第三話 俺の悩みは(上)
「あ、昌平。お疲れ」
「おぉ。何だよ、緊急事態って」
「まぁまぁ、お座りなさいよ。ビール?ハイボール?」
「ハイボール」
やたら上機嫌な緋菜を目の当たりにして、俺は少し警戒している。ハイボール一つ、と元気に叫ぶ緋菜。そこに安堵しながらも、何を言い始めるのかと少し身構えた。聞く前から既に、気が重い。
「さ、とりあえず乾杯」
直ぐに運ばれてきたジョッキを、有無も聞かずに握らされる。呆気に取られた俺を置いてけぼりにして、緋菜は無理矢理に自分のジョッキをそれは嬉しそうにぶつけた。それらが、カチン、と小さな音を立てると、緋菜は既に満足気な顔をしてそれを流し込み始める。
あぁ、この様子じゃ、暫く俺の連絡を無視していたことを、覚えているのか怪しいところだ。陽さんは、『きっかけ失くして、緋菜ちゃんも悩んでたみたいだよ』なんて言ってくれたけれども。今だけを見ていると、何だかそれを疑ってしまう。
「緋菜、先にさ。この間はごめんな。仕事のことで、ちょっとさ。トラブルがあって」
「え?あぁ、うん。いいの、いいの。私も悪かったよ。仕事だって分かってたのにね。ごめんね」
緋菜があまりにもすんなりと謝るものだから、俺は信じられない気でいる。一体、これは何の前触れだ?
「それで昌平、仕事の件は大丈夫だったの?」
「あぁ、大丈夫なんかな。どうだろう。俺はほとんど外野だから関係ないっちゃないんだけどさ」
「そうなの?」
緋菜は何だか興味がありそうに、身を乗り出した。自分と違う職業への興味みたいなものだろう。それも瑠衣先生の噂を流している母親たちと、変わらないのかも知れないが。
「何て言うか、凄い面倒なトラブルでさ」
「へぇ。でも、保育園でしょ?子供同士で殴り合いがあったとか?」
「殴り合いって。そんなんねぇけど、それの方が楽だったかもってくらい」
「うわぁ」
緋菜は憐れんだような目で俺を見る。かと思えば直ぐに、幸せそうに今日もイカフライを頬張った。それを見ながら、俺はハイボールを流し込み溜息を吐く。頭の中では、数時間前のやり取りを思い出していた――
「瑠衣先生、やっぱり狙ってるのかなぁ」
「どうだろうね」
お迎えに来た親の立ち話が聞こえる。あの話を耳にしてから、数日。こうして聞いてしまうたびに、俺は密かに苛立ちを溜め始めていた。
「そう言う話は、別のところでお願い出来ますか」
「え?」
「他の保護者の方の耳にも入りますし、僕はそういう根拠のない話を子供に見せて欲しくありません」
その母親たちに小声で、ちょっと意地悪に伝えた。保育士として云々よりも、人として許せなかったからである。言われた母親たちは、態度を変える様子もなく、ただキョトンとしたまま俺を見返していた。
「僕も変な噂流されちゃんと困るんで言っておきますけど、瑠衣先生を好きだとか、そう言うんじゃないんで。ただ、誰かが嫌がるようなことは、やっぱりして欲しくないなって」
今度はニコッと微笑み掛けた。こういう時に、男であることが役に立つ。これを女の先生がやってしまったら、きっとダメなんだと思う。下手したら、次の標的にされてしまうのかも知れない。
「す、すみませんでした」
「いえいえ。ではまた明日。さようなら」
子供の方に目をやって、笑顔で送り出す。気不味そうな顔をした母親たちは、何度もペコペコして帰って行った。あぁ、変な噂が早くなくなればいいのに。チラリと目をやると瑠衣先生が申し訳なさそうに、小さく手を合わせる。俺もちょっとだけコクッと頷いて、また園児に目を向けた。
彼女は噂が耳に入っても、表情を変えたり、落ち込んでいる様子はない。精神的なダメージはあるだろうが、強い女性だな、と思う。乃愛ちゃんの方も、お友達と仲良く遊んでいる。事の発火点は、落ち着きを取り戻し始めていた。あとは周りの保護者に残った尾鰭だけ。まぁそれが一番面倒だったりするんだが。
「昌平先生。ちょっと言い過ぎかな」
「あっ園長先生……すみません。つい」
園児の見送りに来ていた園長が、一部始終を見ていたようだった。何度も頭を下げてから合わせた目は、それほど怒ってはいないように見える。だからと言って、褒められることではないが。
