第一話 臆病になった僕を(下)

 十九時二十九分。僕はギリギリ、待ち合わせの場所に着いた。見渡したが、陽さんはまだ来ていなそうだ。彼女も程なくして、ここに来るだろう。今のうちに深呼吸をして、はやる気持ちを落ち着けていた。急に、今夜会えませんか、と言った僕を不審に感じたと思う。本当に来てくれるのか、未だ少し半信半疑なところはあった。改札から出てくる人は、襟元をマフラーなどで覆い、寒さをやり過ごしている。僕は冷たくなった手をコートのポケットに突っ込んで、静かに彼女を待った。


「成瀬くん。お待たせ。あっやだ、ちょっと遅れちゃったね。ごめんなさい。連絡入れれば良かった」

「いえ。と言うか、陽さん。まだ三十三分です。気にする程じゃないです。そんなことよりも、僕の方こそ急にお誘いしてすみません」


 丁寧に頭を下げた。小走りに駆け寄って来てくれた彼女。手で持つ鞄が大きく揺れ動いた。そして彼女は呼吸を整え、「あの、今日はどうしたの?」と僕に問う。あまりにストレートに聞かれた僕は、恥ずかしくなってちょっとだけ目を伏せた。


「えっと、あの……その。一緒に、クリスマスケーキ、食べたいなって思って……」

「クリスマスケーキ?」


 恐ろしく、しどろもどろに言葉が出て来る。ただ素直に言っただけなのに、何だか恥ずかしくて仕方なかった。大人ならサラリと、クリスマスだからどこか行こう、とか言えたらいいのに。中学生みたいな僕は、下を向いてしまう。


「喫茶店とかでケーキとコーヒーどうかなぁって。その、気分だけでも」

「え?それだけ?」


 そんな言葉が飛んで来て、僕はショックを受け、急いで顔を上げる。怒っているでも、呆れているわけでもない顔をした陽さんは、不思議そうに僕を見ていた。今夜はクリスマスだし、変なことは言っていないのだけれど。


「それだけです……すみません」

「あ、いやいや。土曜日に会うのに、急に電話くれたから。何かあったのかと思った。それならそうって言ってくれたら良かったのに」

「クリスマスだからって言ったら、嫌がられるかなって思っちゃって」

「何それ。だってクリスマスじゃない。変なの。もう」


 陽さんが笑ったから、僕はようやくホッとしていた。ただ単に、何用で呼ばれているのか、と訝しんだだけの様である。


「この時間だし、カフェだとチェーン店かなぁ。それか純喫茶みたいなところか、他はもう……お酒を飲むか、だね。でも、ケーキ置いてあるかなぁ」

「あぁそうか。そうだよね。クリスマスケーキって、買って帰る物だもんね。何かごめん。そこ考えてなかった」

「謝らないでよ。良いじゃない。クリスマスなんて暫くなかったから、嬉しかったよ。有難うね」


 僕は簡単な男だ。嬉しかった、と言われただけで、今とても胸が高鳴っている。これは恋じゃない。ただ、仲の良い異性の友人が出来ただけだ。そう何度も思おうとしたけれど、やっぱり今夜もそれが出来そうになかった。


「陽さん。ちょっとだけ、飲まない?」

「ん、いいよ。ちょっとだけなら」

「うん。あ、じゃあ僕の家の近くなんだけど、イタリアンがあるんだ。結構穴場でね。そこでもいい?」


 彼女は僕を見て、大きく頷く。それもニコッと笑って。ドキドキ、ドキドキ煩くなった自分の音が聞こえて来る。一度は結婚をしたのに、僕の心は恋のイロハも忘れてしまったようだった。

 笑い合って、雑談をしながら、僕らは不忍池の方へ出る。それはとても自然で、このまま一緒に……などと淡い期待をしてしまう。そうしてまた僕は、自分に言い聞かせるのだ。友人だから居られることだ、と。


「そう言えばさ、緋菜ちゃん。僕もあれはヤキモチを妬いてると思ったよ。まぁ状況は違ったけど」

「ホント?だとすると、昌平くんがもう一押しってところ?いや、引いた方が良いの?恋愛なんて忘れちゃったよ」

「それはさ……僕も同じなんだけど」


 顔を見合わせて、噴き出した。僕は色々あったからする気がなかっただけで、陽さんとはちょっと違う。教授と十年以上、って言っていたけど、それ以外に彼氏はいなかったのかな。余計なことに気が付いてしまって、勝手に気になっていた。


「陽さん、ここ」

「へぇ、こっちの方ってあまり来ないなぁ」

「だよね。僕も一人だと、ついアメ横の方へ出ちゃうから。近いけどあまり来たことないんだ」


 つい喧騒の街の方へ足を向けてしまったのは、一人を楽しむ余裕がなかったからだ。赤提灯のような場所を求めて、こういったところはあまり来ないのが現実。まぁそれで昌平くんたちと出会い、こうして陽さんにも出会えた。結果オーライ、というところか。

 店内はそれなりに混み合っていたが、直ぐに奥の方の席に通される。周りは女同士で楽しむ人や勿論カップルもいて、それぞれのクリスマスを楽しんでいるように見えた。席に着くと直ぐに、陽さんはメニューに手を伸ばす。そうしてペラペラとページを飛ばしたかと思うと、うぅん、と唸るのである。


