第三話 本当の僕を(上)

「やっ、止めて」


 突き離され、僕は今座っていた小上がりに尻もちをついた。彼女のシャツの中に伸ばした手が、柔らかな肌を辿って抜け出て来る。その白い肌を滑る僕の指先が、一瞬の違和感を見せ、膝の上に落ちた。


「……ごめん」


 情けなく、呟く。また下を向いた僕は、その手をギュッと握った。少しずつ冷静になる頭で、自分が何をしようとしたのか思い返した。僕は、何をしようとした?何を……何てことをしようとしたんだ。自分に対する絶望感が、一気に沸き上がった。陽さんは懸命に裾を直しながら、小さく微かな深呼吸をしている。そして、あんなことをした僕に、「コーヒー飲もう」と笑ってくれた。


「はい、どうぞ」

「……有難う」


 二人、小上がりの縁に並ぶ。僕は一口飲んで、小さな溜息を吐いた。もう彼女には、全てを話さなければいけない。言わなくてもいいと言ってはくれたけれど、こうなってしまった以上、そうはいかない。


「陽さん、ごめんね」

「何の話?……気にしてないよ、大丈夫」

「いや……何から話せばいいんだろうな」

「話さなくていいよ」

「ううん。陽さん。僕、聞いて欲しいんだ」


 これまで胸に秘めていたこと。誰にも言えずに隠し続けたこと。それを誰かに相談が出来たらどんなに楽か。そういつも思っていた。でも僕には、楽になることなど許されない。自分に暗示をかけて、一人藻掻いていたのだ。


紗貴さき……さっきの彼女は、僕の元妻なんだ」

「元妻……妻?」

「うん。僕はバツが付いてる。その隣に居たのは、僕の親友だった男。翔太しょうた

「元妻と元親友……」


 陽さんは驚きの顔を僕に見せたが、直ぐに真剣な顔つきに戻る。僕の言葉を噛み砕き、きっと今、粗方の相関図が出来上がっているだろう。問題なのは、離婚に至った理由。僕はそれを他人に知られるのを、何よりも恐れていた。だけど……


「紗貴は、結果的には翔太と不倫をした。僕を置いて、家を出たんだ。離婚届だけを残してね」

「……そっか。不倫、か」

「でもそこに至るまでの経緯は、完全に僕が悪い。僕は家庭を顧みることをしなかった。紗貴が年齢を気にして、出産に焦っていたのに、煩わしいとしか思ってなかったんだ。きっと彼女は、寂しかったんだと思う」

「寂しかったからって……」


 言い始めて、陽さんの声が小さく窄んでいった。自分のしていることと、何ら変わりないと気付いたのかも知れない。コーヒーを飲んで、僕は溜息を吐いた。


「僕ら三人はね、同じゼミだったんだ。きっと何かで翔太と再会して、僕の愚痴を話したんだろうね。いつの間にか二人の関係は、始まってた。僕だって、紗貴が何か隠してることには気付いてたけど……咎めるのも面倒だった。もうその時には終わっていたんだろうね」


 陽さんは何も言わない。僕の方も見ない。ただ微かに頷きながら、僕の話を聞いていた。


「多分その頃、僕は大きな仕事の担当になった。だから余計に現実から目を逸らして、仕事ばかりしていたんだろうね。でもその結果、仕事も上手くいかなかった。それが悔しくて、酒を煽っていた僕を見た紗貴が言ったんだ。文人の力不足でしょって」


 事実だった。僕の力不足で、企画は上手くいかず。しかもフォローしてくれた同期は出世した。あれは僕がどん底に落ちた時だった。


「それで苛ついた僕は……紗貴に手を上げた。それが、三十歳になる少し前の話」


 最低なことをした自覚はあった。翔太と関係を持つ前なのか後なのか分からないが、僕は家族である紗貴には寄り添って欲しかったのだと思う。けれど、その願いは叶わなかった。彼女の頬を叩いた僕は、泣いていた。どうして分ってくれないんだ、と思っていたのだと思う。

 紗貴はそのまま消えた。疚しい関係の男のところへ行ったのだろう、と思った。その時はまだ、相手が翔太だと気付いていなかったんだ。そして直ぐ、僕が仕事へ行っている間に、彼女の残骸はすべて無くなった。二人で買ったソファも食卓も、勝手に処分されていた。今でも覚えている。何もない部屋の床の上に、サラリと置かれていた離婚届を。

 陽さんは何も言わずに、僕が吐き出すのを静かに聞いてくれた。相槌も打たない。いや、打てなかったのだと思う。


「陽さんは僕を優しいって言ってくれたけれど、そんな風に言われる資格なんてないんだよ。紗貴が言った通り。僕は直ぐにキレたし、最終的に手を上げてしまった。紗貴だって仕事があって、出産への焦りがあって、僕に寄り添って欲しかったはずなのに」


