第二話 今夜も、私は(下)

 あれは……あのちょっと癖毛は、征嗣さんだ。大きな丸い肩。見間違えるはずがない。でも、どうして?来るなんて言ってなかったのに。


「陽さん?大丈夫?」

「あ、うん。じゃあ……またね」

「うん。じゃあね」


 立ち止まったまま、成瀬くんに小声で別れを告げると、慌てて電話を切った。深呼吸を何度も繰り返す。平静を取り戻さねば。何かを疑われてしまったら、後々厄介なことになる。インターホンの前で止まった彼を、一度追い越す。こんばんは、と小さくお辞儀をして。私が部屋へ入り、一呼吸置けば、彼からインターホンが鳴るだろう。疚しいことを続けている私達の、いつの間にか出来上がった習慣だ。


「ふぅ」


 持っていたカレーをキッチンに置くと、直ぐにインターホンが鳴った。どうぞ、と彼を招き入れる。彼がここへ上がって来るまでに、もう一度呼吸を整え直さなければ。大きくて、長い息を吐き出す。そうして、玄関の戸を開けた。


「おぉ、丁度帰りだったか」

「うん。来るんだったら言ってくれたら良かったのに。カレー、征嗣さんの分買ってないよ」


 少し頬を膨らませて言ってしまうのは、もはや悲しい性でしかない。靴を脱いで、いつものように部屋に入って行く征嗣さん。私はその後ろで成瀬くんを思い出して、ギュッと瞑って残像を消した。征嗣さんがここに来たのは金曜の夜。一週間も経たないうちに、他の男が部屋に入ったなんて知られたらいけない。家中を綺麗に掃除をしたが、粗がないかと不安になる。一瞬でも挙動が不審になれば、征嗣さんは絶対に気が付くだろう。彼はそう言う人だ。


「あぁ、いいよ。飯は家で食うって言ってあるし、直ぐ帰るから」

「そう、なんだ」


 じゃあ何で来たのよ。そう思うのに、私は適当に笑って誤魔化すだけ。実際にそう言うことは出来ない。だって未だ、思ってしまうのだ。時間がないのに会いに来てくれた、と。そして、それが嬉しいと思える感情が、今も何処かにある。だから私は、別れることが出来ないままなんだ。


「そうだ。見て、ナン大きいでしょう?家じゃこんな風に焼けないし、楽しみ。新しいお店だからね、美味しいのかは分からないんだけど」


 直ぐに帰るって言ったって、コーヒーくらいは飲むのだろう。湯を沸かし始め、そんなことを言ってみる。征嗣さんがそれに興味のないことは分かっているが。コーヒー豆の瓶に手を伸ばすと、そっと征嗣さんの手が重なった。私を包み込むように抱き締めると、髪の匂いを嗅いでいる?疚しいことがないか、の確認だろうか。


「陽。何か隠してることでも、あるのかい?」

「何もないわよ。どうしたの?」

「君がそんなに色々喋るなんてこと、いつもはしないだろ」

「そんなこと、ないでしょう?私だってお喋りをすることくらい、あるわ」


 本当は、鼓動が早い。お友達と会っていた、と言えば信じてくれるかもしれないけれど、一つや二つ嫌味が付く。お前に友人など居たんだな、と言われることだけは既に想像が付いている。それよりも今心配なのは、成瀬くんとの電話である。聞こえてはいなかったろうけれど、あれこそバレたらどうなるか。しかも相手は、征嗣さんも知っている人だ。絶対に面倒なことになる、と私は細く、静かに息を吐いた。

 直ぐに帰ると言ったこの人が、本当にその通りにするのか分からない。奥様は呑気なお嬢様で「仕事でトラブルが」とでも言えば、簡単に受け入れるらしい。だから私がこのねちっこい視線から逃れるには、きっとまた苦しまなければいけないと言うこと。


「あ、ねぇ。征嗣さんって、いつもどの豆買ってる?グアテマラ?」

「豆かぁ。最近は、マンデリンが多いかなぁ」

「インドネシアのか。これは、ケニアのなんだけど合うかなぁ。ちょっとフルーティなの。グアテマラ終わったから買ってみたんだけど」


 最後のグアテマラは、成瀬くんと飲んだ。あの時の彼の死んだような目。今もここから小上がりを見ると思い出してしまう。重ねた唇。もう彼は覚えてないだろうけれど、私は毎日思い出していた。玄関で初めて触れて、また小上がりで……と。それも仕方がない。ここに呼び入れたのは私。ふぅ、と小さな息を吐いて、母の写真を全部倒した。