「ねぇ。クレームブリュレ食べても、クリスマスケーキになる?スイーツがそれしかない」


 どうも、真っ先にデザートを確認したようだった。どうしよう、と顔に書いてあるのが可笑しくて、可愛らしい。僕が本当にケーキを食べたいと思っているようだ。どっちかと言うとプリンよね?と本気で心配している。


「何でも大丈夫だよ。僕がただ会いたかっただけだから」

「ん……え?ごめん、何て言った?」

「いいんだって。ほら、コンビニで買って食べたって良いんだし。ここは美味しいの食べようよ」

「そ、そう?」


 僕にしては大胆なことを言ったと思っている。でもそれも、彼女の後ろで騒ぐ若者の声が被るのを予想していたから言えたこと。丁度若者のところに、チキンとローストビーフが運ばれてきたのを、僕は見ていたから。聞こえていたって良い、と思ったけれど、冷静になれば恥ずかしいだけだった。


「私ねぇ、キッシュとキャロットラペが食べたいです。成瀬くんは?」

「そうだなぁ。ソーセージの盛り合わせとポテトサラダかな。お酒は何にしよう」

「ワインも良いけど、今の感じならクラフトビールも良さそうだね」

「確かに。じゃあ、ビール飲もうよ」


 結局僕らは、いつものように食事を頼む。骨付きのチキンだとか、クリスマスプレートのような、あからさまな物は頼まない。イベントにはしゃがなくなった大人だからなのか。逆に意識しないようにした結果なのか。それは分からない。それから、最近は忙しいの?なんて話して、大人の友人同士を気取る。ビールを運んで来た店員が、爽やかな笑顔を見せるが、僕が返すのはぎこちない物でしかなかった。


「お疲れ様ってことで。乾杯」

「ふふ、お疲れ様でした」


 メリークリスマス、とでも言おうかと思ったけれど止めた。僕らは友人。デートをしている訳じゃない。そして何度も自分に言い聞かせた。これは恋じゃないんだ。仲の良い友人と食事をしているだけ。浮かれたらいけない。


「どうしたの?」

「あっ、いや。何でも、ないよ」

「そう?何か今日は成瀬くん変ねぇ」


 変だ、と言われれば変である。僕は久しぶりの恋に戸惑い、確認をしながら一つずつ進めているのだ。恋じゃない、と言い聞かせながらも、実際は恋だと自覚をしてはいる。分かっている。なんて、面倒臭い男なんだろう。彼女を好きになって、いつかは想いを伝えて。それが実ればいいけれど、いずれ失ってしまうのが怖いのだと思う。紗貴と結婚をして、彼女はいなくならないと胡坐をかいて、結局消えた。悪かったのは自分だけれど、永遠なんてないのだと知ってしまったのである。

 陽さんは、僕を不思議そうに見つめる。こんなに臆病になった僕を、彼女は突き放したりはしない。優しく受け止めようとしてくれる。甘えてるのかな。そうかも知れないけれど、僕はやっぱり陽さんが好きだ。


「あ、成瀬くん。そう言えばさ」

「えっ?え?」

「どうしたの?緋菜ちゃんたちどうしてるかなって言おうとしたんだけど」


 自分の気持ちを再確認していた時に、急に名前を呼ばれたから慌ててしまった。あぁ昌平くんたちね、と急いで話に乗ったけれど、変だったかな。


「さっき、緋菜ちゃんが連絡くれたんだけどね。陽さんは今日どうするの?って言うから、仕事って返しただけで終わっちゃったの。その後何も送って来ないって、珍しいよね」

「確かに。それなら飲もうよ、とか言いそうだよね」


 仕事、って返したんだ。そっか。それは良かったのかな。あまり詮索をされるのは好きじゃない。でもちょっとだけ、拗ねるような気持ちがあった。


「緋菜ちゃん、あんなに無視してたのに何だかグッと距離が縮まったみたいで。今は仲が良いみたいなんだよね」

「へぇ。何があったんだろうね。この間僕が会った時は、普通だった、ような」


 久しぶりに三人で飲んだ時、彼らはどうだったろうか。クリスマスの話をして、緋菜ちゃんに色々聞いた。あれ?自分のことばかりで、彼らのことが全く思い出せない。言い合いだとか、そういうのはなかった。何だか陽さんの話をして、それから昌平くんの腕に痣があって。保育士は謎の痣が出来るものだ、と教わった。それくらいだ、僕が覚えているのは。

 陽さんは、何か連絡着てるかな、と携帯電話を探る。僕はただ、その細い指を見ていた。


「何も……ん?昌平くんからだ。ちょっと待って。え?えぇっ」

「何、どうしたの?」

「いや、これ……」


 そこに映し出されたのは、見事なケーキの写真だった。そして、『悩んだけれど、今から緋菜のところに行って来る』と書かれている。昌平くんの行動力とケーキの完璧さに驚かされ、僕は直ぐに言葉を発せなかった。


「これは相当な展開ですね。頑張って、とかって入れればいいかな」

「う、うん。きっとそう。ちょっと驚き過ぎて、何て言って良いのか分からないや」

「だよね。本当にお菓子作りが得意なんだね。私も驚いた」


 苦笑いした彼女は、直ぐにメッセージを打ち込んだ。『ケーキ美味しそう。頑張って』と短い文だ。僕らは彼女の携帯をテーブルに置いたまま、彼らの反応を待っていた。あの二人、これからどうなるんだろう。

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