第四話 俺の先輩(下)
「昌平先生。何でカラオケな訳?」
「だってほら、誰かに聞かれる心配もないし。歌って発散も出来るし」
「あぁ。泣いたって大丈夫だし、か」
瑠衣先生は俺をチラリと見て、直ぐにメニューに目を落とした。有難う、と呟く横顔は、多少の苦笑いを浮かべている。園を出る時よりも大分落ち着いて来たようだった。酒とつまみを頼み、店員が来るまでは子供に人気そうな曲を探し始める。アニメだったり、戦隊モノの歌だったりもチェックするのだ。ニチアサは必須項目のようなものだし、子供たちが口ずさんでいるから、大概は歌えるが、歌詞の確認のようなものである。
「毎年、毎年。戦隊モノが変わると、分からなくなっちゃうのよね」
「あぁ、分かります。女の子のキャラクターを覚えるのが苦手で、覚えきらないうちに終わっちゃって。『先生、それはもう終わったの。古い』って冷たい目で言われたことありますよ」
「あるある。女の子の方が、そう言うの手厳しいよね。私が言うのもなんだけど」
そう言って笑う瑠衣先生は、いつもと同じ。リモコンを触りながら、この曲難しいよね、とか言ったりして。このままあの件を問わなければ、彼女は笑っていられるような気がした。
数分後、机の上にポテトやたこ焼きが届けられる。店員が退室すると直ぐに、俺たちはグラスに手を伸ばした。マイクには触れない。今日の用件は、歌うことではないのである。
「じゃあ、まぁ……お疲れ」
「お疲れ様です」
空元気を出したように、瑠衣先生はハイボールを流し込む。俺と僅かに視線をずらしながら、ポテトに手を伸ばした。触れない方が良ければ触れないが、この人は自分から弱音を吐くことはしないだろう。一度は問うてみた方が良い。後輩として叩き込まれたものを確認ながら、俺は口を開いた。
「それで、園長先生、何だったんですか?」
「え、あぁ。まぁ何て言うか誤解なのよ」
「誤解?」
「そ。
四歳児クラスの乃愛ちゃん。確か大人しい子で、いつも二つに髪を結わいている子だ。確か、シングルファザーだったはず。登園時にちょっとだけ髪の高さが違うから、女の先生たちがこそっと直してあげているんだと言っていた。あの子がどうしたのか。俺が二つ縛りのジェスチャーをすれば、そうそう、と彼女は指をさした。
「この間ね、お休みの日に会ったの。パパとお誕生日のケーキを買いに行くんだ、って嬉しそうにしててね。あの子が自分から話し掛けて来るなんて珍しいじゃない?」
「あぁ、そうですね。物静かで、あまり主張しない子ですよね」
「そう。だからね、私あげちゃったのよ。たまたま持ってたクッキー。何か嬉しくなっちゃって」
「あぁ……そういう」
園外での個別の交友は禁じられている。誰か一人を特別扱いしていると思われるのは、仕事上芳しくない。瑠衣先生のしたことは、確かにそれに反しているが……俺は少し同情している。余り自ら発さない乃愛ちゃんが、嬉しそうに声を掛けてくれた。そうしてしまう気も分からなくもない。
「そう。こっそり、って思ってても、乃愛ちゃんにはそうはいかない。彼女は彼女なりの交友関係があって、彼女なりのプライドが存在するでしょう」
「確かに。大人しい子だからこそ、噴出しちゃう時ってありますよね」
「そうなんだよね。どうも誰かが、お誕生日にパーティしないのかとか、あれこれ聞いたみたいでね。まぁそっちの親から、そんな事実が出てくるわけないから、推測だけれど」
何となく想像は付いている。純粋に「何貰ったの?」と聞く子もいるし、そうでない子もいる。言葉にこそしなくとも、見栄の張り合いみたいなものは、子供でも存在するのだ。私はこんなものを貰ったのよ、というアピール。何だか嫌になって来るが、良くある話。家で大人が言っていることを、子供の世界に持ち込んで真似る。意味を分かって使う大人と違って――そうでない人間もいるが、耳で覚えた言葉だけが鉄砲玉のように飛んで行くのが子供の世界なのだ。
「それで、言っちゃったみたいなの。瑠衣先生にクッキー貰ったって」
「そうでしたか」
シュンとした瑠衣先生は、ガクリと項垂れる。何だか四歳の悲しい心内が見えると、流石に胸が痛んだ。
「まぁ私が悪いから、何も言うことはないんだけれどね」
そう言う彼女は、かなり落ち込んでいる。根は真面目な人なのだ。泣いてしまう程に、堪えたのだから。
「さっき、昌平先生に注意したでしょう?子供は見てるからって」
「あぁはい。家に帰って話した点が、保護者同士で線に……なったってこと?」
「みたい。勿論、余計な尾鰭が付いてね」
大きな溜息を吐いて、またハイボールをグッと飲む。瑠衣先生は、それと一緒に、自分の中のやるせなさを飲み込んでいる気がした。
