第一話 臆病になった僕を(上)
十八時半。僕は携帯電話を手にした。今日は流石に早めに帰る人が多く、お疲れ、と僕の肩を叩いて、数人が追い抜いて行く。その背中を眺めて、羨ましい気もあれど、僕はそれどころではない。これから陽さんに電話を入れようとしているのだ。呼吸を整え、発信ボタンをタップする。こういうことは、直前にあれこれと考えない方が良い。
コール音が繰り返される度に、どんどん不安になる。年末など、どの仕事でも忙しい。出られないかも知れない。それでも仕方のないことだ。十回目のコールで耳から外し、諦めた僕の耳に彼女の小さな声が聞こえて来た。
「はい?成瀬くん?」
「お疲れ様です、陽さん」
驚いた様子の彼女の声。ピリッとした緊張が走る。
「どうしたの?」
そう聞く彼女の声は、とても小さかった。席から離れて、陰で電話に出ているのだろう。
「急に電話してごめんなさい。まだ仕事中ですよね?大丈夫ですか」
「あぁ、うん。若い子たちは帰らせたし、後はのんびりやるだけだから。でも、本当にどうしたの?何かあった?」
「あぁえっと。その、今夜会えませんか」
「今夜?これからってこと?」
彼女は内緒話でもしているかのように、そう聞き返す。クリスマスの夜に誘っている、ということに、特別意識はないらしい。
「忙しければ良いんです。ただ、どうかなって思って。僕が御茶ノ水まで行くので」
「それは……。えぇとそれなら、上野の中央改札に一時間後。どう?」
「分かりました。仕事、慌てないで大丈夫なので」
「うん、じゃあ後でね」
プツッと切れた通話は、先日の夜を思い出させた。職場に居るのだから、余韻を残しながら切るなんてことはしないだろう。分かっているのにな。やっぱりちょっと寂しい。
あの日、多分教授が来たのだと思っている。あんな慌てたように切ってしまったら、きっと彼女なら後で連絡をくれただろう。さっきはごめんね、と。それもなく、後日ランチの約束を取り付けた時も、彼女はそんなことを言わなかった。教授が来たことを、知られたくないのだろう。不倫、という事実を知っている僕にだって、言いたくない気持ちは分かる。分かるけれど、寂しいと言うか、苛立つと言うか、そんな色んな感情が僕の中に湧き出ていた。
「お前、プレゼント何買った?」
自席に戻って、片付けを始めた僕の耳に、そう聞こえて来る。声の主は、僕の上司とその同期だった。
「家族で食べるちょっと良い肉と、嫁には時計。前にあげた奴が壊れちゃったらしくて。これから受け取って帰るんだ」
「ほぉ。ちゃんとやってるんだな。お、成瀬も帰りか?」
「あ、はい。お疲れ様です」
聞き耳を立てた訳ではないけれど、その内容に僕はちょっと焦っていた。プレゼントって、あった方が良いのか。別に付き合っている訳じゃないし、ただの友人だし。そんなものを用意するのは変だろうか。
「今夜はデートにでも行くのか?何か慌ててたみたいだけど」
「あぁ、いえ。友人とちょっと会うだけです」
「そっか。うんうん、成瀬。そういうのは大切だぞ。仕事ばかり考えてたら、全部がダメになるからな。そういう息抜きがあって、人生は回るんだ」
一緒に歩き始めた僕の頭を、上司はグリグリ撫でまわした。彼は、僕が離婚をした時の荒れ様を知っている。仕事のことばかりでパンパンになって、夫婦として生きられなかったことも。だから、そう言うのだろう。同期である方の先輩はそれを知らない。だから、何気取ってんだよ、とケラケラ笑った。
「そうだ、成瀬。友人にもプレゼントがあるといいらしいぞ?」
「いや、お前。男同士でプレゼント交換って可笑しいだろ」
「そうでもないさ。うちの高校生の息子もさ、友達にあげるんだって。小遣いからちょっと良い菓子買って来てた。男同士でも、普通みたい。貰ったら嬉しいだろ?って言ってたよ」
「はぁ。そういうものですか」
友人と会うのに、クリスマスプレゼントを用意した上司の息子。それを目尻を落としながら、父親が会社で部下に話す。きっと幸せな家族なんだろうな、と羨ましい気持ちが湧いて来る。紗貴と子供が出来ていたら、僕らもそうなれただろうか。
「成瀬、良いんだよ。楽しめれば。ノリみたいなもんだ」
「なるほど……」
「じゃあな。良いクリスマスを」
上司たちは楽しそうに会話を再開して、駅へと消えて行った。
僕はと言うと、時間の差し迫る中、必死にプレゼントについて考えていた。高過ぎても良くない。手頃で、貰って困らない物。今日はJRに乗らないといけない。いつもの京橋の駅を通り過ぎて、東京駅へ急いだ。
もう時間はない。改札近くの店をチラチラ見ながら、何か手頃な物を探し始める。何だかモコモコしたソックス。パックなんかが詰められたギフト。お洒落な缶に入った紅茶。事前に何も考えていなかった僕が、選べるわけもない商品が目に入って来る。食べ物が無難だろうか。ドリップバッグのコーヒーとクッキーのセットを手に取り、僕は陽さんを想像した。
「あっ……」
そうして一人顔を赤らめている。思い出してしまったのだ。陽さんの部屋に行った時に出されたコーヒー。彼女が丁寧にドリップしてくれた物だ。僕はそれを飲む前に……僕は彼女にキスをした。それからシャツの中に手を伸ばしたんだ。忘れていた訳じゃない。それなのに、急にその場面を思い出すと、変な汗が出始める。男が一人、コーヒーを手に取って焦っている、無様な光景である。
「ま、豆はこだわって買ってるかもな」
言い訳のようにそう呟いて、手にした物を戻した。彼女に会う直前に思い出してしまったことを、後悔している。キスをしたこと、陽さんは嫌じゃなかったのかな。シャツの中に手を伸ばした時は、流石に抵抗されたけれど。彼女は僕をどう思っているのだろう。本当は今日会うのだって、嫌かも知れない。陽さんは優しいから、断らなかっただけ。とんでもなく臆病になった僕は、そんな風に暗いことを考えている。
そんな僕の目に飛び込んできたのは、店員の手書きで書かれたポップ。『気取らない物をさり気なく』と書かれている。そこには、ハンカチやら色々な物が並べられていた。気取らない物、か。そうしたら僕には、もうアレしかない。
東京駅から上野駅まで、恐らく十分程度。もう時刻は十九時を過ぎている。サッと商品を手にすると、僕は会計に急いだ。
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