「今日は俺が淹れようか」

「本当?やったぁ。征嗣さんみたいに上手に淹れられないんだよね。いっつも、ちゃんと見てるんだけどなぁ」

「年季が違うからな」


 良かった。ちょっと嬉しそうな顔をして、征嗣さんは腕捲りをする。あぁ、どうして私じゃない人と結婚をしたんだろう。奥様は、偉い教授の娘。それだから私じゃなくて、彼女を選んだ。それは分かってるんだけれど。こうやって二人でコーヒーを淹れたりしながら、きっと楽しく過ごして行けたのに、なんていつも思ってしまう。本当に馬鹿な女。


「陽。クリスマスはどうするの?」

「どうするって?だって、征嗣さんはお家でパーティでしょ。ちゃんとプレゼント買った?」

「おぉ。嫁のは買ったよ。娘のは一緒に買いに行くけどな」

「そう、なんだ。へぇ」


 妻の分のプレゼントを買った、と私に言う心理はなんだ。ヤキモチでも妬かせたいのか。


「私はクリスマスも仕事。それ以外の予定はないわよ。知ってるじゃない」

「まぁな。でも陽、何か欲しいなら言ってごらん?」

「え?征嗣さんが何かくれるの?」

「そうだよ。だから聞いてるんだろうが」


 征嗣さんが私に何かくれたことなど、今まであったか。初めの頃にハンカチをくれたくらいではないか。コーヒー豆を買って来たとか、そう言ったことはあったけれど。急に欲しい物はないかと聞かれても、思い付かない。征嗣さんの時間が欲しい、とは口が裂けても言えない。……あぁダメだ。別れるんだ。何を考えている。これまで長い年月をかけて刷り込まれた感覚が、私の決心を鈍らせる。


「大丈夫。有難う」

「そうか。クリスマスは仕事だけか?」

「そうだってば。あぁでも、年越しはお友達と過ごすことにしたよ」

「友達?」

「そう。私より若くて……緋菜ちゃんっていくつだっけ。えぇとね。お仏壇屋さんで働いてるの。可愛らしい子よ」

「仏壇屋?ふぅん」


 ワザと緋菜ちゃんと言ってみる。少しでも現実味があった方が良い。彼女がここに来るのは事実だ。そうやって年末を思えば、つい思い出される彼の顔。成瀬くんも、またここに来るんだな。ここに来たら、何かを思い出してしまわないだろうか。


「本当に友達いたんだな」

「征嗣さん。私にだって、一緒にお食事に行ったり、飲みに行ったり、お家に行ったりするお友達がいるのよ。もう」

「へぇ……」


 緋菜ちゃんと仲良くなって、本当に良かった。今までの私なら、ここまで言い返すことは出来なかっただろう。何だかちゃんと別れられそうだ。征嗣さんは、まだ私を疑っている目をしているけれど。


「陽、やっぱり何かあったな?」

「……え?」


 征嗣さんは珈琲を落としながら、そう呟いた。私の方は見ていない。私、何かボロを出した?今間違ったことは言ってないはず。


「何もないって。今日は、緋菜ちゃんっていう子のお家に行ったけれど」

「けれど?陽。正直に言いなさい」


 振り向いた彼の視線が、また私を探っている。あの蛇のような獲物を逃がさない目。静かにそれを外し、彼はコーヒーをカップに注ぐ。正直に言ってるよ、とようやく答える私の声が緊張している。


「ほら」

「あ、有難う」


 会話が続かない。征嗣さんはただニコニコとしながら、私をじっと見ていた。カフェテーブルに置かれたカップから、香ばしい湯気が立っている。それに伸ばそうとした手が震えていた。落ち着け、落ち着け。


「陽。誰に抱かれたか?」

「え?何それ。そんなこと、してない」

「そんなことはしてないけど?ヒナちゃんっていう子、以外の誰かと会ってるんだな。この間の男か?」

「そんなこと、私言ってないじゃない」


 体が急に強張っていく。笑うことも、泣くこともない。ただ、叱られる子供のように委縮して、怯えているのだ。


「陽、何年お前を見てると思ってるんだ。言い方、表情で大体分かる」

「征嗣さん、本当に違うの」

「何が違うんだよ。いいか、俺は全部知ってるんだ。お前の性格も、何もかも。どこが一番感じるか、もな」


 そう意地悪に言った征嗣さんが、私を押し倒す。逸らせない視線が、私の全てを読み取っていくようで怖い。彼は表情を何一つ変えないまま、私の服の中に手を伸ばした。ビクン、と体が跳ね、全身から血の気が引いていく。

 私はどうしたいの?別れたいんじゃないの?そう思えど、この視線からいつも逃れられない。あぁ、写真を倒しておいて良かった。そう思いながら今夜も、私はただ強く目を瞑った。

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