事情を纏めると、話はこういうことらしい。乃愛ちゃんの話を保護者間でしているうちに、『どうしてそのシチュエーションになったのか』という問題が生じた。たまたま会ったのかもね、なんていう平凡な思い付きよりも、もしかして、が勝ったという訳だ。つまり、瑠衣先生と乃愛ちゃんのお父さんがお付き合いしているのでは?と。そうじゃなかったとしても、少なからず瑠衣先生は狙ってるんじゃない?と。園長はそのデリケートな問題を知り、土曜だが人気が少ないという理由で、態々確認に来たらしかった。
「園長には誤解だって分かってもらえたんだけどさ……何だか悔しくて。あぁ、私ってそんな風に見られてるんだぁって。真面目に働いてるのに、保護者を狙うような女に見えてるんだぁって。物腰柔らかな先生ではないことは、自覚してるけどさ」
彼女は唇を噛む。薄暗い部屋の中でまた潤み始めた目が、キラッと光った。
「その、好きなんですか?」
「は?昌平先生まで止めてよ。私だって……」
チラリと目を合わせて、直ぐに逸らす。そして、わざとらしく咳込んで誤魔化された。
「そんな訳ないでしょう?私だって結婚に焦りはあるけど、そんな面倒なことしないわよ。保護者だけは絶対にない」
「確かに厄介ですもんね」
「でしょう?私だって、そりゃあ……」
そして、また口籠る。彼女は冷め始めたタコ焼きに手を伸ばし、ふぅ、と溜息を吐いた。俺はと言うと、私だって、と言った先が気になって仕方ない。私だって選ぶ権利がある?私だって好きな人くらいいる?私だって……何だろう。
「瑠衣先生は、面倒な人だけど」
「面倒って何よ」
「まぁ、明け透けと言うか、裏表がない。だから俺は好きですけど、人によっては付き合いにくいかも知れない」
瑠衣先生は目尻に少し溜まった涙を拭ってから、少しだけ笑った。彼女は元気に大笑いしている方が良い。それをちょっと面倒くせぇなって思ってるくらいが、丁度良いのだ。
瑠衣先生は、確かに少しガサツだ。それが彼女の言う、物腰の柔らかさと言うのを下げているのだけれど。例えば、穏やかで優しい先生が失敗したら「ドジな先生だなぁ」で済むところが、彼女のような我の強い先生が同じようなことをすると「あの先生ガサツだから」となる。実は後者の方が器用にこなしていても、大体損をしている。彼女はそう言うタイプだ。
「俺、思うんですけど。優しい先生が、絶対的に良い先生ではないと思うんですよ。保育士が皆、穏やかで優しいなんて、幻想じゃないですか。聖人君子を目指せって言いたい気持ちは分かりますけど、俺たちだって人間なんで。保護者の思い通りに生きられる訳じゃない」
噂話を立てたりするような保護者は、確かに数人思い浮かぶ。自分の子を特別扱いして欲しいのか何なのか。SNSでうちの園の保育士を探すのは当然のこと、暇さえあれば他人のあら捜しをしているのである。そんな時間があるのなら子供と向き合って欲しいが、彼らにはなかなか響かない。
「何か、有難う」
「いえいえ」
「ねぇ、昌平先生。本当に彼女いない、の?」
「何すか。最近そればっかり。いないって言ってるじゃないですか」
この間から、随分しつこく確認をして来る。別に俺に彼女がいようが、いまいが、どっちでもいいじゃないか。その点に関しては、瑠衣先生に関係ないはずだ。ん?関係、ないよな……いや、まさか。さっき彼女が言い止まった「私だって」が、リフレインし始める。急に男の勘が働く。私にだって好きな人くらいいるってこと?まさかと見た瑠衣先生は、何だか少しモジモジしている。え?と思うと同時に、ドキドキと鼓動が早まり出した。
「あの、昌平先生」
「はっ、はい」
「ちょっと相談があって」
「な、なんでしょう」
声が度々裏返る。こういう時はどうしたら良いんだ?頭の中がフル回転で、想定回答を弾き始める。
「マッチングアプリってやったことある?」
「へ?マッチングアプリ?いや、ないですけど」
「そうか。やってみようと思ったんだけど、躊躇っちゃって。恥ずかしいから、誰にも聞けないじゃん?だからさ」
「え、それで?彼女いるかって関係あった?」
「だって、彼女いたらやらないでしょう?」
あぁなるほど、と納得はしたものの、一瞬の緊張がブツリと音を立てて切れた。私にだって選ぶ権利くらいある、が正解だ。女の勘程、男の勘は鋭くない。そういうものだ。紛らわしい言い方をした俺の先輩は、さっきよりもスッキリした顔をしていた。大体、俺は緋菜のことが好きなのに、何を期待したんだ。そうだよ、緋菜がいるのに……緋菜。緋菜?
「あぁぁあぁっ」
「何よ急に。大丈夫?」
折角緋菜が誘ってくれたのに、俺は電話を切ってそれきり。慌てて携帯を確認すると、不在着信とメッセージが沢山来ていた。最後のメッセージは『もういいや』とそれだけ。あぁ、俺の恋は終わってしまったかも知れない……
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