第四話 俺の先輩(上)
「昌平先生、今日もご機嫌でしたね」
「そんなことないです。いつも通りです」
「そう?」
瑠衣先生はそう言って、俺を茶化す。今日の土曜保育は、俺と瑠衣先生の二人。まぁ子供も少ないし、先輩が一緒にやってくれるわけだから、俺はほとんどサポート役。十七時を過ぎて最後の子が帰ると、彼女は伸びをしながら、またそう楽しそうに聞くわけだ。
確かに陽さんのおかげで、年越しに一緒に居られることになったし。そういう点では、確かに機嫌は良い。でも仕事は仕事。気を引き締めてやっているはずである。
「はぁ。あのね、気付かれてないと思ってるだろうけど。昌平先生、今日も随分ニヤニヤしてたよ」
「いや、そんなはずは」
「いえいえ。さっきも口元緩んでました。気を付けてね。子供たちって敏感だから。適当に色んな話付けられて、噂にでもなったらたまったもんじゃないよ」
「ですね。気を付けます」
単に先輩としての忠告だった。子供が園での出来事を断片的に家庭で話す。それが保護者同士で線になった時、事実とは限らない噂話が出来上がるのだ。そうなったらもう、否定のしようもない。保育士に休息はないのか、と思ってしまうことの一つでもある。
「そう言えばさ、昨日デートしてたって?可愛い子と歩いてたって聞いたけど」
「はぁ?何ですか、それ。誰がそんなこと言ってるんですか」
「色々回って来るのよ」
あぁ、その言い方からすると、女の先生たちのメッセージをやり取りしているグループでの話題だな。でも確かに昨日は女性と歩いてはいたけれど。緋菜か?それとも陽さんか?可愛らしいという形容詞だと、陽さんのことか。誰かに見られているかも知れないとは思っているけれど、まさかこんなに直ぐに自分の元にやって来るとは。
「池袋の方で見たって聞いたんだけどなぁ。行ってない?」
「ブクロっすか……行ってないですね」
「そっか。ふぅん」
まさかの緋菜の方だ。可愛いというよりも、綺麗な女だと思うけれど、他の人から見ると違うのか。瑠衣先生は俺に疑いの目を向ける。別に疚しいことではないのに、つい視線を逸らした。
「あぁ良かった。お疲れ様」
「あれ、園長先生。お疲れ様です」
土曜だし来るはずのない園長が、教室に顔を出した。俺はちょっとだけ背筋を伸ばすと、「お疲れ様です」と小さく頭を下げる。何か来る用事があったのかと、疑問が浮かんでいるのは言わずもがなである。
「瑠衣先生、ちょっといいかしら」
「あ、はい。じゃあ昌平先生、お片付け頼んでいい?」
「あ、あぁはい。大丈夫ですよ」
「昌平先生、ごめんなさいね。じゃあちょっと、園長室でいいかしら」
二人を見送って、教室を片付け、掃除を始める。土曜日にわざわざ来るような話なのかな。子供たちが片付けた棚のチェック、クレヨン等のしまい忘れがないか確認する。それでも尚、何だか疑念が晴れなかった。
「うぅん……とりあえず日誌付けるか」
首を傾げながら職員室に戻った俺は、一先ずパソコンの電源を入れ、携帯を確認する。陽さんから、何か年末の提案があるかも知れない。今朝、連絡が着た時には、『お休みだから、メニューとか色々考えてみるね』と書かれていた。新着メッセージの知らせに、もしかしたら何か思いついたのかも、と思ったが……送信元は緋菜だった。
『昌平、良いこと思い付いた。仕事終わったら教えて』
「はぁ?何だよ」
独り言を言って、辺りを確認する。土曜保育だ。誰がいるわけでもないし、瑠衣先生が帰ってくる様子もない。それなのに机の下に隠しながら、もう一度メッセージを確認する。
その突拍子もないメッセージ届いていたのは、昼前のこと。思い付いたことを送って来いよ、と思いながら、ササッと返信をしておく。『そろそろ終わるけど、どうした?』と。メッセージを送ってくるほどだ。どんな妙案なのだろうと思いながら、日誌のフォルダを開いた。どうせ緋菜もまだ仕事だろう。
「今日の天気は晴れ、と」
下ろしていた袖を捲り、腕に書いたメモを見始める。エプロンのポケットにメモ帳を入れていた時期もあったが、結局書く暇などなく、こうして腕に殴り書きをしている毎日である。保護者に読み取られないように、自分にしか分からない暗号のようなものだ。その酷く汚い文字を解読しながら、日誌を付ける。今朝は皆いい子だったな、と思い出しながら。
すると、携帯が静かに揺れる。どうせ緋菜からだ。さて、その妙案を聞いてやろうじゃないか。
『ふと思ったんだけどさ。陽さんと成瀬くんって、お似合いじゃない?』
そう書かれた文面が飛び込んで来て、「はぁぁ?」と大きな声が出た。何言ってんだ、急に。誰もいない部屋をキョロキョロ見渡して、廊下の様子に聞き耳を立てる。誰かが近付いて来る様子もない。何故そんな思い付きに至ったのか分からず、こそこそと発信をタップした。緋菜のことだ。思いついたら直ぐに行動するだろう。そうなってからでは、手遅れになることだって有り得る。
