ふふっと私から声が漏れると、彼は不満気に拗ねて見せる。きっと、わざとやっているのだろう。彼も彼で、楽しんでいるのかも知れない。そう感じられれば少しだけ、今夜を私にくれたという罪悪感が、やんわりと薄れた。
「決まりね。店はさ、幾つか見つけて連絡するよ。そこはちゃんと選んでね」
「分かりました」
いつの間にか最後の一口になったケーキを、彼はパクリと頬張った。私もいつの間にか減っていたケーキを食べ終える。味わっていたと思うけれど、何だかいつ食べたのか分からない。きっと彼とお話をしたり、目の前を通って行く人を羨んだり、心は忙しかったのだろう。
「そうだ、えっとね。陽さん」
「何?」
成瀬くんは鞄を覗き込むと、小さな紙袋を私に差し出した。メリークリスマス、と言い添えて。
「えっ、ヤダ。えっ。私、何も用意してないです」
「あぁ、良いんだよ。僕が急に誘っただけだし。それに、大したものじゃないんだ。本当に。だから気軽に、受け取ってください」
「えぇと……有難う」
申し訳なくて、ペコペコ頭を下げて、彼から受け取る。小さな紙袋に、可愛らしいサンタのシールが貼られていた。
「開けても良い?」
「うん。でも本当に大したものじゃないんだよ」
そうもう一度彼は言うと、どうぞ、とジェスチャーをする。それもちょっとだけ、照れたように。
「え?ふっ、可愛い」
「良かったぁ。悩んだんだけどね。これが一番失敗ないって気が付いたんだ」
「確かに、そうだね」
そう。彼がくれたのは、彼の会社の製品たち。少しだけ良いボールペンと綺麗な色のペン。それから、可愛らしいイラストの付箋とシール。きっと彼が、何かしら携わった商品なのだろう。
「有難う。とっても嬉しいです」
私は小袋をギュッと抱き締め、嬉しい、とまた呟いた。何をくれたかなど、きっとどうでもいいのだと思う。こうして私なんかに気遣ってくれることに、泣いてしまいそうになる。高い物でなくても、それが特別じゃなくても、何でもいいんだ。
征嗣さんも今年は、珍しく何かをくれると言った。けれどあれは、こういう気遣いではない。恐らくあれは、私への懺悔だ。謝りたくても、素直にそう出来ないから、金で解決しようとしたことだろう。成瀬くんがくれたこれとは、重みが違う。私はそれに気が付いていた。
「良かった。実はちょっとね、緊張したよ」
「本当?」
「だって、プレゼントって言う程の物じゃないしさ。しかも自社製品だもん」
「でも、自信を持って世に出した物でしょう?そんなに卑下しないでよ」
「うん。色とかそう言うのは、ちゃんと陽さんに合うものをチョイスしたからね。僕が出来ることは、それくらいしかなかったんだけど」
彼は値段だとか、日用品過ぎたことなんかを気にしているようだが、私には寧ろそれが心に響いている。私のことを考えて選んでくれるなんて、征嗣さんにはないことだ。欲しい物はあるか?と直球で聞いて来る人である。私を思って、想像して、何かを選ぶなんてことは、決してしないだろう。成瀬くんはこんなに優しいのに。成瀬くんなら……こうして私は、今日何度目かの勘違いを起こしそうになっていた。彼は友人。哀れな私に慰みの手を差し伸べて、クリスマスという日を一緒に過ごしてくれているだけ。それを忘れてはいけない。この優しさは、同情に過ぎないのだ、と。
彼がしてくれたこと。世の中が幸せそうな夜に、私を掬い上げてくれた。そうして、こんな温かいものをくれる。色やデザインを選ぶことだけが出来ることだったと言うけれど、そんなことないよ。私は今日、成瀬くんから沢山の物を貰った気がしている。少なからず、征嗣さんを思って泣くようなことはない。心の中がようやく溶け始めたような、そんな気もしていた。
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