第三話 本当の僕を(下)
あれこれ悩んだ僕らは、近くの居酒屋に出掛けることにした。揚げ物よりも刺身にしよう。そう話して決めた先だ。陽さんが時々一人で行く店らしい。並んで歩き始めれば、また昌平くんたちの話を始める。緋菜ちゃんは字が上手なんだよ。昌平くんは、パンを焼くのも上手みたい。そんな互いの情報の交換みたいなものだ。でも僕は、隣を歩く彼女が気になって、ところどころ話を聞いていない。それを陽さんに叱られて、笑って、楽しくて……僕はちょっとだけ、紗貴たちに感謝していた。
「陽さん、あのさ」
「うん?」
「さっき、本当に有難う」
「ん、それは聞いたよ?」
「あぁそうじゃなくって。紗貴たちに会った時のこと」
それねぇ、と彼女は黙り込む。それから数歩歩いたところで、僕の方を申し訳なさそうに見た。
「私、言い過ぎちゃったかな。部外者なのに」
「いやいや、いいんです。紗貴はアレだけど、翔太は陽さんのこと、じろじろ見てたし。本当にごめんなさい」
今は友人でないと思ってはいるが、僕の知り合いではある。彼らの無礼を詫びるが、陽さんは「いやいや」と手をヒラヒラさせた。
翔太は紗貴のことを思って、強気に出たのかも知れない。アイツは元来、穏やかな奴だ。僕のしたことが、許せなかったのだろう。
「何て言うか……イラっとしちゃって」
「イラっとしたって、陽さんが?」
「うん。だって、私のお友達に何てこと言うのって思っちゃって。だからこう……言ってやりたくなっちゃった。文人くん、なんて呼んだことないのにね。自然だった?」
「う、うん」
アレを言われた紗貴は、凄く面白くなさそうだった。学生時代から三年付き合って、結婚までしたのだ。それがどんな顔なのかは、分かっているつもりだ。陽さんがどう思ってくれたかは分からないけれど、彼女のその余裕が、余計に紗貴を苛立たせていた。
あの時、僕は感情がぐちゃぐちゃだった。紗貴への申し訳なさと翔太への苛立ち。子供が生まれることを知った安堵。そんな僕を陽さんは、そこから助け出してくれて、掬い上げてくれた。紗貴が何と言おうとヒラリとかわし、苛立った言葉は放たなかったのだ。冷静になればなるほど、凄いな、と思う。それなのに、僕は今、何かが不満だった。何かが面白くない。
「成瀬くん、気付いてるんだよね?」
「へ、何を?」
「うん?私と征嗣さんのこと」
陽さんは無理矢理に口角を上げながら、そう切り出した。目元は全く笑っていない。また前を向いて歩き始める陽さんは、サラッと「征嗣さん」と教授のことを呼ぶ。彼女が話そうそしていること。それは、僕がずっと聞こうと思っていたことだ。
「あ、あぁ……何となく、そうかなぁって思って」
「そっか。それで、止めとけって言おうとした?」
「まぁ、そうですね。僕は不倫をされる側の気持ちを知ってるから。原因を作ったのは自分だとしても、そうされることの悲しさを知ってる。だから、陽さんに加害者のままで居て欲しくなくて」
「加害者、か。確かにそうだ」
ふふふ、と笑った顔は、苦しそうだった。きっと終わりにしなければならないことなど、本人も分かっているのだろう。それでも出来ないのは、教授のことをそれだけ……
「愛して、るんですか?」
「え?愛してる?」
「教授のこと」
「愛なんて……もうないわよ。私たちの間にあるのは、惰性、慰め、馴れ合いってだけ。彼は分からないけれどね」
愛なんてない。その言葉は、明らかに僕を苛立たせた。そこに愛があるのなら、まだ救いようがある気がしたのだ。ただ慰め合うだけ?妻だけでなく、子までいるって言うのに。
「愛してないのに、教授と一緒に居ないといけないの?」
「いけない?いけなくはないよ、ね」
「でも結婚している人と付き合い始めて、そんなのって何か」
「許せない?」
冷めた目で僕を見ていた。いや違う、泣きそうなくらい悲しい顔だ。でも僕は、それに気が付きながらも頷く。陽さんは、傷付くかもしれない。でも、現状から抜け出せるのなら、と僕は細やかに祈った。
「成瀬くん、あのね。ちょっと違うんだ」
「違うって?」
「結婚してる人と付き合い始めたんじゃないの」
「え?」
「私がお付き合いしていた人が、結婚したの」
「は?」
その反応は正解、と陽さんは笑った。
どういうことだ?陽さんと付き合っていたのに、教授は別の人と結婚をした。そういうことを言っている?