「お疲れ。終わったの?」
「いや、もうちょっと。だけと急に何だよ、あれ」
「今日陽さんと……まぁ色々メッセージのやり取りをしててさ。ふと思ったんだよね。年も近いだろうし、お互いに独身相手なしでしょう?」
「うぅん、まぁそうだけど」
話を聞いて行っても、どうも本当に思い付きのようだった。あの二人、お似合いなんじゃないか。一人でピンと来てしまって、これは昌平にも手伝って貰わなくちゃと思った。まぁそんなところだろう。
ただ、よく考えてみれば、確かに良い案である気がしてくる。成瀬くんが陽さんと上手くいってくれたら、それはそれで俺も有難い。彼は俺の友人であり、ライバルだ。つまり、俺たちの恋が実るのは一方のみ。真正面からぶつかっても、彼のスペックに勝てる気はしないし。それならば、彼の気持ちが別の方向へ向いてくれる方が、確かに良い。緋菜、それは確かに妙案だ。
「じゃあどうする?何か考えがあるのか?」
「お、昌平。そう来なくっちゃ。でね、大晦日の日に二人きりにしない?ほら、あの二人さ、奥手そうだし。部屋に二人っきりになったらさ、良い感じになるかも知れないし。飲み始めてたら、『酒の勢い』ってあるじゃん」
「いや、まぁそうだけど」
それは流石に雑過ぎると思う。野性的な勘で動く俺たちと違って、多分二人は頭脳派である。背中を押すなら、きちんとレールを敷かないと怪しまれるだけだ。肩で携帯を挟んだまま、日誌を打ち終えた。あとは年明けのお便りを作るか、どうするか。
「なぁ。年越しもそうだけどさ、クリスマスってどうするんだろう。俺は仕事が忙しいから何も出来ないけど」
「あぁ私も年末年始の準備で、仕事バタついてるからなぁ。仏具屋にクリスマス関係ないんで。二人はどうなんだろうね。二十五日が水曜日……か。陽さんに、成瀬くんはどう?って聞いたらダメだよね」
「それは背中を押すじゃない。ただのごり押し。しかも成瀬くんが望んだものじゃないやつな。とりあえず、考えてみるわ」
そう?と言う緋菜の感情が分からない。私はとっても良いことをしている、としか思っていないのだろう。受話口から少し外して溜息を吐くと、足音が近付いて来る気配を感じた。瑠衣先生が話し終えたのだろうか。
「じゃあさ、昌平。今から店に行かない?明日休みでしょう?」
「お……とりあえず、また連絡入れるわ」
「昌平、ちょっと……」
「瑠衣先生?」
切り際に、まだ緋菜の声が聞こえたが、それどころではない。話を聞かれたろうか。また茶化されるな。一先ずこの場をやり過ごすのに、慌てて携帯を隠した。そうして俺が見たのは、目を真っ赤に腫らした瑠衣先生。話を聞かれたかも、なんて心配している場合ではない。
「大丈夫ですか?何言われたんすか?」
「あぁ、ごめん。電話してたよね。彼女だった?そっちこそ大丈夫?」
「俺は別に。友人だったんで」
「そっか」
瑠衣先生は俺に背を向けて、上を向いた。まだ涙が止まらないのだろう。グズグズと鼻を鳴らしながら、何とか溢れ出るものを止めようとする。自分の机の上に置かれたティッシュの箱を手に取り、俺は彼女の元へ立ち上がった。
「……これ」
「あぁ、有難う。やぁね、職場で泣くなんて。ごめん、ごめん。まだ何かやることある?」
「いや、大丈夫っす。お片付けのチェックも、お掃除も完璧。日誌も書き終えたんで、目を通して貰って問題がなければ終わりです」
「そっか。有難うね。ヨシ。じゃあ、見ましょう」
赤く腫れた目のまま、彼女は懸命に俺に笑い掛けた。頬が引き攣っているのに、何とか堪えているように見える。それなのに日誌を確認し始めると、彼女は瞬時に先輩の顔に戻った。
「大体は良いけど、ここ。パンツを後ろ前に穿いた、じゃなくてさ。後ろ前逆だったけれど自分で穿けた、の方がいいかな。書き方一つで印象変わるでしょう?」
「あぁそうか。有難うございます。気を付けてるんですけどね」
「まぁそうだよね。誰かに確認して貰って気付くことってあるもんね」
はぁ、と大きな溜息を漏らした。事情は分からないが、問題は深刻そうに見える。彼女はいつも世話になっている先輩だ。何か力になれるだろうか。
「瑠衣先生。この後、飲み行きません?」
「え?いやぁ、今日は」
「その顔のまま、一人で電車に乗れます?」
「あ……そんなに酷い?」
「酷いって程じゃないけど、何かあったなって感じはしますね」
赤い目。まだ零れそうな涙。それから赤い鼻。多分、一人になればすぐに泣きそうな顔だ。園長がわざわざ来たんだから仕事の話。それなら俺だって、愚痴くらいは聞けるはず。緋菜が誘ってくれたけど、今は目の前の先輩に手を差し伸べたいと思った。
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