第二話 今夜も、私は(上)

 緋菜ちゃんと夜ご飯も、と思いはしたけれど、今日は帰路に着いた。明日が仕事だということもあるが、最近やたら征嗣さんが煩いのである。どこへ行っていたんだ。

誰と会っていたんだ。自分は結婚しているくせに、監視するかのような言葉が飛んで来る。いつからこんな風になってしまったのか。

 流石にもう終わりにしよう、と決心はしている。何かと理由を付けて身勝手に肯定して来た関係を、私は成瀬くんに話した。誰にも言ってはいけないと、頑なに噤んで来た関係を。そうして彼は聞いたのである。愛しているのか、と。正直に言えば、困惑したその質問は、酷く私を動揺させた。愛や恋など、私たちの間にあったことがあったか。互いに何かを確認し合うだけの関係ではないか、とまざまざと思い知らされたのである。

 だから今、私はどうにかして別れる術を考えているところだ。あの人を陥れたいだとか、不幸にしてやりたいだとか、そんなことは一ミリだって思っていない。ただ別れて欲しい。知らぬ顔をして生きていって欲しい。それだけだ。


「あぁそうだ」


 私は立ち止まり、携帯を引っ張り出した。昌平くんに連絡して置こう。

 ここのところ彼は疲弊していた。緋菜ちゃんに連絡をしても無視されてしまう、と。何やら仕事の用事を済ませている間に、彼女の連絡を無視する形になってしまったようで、『もういい』と送られて着ていたらしい。それ以降、既読も付かず、どうにもならなくなった彼は、私に助けを求めた。そうやって誰かに求められることなどなかった私は、何とか力になろうと頑張ってみたところである。役には立ったろうか。


『緋菜ちゃんから連絡行ったかな?きっかけ失くして、緋菜ちゃんも悩んでたみたいだよ』


 彼女があんな反応を示した原因が、まさかヤキモチだったとは思わなかった。もう少し彼女の自覚が芽生えるまでは、昌平くんには言わないでおこう。確証もないのに、昌平くんが舞い上がってはいけない。一人、うん、と頷いてから、成瀬くんにもメッセージを打ち込んだ。


『緋菜ちゃん、少し気持ちが変わって来たのかも。ヤキモチ妬いたみたい』


 成瀬くん。年下の男の子だけれど、とてもしっかりした可愛い子。彼がお友達でいてくれれば、私は征嗣さんと別れられる気がしている。分かっているのだ。今までそう出来なかったのは、一人ぼっちになりたくないだけなんだ、と。首元に入り込む風が冷たい。ストールをギュッと巻き付けて、私は家路を急いだ。

 気付けばもう、夕暮れは夜空になっている。今日は何かを買って帰ろう。家に帰ったら、読み途中の小説を読もう。少しでも楽しいことを考えながら、私は突き当りにあったカレー屋の扉を開いた。

 バターチキンカレーとナン。これが正式なインド料理なのか分からないけれど、初めてのカレー屋さんではいつもこのセットを頼む。香辛料の加減だとかにやはり癖があって、一括りにインド料理と言っても、味は同じではないからだ。注文をして待っている間、携帯を手にする。メッセージは二件。一つは昌平くんから。


『陽さん、有難う。何か上機嫌だったよ』


 この向こうで彼が嬉しそうにしているのが想像出来て、私まで微笑んでしまう。昌平くんは、本当に緋菜ちゃんが好きみたい。あとは彼女の方だ。年末に上手く、何かをセッティング出来ればいいな。私はそう言うのが下手だから、これも成瀬くんに相談しておこう。成瀬くんかな、と期待したもう一件は征嗣さんだった。