「ある日突然、俺結婚するわって言われて。何が何だか分からないまま、私は別れを選べなかった。結果的に、今の罪の重さは変わらないんだけどね」
「先に付き合い出したのは陽さんだったの?」
「うん。多分。私は付き合ってるって思ってたんだけど、初めからそう言うつもりじゃなかったのかも知れない。でも別れることもなく、そのままもう十年以上」
「十年……」
「引くよね」
わざとらしく笑って見せる彼女が、苦しそうに見えた。僕が一人藻掻いていたように、彼女もまた、誰にも助けを求められずに藻掻いているのではないか。
「陽さん、助けは必要?」
「そうねぇ、今は大丈夫。もう何年も諦めてたけれど、流石にね。そろそろ終わりにしないといけないって思ってて。あの人には幸せな帰る家があるのに、私だけ一人って寂しいじゃない。それに何かさ」
「ムカつくよね」
勝手に陽さんの気持ちを代弁した僕は、ふんっと鼻を鳴らした。陽さんはちょっと驚いてから、本当に穏やかに笑った。ムカつくでしょ?と。
「私ね、思ってたの。もうこのまま、私の人生は終わって行くんだろうなぁって」
「何それ。まだこれからでしょ?」
「そうなんだよね。でも、そうやって思うことも出来なかった。私には友達もいなかったし、誰にも相談出来るような話じゃないしね」
『せいじさん』と書かれた画面を思い出していた。『お前なんかにも友達がいたんだな』と書かれたあの文章だ。あんな風に陽さんに高圧的な言い方をして、自分は勝手に結婚をして。教授のしていることは、最悪だ。偉い教授だか何だか知らないけど、酷く腹が立ってきた。
「陽さん。何だか腹が立ってきた。相談に乗るのは当然だけど、僕だって何か言ってやりたい。陽さんが、紗貴たちに言ってくれたみたいに」
「まぁまぁ。私たちのことは、放って置いて大丈夫だから。そうやって思ってくれただけで十分。有難う」
陽さんはそう言うけれど、僕は何だか納得出来ていない。どんな関係であれ、終わりにするのは簡単でない。そのくらい、僕だって分かっている。けれど、片方だけがこんなに苦しんでいていい訳がない。じゃあ何で話したの?と、陽さんに聞く自分の口調が、苛立っていた。
「だって、成瀬くんは知られたくないことを、私なんかに話してくれたじゃない?それなら私も言わないとなぁって」
「陽さん……私なんかに、なんて言わないでよ」
「え?あぁ……そっか。ごめん」
いつもそうやって自分を卑下する。陽さんの悪いところだ。でもこれもこの十年の間に、あの人が作り上げてしまったのかも知れない。あんな言い方をされても、陽さんは別れなかった。もしかしたら、もっと酷いことを言われているかも知れない。
「謝ることでもないよ」
「うん、そうだね。……成瀬くん、怒ってる?」
「怒ってないよ。怒ってない」
「あ、二回言った。私ね、二回そうやって言う人、信じないの」
「あっ、もう」
さっきまでの陽さんに戻った。ケラケラ笑って、楽しそうに歩く。僕はそんな彼女を見ながら、本気で救いたいと思っていた。簡単にはいかないだろうが、力にはなれるはずだ。
「私、成瀬くんがお友達になってくれて、本当に良かったなぁって思ってるよ」
「お友達」
「ん?お友達って言ってくれたじゃない」
「う、うん。そうだね」
僕はまた面白くなかった。原因は、陽さんが僕を『友達』と形容したこと。僕らは確かに友人だ。陽さんがそうやって言ってくれるようになったのは、嬉しい。それなのに、おかしいんだ。僕は今、ちっとも嬉しくない。だから何も言わずに、陽さんの手を取った。真っ直ぐ前を向いたまま。
「どうした?」
「いいの、今日は」
「何それ」
「繋ぎたかったんだから、いいじゃん」
そんなの屁理屈だ。だけれど本心だった。急に子供みたいにごねた僕を、彼女は不思議そうに見ている。あぁ、変に思われたろうか。ムスッとしたフリをして目を逸らし、手を解かれないように祈っていた。
「……そっか。それじゃあ、仕方ない。こうして行こう」
でも今日だけね、と悪戯に覗き込む彼女に、僕はドキンとする。年上だけれど、可愛いと思った。繋いだ手をブンブン振りながら歩く陽さん。僕はまた心臓が煩くて、煩くて、煩くて……仕方ない。
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