第二話 俺の大きな一歩

『悩んだけれど、今から緋菜のところに行って来る』


 唯一背を押してくれるであろう陽さんにメッセージを送って、部屋を出たのは十五分ほど前のこと。手に持っているケーキが崩れないように、ゆっくり向かって来たのは緋菜の家だ。本当はまだ躊躇いはある。急に持って行ったら嫌がられるだろうか。じゃあ前もって話しておくか。俺は何度もシミュレーションしては、項垂れた。


 そもそも、どうしてこうすることにしたのか。それはこの間の成瀬くんの様子が原因だった。

 クリスマスのことを、あれこれ緋菜に聞いていた成瀬くん。そこで彼女を誘ってみせた訳じゃないけれど、そうならない訳でもない。じゃあ陽さんか、と思えば、「陽さんには幸せになって欲しい」とどこか他人事のように言う。そうなったら、やっぱり緋菜を、と考えるのが俺にとっては自然な流れだった。

 その結果、俺は見事に焦り、あれこれ考えた訳である。何かを買って渡す?いや、俺もディナーなんかに誘ってみる?それはガラじゃないか。一人でも想像を膨らませては、直ぐに肩を落とした。そして結局、俺が自信をもって出来ることは、この手に持っているケーキだったというわけだ。勿論、どんなケーキにするかも相当悩んだ。チーズケーキのような、見た目が地味な物ではダメ。アピールするにはちょっと弱いから。クリスマスは平日。手順を考えると、土台は前夜に作って置かねばならない。そこで考えたのは、クリスマスにぴったりなブッシュドノエルだった。


「大丈夫、大丈夫。ズレてない」


 紙袋の上からケーキの入った箱の小窓を覗き込む。フルーツの脇に乗せた小さなメレンゲ菓子のサンタクロースと目が合う。それすら、頑張れ、と言ってくれるような気がして、俺はちょっと心強かった。昨夜のうちにロールケーキまで作って、今日の仕事上がりに仕上げた。あまり凝ったことはやる時間がなかったが、そこそこ上手く出来たと思う。


「あ、陽さん……ありがとう」


 緋菜の家まで直ぐの小学校――アイツを初めて送って来た時に来た場所まで来た時、メッセージを受信する音がした。『ケーキ美味しそう。頑張って』と、とても短い激励。それだけなのに、今唯一の味方が発してくれる応援の声は、ちゃんと俺の背を押した。陽さんは成瀬くん側に立たなかった。それは今分かる範囲の憶測でしかないけれど、そう思えただけでホッとしている。

 緋菜を好きだと感じる度に、自分の中の不安が大きくなっていた。アイツは、美人だ。多分出会いの場に態々行かなくとも、声が掛かるような容姿をしている。成瀬くんだって、その美人に目がいっている訳だ。同じように一緒に居て、同じように酒を飲んでいても、俺は彼に勝てない。焦っても仕方のないこと。分かっているけれど、成瀬くんよりも一歩先に進んでいたかった。くだらない、俺の意地みたいなものだ。


『緋菜、家に居る?』


 そう打ち込んだメッセージを、深呼吸してから送信した。帰宅時からくだらないメッセージのやり取りをして、アイツが一人であることは分かっている。嘘を吐ていなければ、緋菜は一人で家に居るはずだ。クリスマスだからなのか、今日は何処にも寄らなかったようだし。さっきまでは直ぐに既読になったのに、今回のはそうならなかった。緋菜だって、何かしているだろうし。必ずしも携帯が近くにあるわけじゃない。そう思えるのに、俺は画面を見つめて、大きく息を吐いていた。


「自信持てよ、ったく」


 自分を静かに鼓舞する。大丈夫、きっと大丈夫。繰り返し念じる言葉は、自分の自信のなさを表しているようだった。天を見上げては、項垂れて。傍から見れば怪しい奴だ。警官が来たら、直ぐに職質の対象になるだろうな。そんなことを考えていると、携帯に短い着信があった。緋菜からだろう。俺は、もう一度深呼吸をして携帯を立ち上げる。


「ん、瑠衣先生?」


 そこに表示されたのは、これまた俺を鼓舞する言葉だった。陽さんのような激励かと言うと少し違う。これは幸せの報告みたいなものかも知れない。


『何だか分かんないけど、頑張れよ。さっき言い忘れたけどね、私も今夜はデートなの。お互い頑張ろうね』


 そう書かれた文面から、幸せが飛び出てくるようだった。マッチングアプリで出会った人と、この間に休みにお茶をしたとは聞いていたが、今夜も恐らくその人だろう。それにしても、彼女は見事なまでにそれを隠していたな。俺だったら、その高揚感でニヤニヤしてしまう気がする。今日でさえ、バレバレだったのだから。


