第二話 私の知らない成瀬くん(下)

「さっきの話なんだけど。二人を買い物に行かせるとして、僕が行かない理由考えないといけないかなって。多分僕は残っても、戦力にはならない。それなら買い出し係に回る方が自然じゃない?」


 結局有益な作戦も立てられないまま、終えたランチ。店を出て、目的もなくプラプラし始めると、彼はそう言い始める。確かにそうだ。私の部屋に残って自然なのは、成瀬くんじゃなくて昌平くん。と言うか、寧ろ緋菜ちゃんが残って、男二人で買い出しに行ってくれた方が自然だ。


「それはそうかも。成瀬くんはここに居てって、言うのは不自然だし。昌平くんが上手くやってくれるかなぁ」

「そこは大事だよね。ちょっと昌平くんと相談してみて。何ならさ、年越しを迎える前に、昌平くんに僕の気持ちを伝えたって良いんだよね。騙してるのは好きじゃないし」

「そうかぁ。そうだよね」


 楽しそうな声があちこちから聞こえて来る。征嗣さんもあぁやって、子供と手を繋いで歩いているのかな。そう考えてしまうと、それを壊していることに、急に申し訳なさを感じる。彼が結婚するって言った時、私は終わりにすることが出来なかった。一人ぼっちになりたくなかったのだ。永遠にこの罪を背負わなければと思うが、そんなことは綺麗事。言い訳を見つけて、自分の居場所を確保しているに過ぎない。彼には妻子がある。本来は別れるべきなのだから。


 散歩と言うよりも、適当に歩き始めた私たちは、特に目的地もなかった。話しながら何となく、清水観音堂の前を通って不忍池弁天堂の方へ出る。まぁ要は、初めに待ち合わせをしていた広場に出たわけだ。


「寒いのに結構居るんだね。誰も居ないかと思ってた」

「そうだね。今日は風もあまりないし、それでじゃない?」


 確かに晴れていて、冷たい風は微かに吹く程度だ。けれど、お腹の大きな妊婦さんが視界に入ると、体が冷えないかと心配してしまう。私には縁のないことだけれど、大変なんだろうと想像する。足元も見えにくいだろうし。直ぐに旦那さんが彼女に手を伸ばすと、勝手に私はホッとしていた。そんな幸せな構図を横断歩道の向こうに見ている。征嗣さんも奥さんにそうしていたのだろうか。モヤモヤした物を、一人で抱えながら。

 信号が変わる。成瀬くんと「でもやっぱり寒いね」って話しながら、動物園通りを渡って不忍池の方へ足を向けた。


「あ、ねぇねぇ。そこにね、駅伝の碑って言うのがあるの」

「駅伝?」

「そう。何か京都スタートでここがゴールだったとかって。三日三晩走り続けたらしいんだけど」

「凄いね。何人で襷リレーしたんだろうね」


 確かにな、と顎をつまんだ時、どこかから「アヤト?」と聞こえて来る。その声の元をたどった私と目が合ったのは、さっき勝手に心配していた妊婦さん。そして成瀬くんが、急に立ち止まった。


「キ……」


 どうしたの?なんて呑気に彼を覗き込んでしまった私は、直ぐにその失敗に気付く。成瀬くんは、クリクリした目を全開にして、そのまま固まっていたのだ。さっきの妊婦さんも、彼をじっと見ている。知り合いであることに間違いはなさそうだ、と察した私は、ぺこりと頭を下げ、一先ず一歩引いた。友人にこうしてばったり会えば、話をするのだろう。全くの部外者が、その邪魔をしてはいけない。


「文人。……元気、そうね」

「……あぁ」

「成瀬も新しい女出来たんだな」


 旦那さんの方が、何だか厭味ったらしくそう言うと、私を嘗め回すように見た。品定めをされているようで、決していい気はしない。何だろう。あの夫婦から彼に向けられる言葉が全て、刺々しい気がする。いや、口調だけじゃない。視線も、態度も、何もかもだ。


「……るせぇな。ショウタには関係ねぇだろ」


 成瀬くんが体側にある右手を強く握っている。プルプル震えるそれの中で、爪が掌に刺さっているであろうくらいに。


「私の時は、そういうことしなかったのにね」

「は?」

「そうやって、同じような恰好するの嫌だったじゃない」

「……あぁ、あの。これはたまたまなんです。合わせた訳じゃないんですよ」


 彼らの関係性は知らないが、次第に苛々してきた私は、思いっきり笑顔でそう割って入った。睨みつけるわけじゃない。ただニコニコした顔を維持して、彼らに対峙している。


「そう。あなたも気を付けてね。この男、直ぐにキレるから」


 さっきまで幸せそうだなぁって、少し羨んでいた妊婦が、私に冷たい目でそう言った。直ぐにキレる?成瀬くんはそんなことしない。一体何なんだ。


「私、今でも許してないからね。文人」

「……分かってるよ、分かってる」

「成瀬。俺もお前を許さないからな」

「は?ショウタはそうやって言える立場かよ」


 成瀬くんの右手が、またギュッと握られた。何だか分からないけれど、一食触発の雰囲気が漂い始めている。これはダメだ。私はサッと成瀬くんのその手を握った。


、行こう」

「あなたも。早く別れた方が良いわ、こんな男」

「……ご忠告、有難うございます。でも私は困っていませんし、それに私たち幸せなので大丈夫ですよ。ご心配いただいたのに、すみません」


 一度彼の手を離して、きちんと頭を下げた。私まで怒りを表す必要はない。だけれども、どうしても一言言ってやりたくなった。


「そろそろご出産ですか?」

「えぇ。年明けには生まれるの」

「そうですか。きっと可愛いんでしょうね。でも、今の言葉、聞こえてるんじゃないかな。ママのそんな気持ち、聞くのは辛いと思う。だからあんな言い方はしないで、互いに未来を見ましょう。お気を付けてね。元気な赤ちゃんが生まれますように。それでは」