「瑠衣先生も元気になったから良かったわ。有難うね」
「いや、僕は何もしてないですよ」
「そう?いや、でも有難うね」
園長は穏やかに微笑んでから、残った園児に声を掛け始めた。彼女もまた、保護者の扱いに疲弊する面もあるのだろう。何かを言えば、ネットに書き込みをされるような嫌な時代だ。園児を守り、先生を守る。それは簡単ではないのだろうと、察した。園長の背を見ながら、ふぅ、と一息吐く。叱られなくて良かったけれど、気を付けないといけないな。
「ん?」
何かを言いたげな他の先生と目が合った。特に何を言うでもない、ジェスチャーをするでもない。あの顔は、よくやった、と捉えても良いかな。瑠衣先生や園長だけでなく、恐らく皆が、こういった状況に疲れ始めている。
皆は今の様子をたたえてくれるようだが、俺はと言えば、緋菜のことが気になって仕方ない。どう連絡をしても無視される。既読にすらならないのだ。どうにもならなくて、陽さんに泣きついた日曜の夜。彼女は、一緒になって慌ててから、どうにかするよ、と言ってはくれた。今日、会っているようだけれど……
「はぁ」
「昌平先生どうしたんですか?お疲れですね」
「あぁいや、何でもないです」
新卒一年目の女の先生が、俺の溜息に目ざとく気付く。そっとして置いて欲しいけれど、そうはいかないらしい。クリスマス前だからですかぁ?と、無駄な質問が始まっていく。俺が困っていることに、この子は気が付いていない。どうも、こういうのを往なすのが苦手だ。グイグイ話されても、「はぁ、そうっすね」としか返せていない。それでも彼女は楽しそうに、一人勝手に話していた。
「昌平先生。ごめん、ちょっと手貸して貰える?」
「あ、はい」
瑠衣先生から声が掛かった。その一言で、彼女はバツが悪そうな顔をして、俺から離れて行く。それを見ながら、まったく、と腰に手を当て近付いて来る瑠衣先生。何だか逃げたくなる気持ちも、分からなくはない。
「で、何でしょう?」
「何もないわよ。くだらない話に捕まってたみたいだったから」
「あぁ、すいません」
俺たちは職員室へ向かいながら、こそこそとプライベートな話をし始める。
俺はマッチングアプリのことが気になったけれど、瑠衣先生は違うらしい。
話を直ぐにはぐらかすのだ。
「私の話よりも。大丈夫だった?ほら、この間叫んでたやつ」
「え、あぁ……だい、じょうぶでもないですけど、大丈夫です」
大丈夫だ、と冗談でも言えなかった。決して大丈夫ではないからだ。年末というビッグイベントもあるし、きちんと謝っておきたいのに。陽さんに願いを託して、俺は今は何とかやり過ごしていた。
「何だそれ。彼女怒っちゃったんじゃない?ごめんね。土曜日だったのに、私に付き合ってくれちゃったから」
「あぁ、いや大丈夫です。どうせ向こうも仕事だったし」
「へぇ。やっぱり彼女いたんじゃない」
「あっ、いや……そんなんじゃないんですけどね」
苦笑しながら、職員室のドアを開ける。そう?とケラケラ笑う瑠衣先生は、俺の背をバシバシ叩く。そんないつもの彼女に安堵し、自席に着いた。明日が休みだと伝えてあるし、もしかしたら陽さんが緋菜を誘い出してくれるかも知れない。淡い期待をしながら、俺はこそこそと携帯電話を立ち上げた。
『緊急事態。今夜空いてる?』
俺の目に飛び込んできたのは、あれだけ俺を無視していた緋菜からのメッセージ。そしていつもの通り、用件は書いていない。ホッとするような、微妙な気持ちに苛まれる。一体何があったんだ、と途方に暮れたところに、もう一件届いた。陽さんからだ。
『緋菜ちゃんから連絡行ったかな?きっかけ失くして、緋菜ちゃんも悩んでたみたいだよ』
これは、どういうことだ。二つのメッセージは多分、違う話をしている気がする。この様子では、陽さんに緊急事態は起こっていないようだ。ということは、緋菜の言うそれは、陽さんと成瀬くんのこと?俺は『陽さん、有難う。何か上機嫌だったよ』とメッセージを返す。一先ずは緋菜に会って、ちゃんと謝ろう。それからその、緊急事態の対処を考えるんだ。よし、と呟いた俺は、急いで日誌を付け始めた。
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