『有難うございます。瑠衣先生も、頑張って。健闘を祈ります』


 真面目にそう返して確認したが、まだ緋菜へのメッセージは既読にならない。だからまた大きな溜息を吐いた。


 今日は何だか落ち着かない一日だった。計画した順通りにやれば、ケーキ作りは問題ない。問題は、緋菜の反応だった。意を決して作り始めたくせに、いざ、となると尻込みして。溜息を吐いて、項垂れていた。昼間なんて園児に「昌平先生、どぉしたのぉ?」と聞かれてしまい、こんなことじゃいけない、と何度も頬を叩いていたのだ。そして、それに気が付いたのが、瑠衣先生である。

 初めは茶化していたが、俺の表情で何かを察したのだろう。最後の園児が帰ると、スッと俺の脇に立ち、真っ直ぐに前を向いて「頑張れよ」と言ったのだ。俺はそれがとても心強かった。職員室に戻れば、今日は皆早く帰ろう、と大声を張り上げる。今日がクリスマスだから、その人声に救われた若い先生は多かっただろう。結果的に、自分が早く帰りたかったのかも知れないが。俺はその煽りを有難く受け、急いで帰路に着くことが出来たのだった。


「寝ちゃったのかな……」


 ボソッと零した言葉が、寂しさの重さに耐えられずに落ちていく。情けない程肩を落とした俺は、あと五分待って連絡がなければ帰ろうと決めた。寝てしまったのなら仕方がないんだ。俺が勝手に渡したかっただけ。緋菜は何も知らないのだから。

 あぁそう言えば、成瀬くんはどうしただろう。クリスマスのことをあんなに聞いていたけれど、緋菜を誘った様子はない。本当に陽さんを誘ったのだろうか。でも陽さんからのメッセージには、そんなことは書かれていなかった。仕事中にこそっと送ったくらいの物だった。もしかして、緋菜と会ってる?俺とくだらない話をやり取りしていたのは、彼を待っているまでのこと。今連絡がつかないのは、クリスマスディナーに行ってるから……?負の妄想が生まれ始めると、俺をどんどん覆って行った。


「うぅん……」


 緋菜の連絡先を見つめて、俺は小さく唸る。発信をタップしようか、何度も指が触れそうになり止めた。成瀬くんと一緒だったら、俺は大打撃を受ける。一人でこのケーキを食いながら、自棄酒をするしかない。それも仕方がない、か。出だしが悪かった自分のせいだ。そう自分に言い聞かせてから、発信ボタンをタップしようとした。その時、緋菜からメッセージが返って来たのである。


『あ、ごめん。気付かなかった。どうした?家に居るけど』


 何と言うか、本当に俺を友人としか思っていないような、さっぱりした内容だった。それがかえって、俺を安堵させる。良かった。成瀬くんと一緒じゃなかったんだ。ふぅ、と吐いてから、俺は発信ボタンをタップした。


「あ、もしもし。緋菜?」

「おぉ。お疲れ。どうした?」

「あぁ、うん。いや、ちょっと出て来れる?渡したい物があって」

「は?どこに居るの?」

「いや、お前の家の近くだけど」

「はぁぁ?もう何よ。ちょっと待ってて」


 緋菜が酷くぶっきらぼうに電話を切る。俺は彼女の家まで、あと数メートルの距離を歩き始めた。これを渡したら、帰る。多くは望まない。メリークリスマスって言うだけ。それでいい。何度もシミュレーションをして、俺は彼女家の前に立った。心臓はこれまでにないくらいに、バクバクと大きな音を立てている。今日はイベントに託けたけれど、俺にとっては大きな一歩だ。あとはこれを渡すだけ。


「昌平、何よ。どうしたの?」


 俺の気持ちと反るような不機嫌そうな顔をして現れた緋菜。あれは絶対に苛ついている顔だ。


「ホント、何。寒っ。風邪ひくじゃん、もう」


 部屋着で出て来た緋菜は、スラッと長い脚を夜風に晒している。肩にはモコモコしたガウンを掛けてはいるが、寒そうに肩を摩っては、手に息を吐きかけた。躊躇っている場合ではない。


「あのさ。これ」


 訝しげに俺を見る緋菜から少し目を逸らしながら、手に持った箱を差し出した。

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