 またニッコリ微笑んでから、深々と頭を下げる。それから成瀬くんの手を取って、わざとらしく、「文人くん、行こう」と歩き出した。とにかく、あの二人から離れることだけを目標に。成瀬くんは何も言わない。黙ったまま、私と一緒に歩き始めた。


 あの二人は誰だったんだろう。どうしてあんな風に、彼を責めたんだろう。余計なことを言ってしまっただろうか。いや。それでも私は、あの言い方が気に入らなかった。素通り出来ない程の因縁があるのかも知れないが、もういい大人だ。睨みつけるのは仕方ないとしても、素通り出来ないのか。そう私は苛つきながら、どこか冷静に彼らの正体を分析し始めていた。彼女の話からして、多分成瀬くんの元カノ。その夫だと思った彼は、きっと成瀬くんの友人だろう。勝手に結論付けた時には、もう、私は彼の手を引いて、ぐんぐん先に進んでしまっていた。

 しまった、と彼を見たが、成瀬くんは何も言わない。下を向いたまま、苛立って泣きそうなくらい、目元を赤くしていた。全く関係のない私でも、こんなに苛ついているんだ。彼はもっと、内に秘めた何かが沸騰していることだろう。私はそのまま彼の手を引いて、真っ直ぐに歩いた。先日成瀬くんと一度別れた丁字路を通り過ぎ、辿り着いたのは私の部屋。今にも泣きそうな大人の男を、公衆の面前に晒しては置けなかったのである。マンションに入っても、彼は何も言わなかった。気持ちが混乱しているのかも知れない。


「ここ、私の家。とにかく落ち着くまでは、休もう。ね?」


 成瀬くんは頷くと、小さな声で「有難う」と言った。鍵を開け、ドアを開ける。彼を先に押し込んで、私は扉を閉めた。冬風が隙間からひゅうッと入り込む。辺りはいつの間にか、陽が落ち始めていた。靴を脱がずに佇んだままの彼の背に、そっと両手を置く。


「温かい物淹れようか。紅茶とコーヒー、どっちがっ……」


 赤く生気のない目をした成瀬くんが振り向くと、唇が私のそれと重なった。何が起きているのか分からない。ただ彼は両手で私の頰を包み込み、唇を重ねている。バクバク言い始めた心臓の音で我に返った私は、彼を静かに突き離した。


「とにかく上がって。ね?」


 何でそんなことするの?なんて野暮なことは聞かない。あんな物、愛でも恋でもないのだ。ただ寂しさを埋める術。誰かが傍にいることを確認したに過ぎない。彼を部屋の奥にある小上がりの縁に座らせて、湯を沸かし始める。インスタントコーヒーの瓶へ伸ばした手が震えている。そっとそれを戻し、コーヒー豆の瓶を取り直した。ゆっくり、これを落とそう。その間に、先ずは私が落ち着かなければ。

 薬缶から出る湯気を眺めるふりをして、成瀬くんに目をやる。彼は何だか放心状態で、ただ空を眺めているようだった。もしかしたら、さっきのキスも覚えていないかも知れない。そんなのは構わないけれど、私の動揺はどうにかしなければ。カップを手に取り、それを温める。とにかくゆっくり。落ち着け、と自分に言い聞かせながら。


「コーヒー淹れたよ。こっちに来られる?」


 成瀬くんに声を掛けるが、彼は微動だにしない。カフェテーブルにコーヒーを置くと、私は彼の前に立った。


「大丈夫?何があったかなんて、私に話さなくていいよ。だから、落ち着くまで一緒に居よう。ね?コーヒー、温かいうちに飲もう?」


 座ったままの成瀬くんを覗き込もうとすると、彼は私に抱きついた。成瀬くんが、微かに震えている。その頭を、私はそっと撫でた。大丈夫だよ、と言いながら。


「陽さん……」

「ん、なぁに?」

「僕のこと嫌いになった?最低な奴だって知って、軽蔑した?」


 私の知らない成瀬くんが、そこに居た。叱られた子供のような目で、彼は私を見上げる。彼は過去を知られたくなかったのだろう。どうにか知られないように、隠してきたのかも知れない。


「そんなことないよ。誰でも知られたくない過去はあるし。それに、私の知ってる成瀬くんは、とっても優しいよ。だから、私にはそれだけでいい。過去は過去よ」

「陽さん……」


 成瀬くんのまだ赤い目は、さっきよりも意志のある瞳でこっちを見ている。そして立ち上がりながら、私のシャツの中に手を伸ばすと、また唇が重なった。

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