『今日は何してる』


 疑問形でも何でもない、淡白な文章。あの人らしい。はぁ、と大きな息を吐いて、私はササッとメッセージを返す。


『今上野で、インドカレーをテイクアウトするところです』


 私からの文章だって、この程度。可愛らしいことなんて書くことはない。いつもこうしたやり取りを、私たちは続けている。

 そして最近、思うことがある。征嗣さん――あの人は、一体私の何なのだろう、と。夫でも彼でもない。父親でもない。友人かと言われれば、そんなはずもない。説明をしろと言われれば、彼は勤務している大学の教授。そうでなければ、卒論の担当教員、である。つまり、私は彼の教え子。一応、所属大学の職員、という肩書もあろうが。何だか増して、不純である。


「アリガトーゴザ、マシター」


 何だか不自然な日本語で見送られ、ちょっと笑ってしまった。店員さんは忙しいのに、笑顔で手を振ってくれる。味が好みだったら、今度は店内で他の物を食べよう。そう思いながら、私は動物園通りを歩いた。

 最近この辺を歩く時は、何だか成瀬くんがいつもいる気がする。もう少し行ったら、元奥さんに会ってしまった場所。今度、また彼を誘ってここへ来よう。嫌な思い出の場所になってしまう前に、塗り替えてあげたい。

 そう思った瞬間に電話が鳴ると、直ぐ緩んだ顔が元に戻る。征嗣さんかも知れない。カレーを零さないように、そぉっと携帯を取り出す。表示されている名前は、成瀬文人。それにホッとして、私は通話をタップした。


「もしもし、こんばんは。成瀬です」

「こんばんは。お仕事?お疲れ様」

「あれ?陽さん、休み?あぁだから緋菜ちゃん」

「あぁそう」


 また歩き始めて、私は今日の彼女の話をする。あれはヤキモチだったのではないか、と。


「だとしたら、結構いい感じだよね?」

「うん。でもまだ緋菜ちゃんは、何でそう思ったのか良く分からないって言ってた。自覚するのはもう少し先かも」

「そっかぁ。あれ、陽さん。外に居る?」

「あ、うん。不忍池の辺りを帰ってるところ」


 また冷たい風が、首元に届く。ストールをさっき緩めたのを忘れていた。


「今から、会える?どこかで飲まない?僕が行くから」

「あぁ、えぇと……」

「今日も来るの?」


 言い淀んだ私に、彼が冷たくそう言った。今日も来るのか。それは、征嗣さんが、と言うことだろう。冷ややかな目線を送られるのは仕方ないけれども、何だかちょっと癪に障る。彼が、もう止めておけ、と言いたい気持ちは分かる。でも、そんな風に私を軽蔑してまでも、友人でいてくれなくたっていい。そう思ってしまう私は、歪んでいるのか。


「ごめん。僕がそんな風に言うのはおかしいね」


 黙り込んだ私に、彼は何だか落ち込んだように声のトーンを下げる。そうだった。彼もまた、誰にも言えなかったであろう秘密を私に話したところだ。しかも彼は、元妻と元親友に会ってしまった。私よりもずっと、心は平穏でないのだろう。


「いや、ごめんね。テイクアウトでカレー買っちゃって。今零さないように、そぉっと歩いてたところで」

「あぁそうなんだ。ごめんね」


 また成瀬くんは、シュンとしている。大丈夫かしら。心配になった私は、「じゃあ今度ランチに行こうよ。どう?」と声を掛けた。昼間なら、私だって何も考えずに会えるはず。


「いや、何か気を遣わせてごめん」

「ヤダ、そんなに謝らないでよ」


 やっぱり浮き沈みが激しい。あの夫婦を目の当たりにしたのは、彼はショックだったのだろうか。幸せの象徴のような大きなお腹。あの事実は、彼に複雑な衝撃を与えたのかも知れない。


「うん。そうだね。じゃあお店探してみるよ。折角だから、美味しいの食べに行こう」

「そうだね。お任せしても良いの?」

「うん。あ、でも。ご希望があれば早めにお願いしますね」


 分かりました、とちょっと笑った私が見たものは、マンションに向かっている男性の後ろ姿。あれは……

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