 言いながら、泣いていた。分かってはいたけれど、それを認めたくなかった。紗貴だって僕に寄り添って欲しかったんだ、と。

 陽さんが僕の手を握る。何も言わずに、ただギュッと。それが温かくて、安心して、またポロポロと泣いた。


「今まで泣けなかったのね。もういいんじゃないかな。自分を許してあげても」

「いや、でも僕は」


苦しみ続けないといけない。そう言おうとした時、陽さんは穏やかに微笑んだ。


「さっき彼女は、成瀬くんに立ち向かったよね。震えてもいなかった。それに、私に忠告までしてくれた。ってことは、今も苦しんでいるわけじゃないんじゃないかって思ったの。トラウマになる程なら多分、成瀬くんに気付いたら走って逃げるわよ。だって、怖いんだもの。何て言うか、単に悔しかったんじゃないかな」

「え、悔しい?」


 驚いて僕は、陽さんを見つめる。ポカンとした、間抜けな顔をしているかも知れない。これは彼女なりの優しさだろうか。僕はそういうことを良く知らないけれど、何だかそう納得出来るような力があった。


「これは私の推測でしかないけれどね。成瀬くんを許さないって言ってはいたけれど、彼女たちにも不倫をした後ろめたさはあったと思うの。だけれど、目の前にあなたが現れて。更には、私たちが幸せにお付き合いをしているように見えた。それがムカッとして、恐怖や思い出したくないって言う気持ちよりも、何か言ってやりたい気持ちが勝った。彼女の気持ちとしては、そうじゃないかなって。……思いました」


 僕はまた、陽さんを抱き締めた。どうしたいのか分からないけれど、ただそうしたかった。このまま、しな垂れ込もうだなんて一ミリも思っていない。純粋に、僕の気持ちに寄り添おうとしてくれた陽さんに、感謝している。


「陽さん、有難う」

「あら、どういたしまして」


 ニコッとこぼれるような笑顔を見て、僕の胸がドクンと弾んだ。それからドクドクと速いテンポで、明らかにざわついている。陽の落ちた部屋の中で、僕らはまだ抱き合っていた。離れたくない。でもこれは、今僕の心が寂しいからだ。


「ねぇ、成瀬くん」

「は、はい」

「呑み直さない?コーヒーじゃなくて」

「うん。そうしよう」


 僕らは友人である。彼女もそう思っているだろう。だから離れてしまう前に、彼女の額にキスをした。何故そうしたのか、理由は分からない。陽さんはちょっと照れてから、そこに手を触れる。そして、へへへ、とはにかんだ。


「どこかに行く?それともここで飲む?どっちでもいいよ」

「んん……どこかに行こう。ここだと全部陽さんにお願いしないといけなくなる。それじゃあ、お礼も出来ないよ」

「お礼?要らないわよ、そんなもの」


 ケラケラ笑う彼女。そして僕は、ホッとしていた。

 このままここに居たら、きっと僕は彼女をまた抱き締めてしまう。久しぶりに感じた人の温もり、優しさ。全てに甘えてしまいそうだった。いや、甘えだけではないかも知れない。まだ自分の中で煩い鼓動。これがどういう意味を持っているのかは、流石に僕も気付き始めている。


「何にしようか。成瀬くんって好き嫌いある?」

「うぅんとね、キュウリ」

「キュウリ……じゃあポテトサラダにキュウリの入ってないところにしよう」

「何それ。そんな店ある?」

「何よ、もう。あるわよ、きっと」


 陽さんが膨れる。僕を気遣ってくれているのだろうけれど、昨日までの彼女よりも何だか人間味があっていい。彼女が小山田教授の脇に佇んでいた時なんて、死んだ魚のようだった。あれは離婚前に、翔太と居た紗貴を見つけた時と同じ顔。知られたくない一心で、表情を消しているように見えたんだ。

 ようやく笑った僕に、彼女は安堵したように見えた。怒るでもなく、一緒に悲しむでもなく、ただそっと傍に居てくれる。僕は紗貴に、こうして欲しかったんだ。だけれども、彼女にそうする余裕を失くさせた自分の弱さを、僕は忘れてはいけない。ふぅ、と一息吐いて、僕はぐるりと部屋を見渡した。装飾はあまりない。


「年越し、この部屋なら余裕ですね」

「そう?寝袋は厚みが分からないから、小上がりに敷いて貰って。私たちはテーブル寄せて、この辺にお布団敷いたら何とかなるかな」


 小上がりがなければ、普通のちょっと広めのワンルームだ。壁付のキッチン。その横に戸棚が置かれ、写真が沢山置かれている。


「あれはね、母なの」


 僕の視線に気付いたのだろう。彼女は写真の中から一つ手にして、僕に見せてくれる。陽さんとよく似た顔をした人が、レンズに向かって微笑み掛けていた。


「よく似てますね」

「そう?」


 陽さんが年を取ったら、きっとこんな風に微笑むのだろうな。綺麗な花畑で撮った写真。娘と並んだお母さんは、とても幸せそうに見えた。ここのお花綺麗でね、と笑い掛ける彼女を、僕は昼間とは違う感覚で見始めていた。


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