第二話 私の知らない成瀬くん(上)
「あ、緋菜ちゃん」
今は十一時を少し回ったところ。待ち合わせ場所で、成瀬くんをボォッと待っている私の携帯が鳴った。緋菜ちゃんからだった。急に何の説明もなく、『料理出来る?出来たら教えて』と書かれている。何があったのか。いや、多分あの子の思い付きだろう。
彼女の凄いと思う所は、やりたいと思ったら早めに行動が出来ること。私みたいに、うじうじ悩み込むことは、多分あまりない。
「教えるのは良いけど、何が良いだろうなぁ」
一人で壁にもたれ掛かりながら、ブツブツ言っている。周りから見たら変な人だろうな。自覚はあるが、あまり気にしていない。
彼との待ち合わせは十一時半。早めに家を出て来たのは、成瀬くんはギリギリには来ない気がしたから。それと家に一人きりで、居たくなかった。
昨夜、急に征嗣さんが家に来たのは想定外だった。私が昌平くんと喫茶店に居る所と見たらしく、顔を合わせた時には既に苛ついていた。あの喫茶店で珈琲豆を買って帰ろうとしたらしい彼は、店内に居た私たちを見つけてしまったのだ。あぁ良く考えたら、あの店を征嗣さんに教えたのは私。彼が来るかも知れないことを、念頭に入れていなければいけなかったのに。体中が悲鳴を上げている。あの人を騙したわけじゃないけれど、それと同罪だと言われた。どうしてこんなことになったのか。
「そうだ。出汁の取り方を覚えたら、面白く感じるかしら」
本当は、心の中もズタズタだ。それでも顔だけは笑っている。このまま続くと危ないだろうが、今はそうすることで平静を保っているようなものだった。忘れていられる時間が欲しくて、成瀬くんを食事後に散歩に誘ってみた。一人でもそれくらい出来るが、それではずっと頭の中で征嗣さんとのことが延々と回っている。成瀬くんが居てくれたら、きっと笑っていられる気がしたのだ。
彼との電話を終えると、鏡の前で着ていたワンピースを脱ぎ捨てた。情けない体。溜息しか出なかった。直ぐにシャツとスウェットを着て、穿いたのはスキニーパンツ。髪は低めにクルッと丸めて、あまり掛けない眼鏡を手に取った。上着は、軽くて暖かいボアコート。いつもと同じような格好では、気持ちが前に向かないから。違うテイストの服ばかりをチョイスしていた。
「陽、さん?」
「あぁ成瀬くん。こんにちは」
「あぁ良かった。お待たせしてすみません。何かちょっと違う感じだったから、少し悩んだよ」
そう言う成瀬くんも、何だか雰囲気が違う。いつものようにジャケットではないからか。とてもラフな格好だった。靴もスニーカーだし。それに……
「同じようなの着て来たね、僕たち」
「そうみたい、だね」
互いに顔を見合わせて、嘘くさい笑みを浮かべる。軽くて暖かいからと選んだボアコート。彼は同じようなボアのジップアップフーディを着ていた。
「何か照れるね。お散歩なら、スニーカーの方がいいかなって選び直した結果だったんだけど」
「私も軽い方がいいかって。まぁ意外と好みが合った、ってことで」
「そうだね」
「じゃ、お昼食べに行こう」
私たちは並んで歩いた。同じような上着を着て。征嗣さんなら有り得ないことに、ちょっと可笑しい。
今は普通にしてくれているが、昨夜、成瀬くんは何度も電話をくれた。勿論出られる状況にはなかったから、今朝掛け直したのだけれど。絶対に仕事だとは思ってないだろうな、と察している。
今日待ち合わせをしたのは、不忍池の畔ではなく、西郷隆盛像の辺り。理由は簡単だ。こっちの方が飲食店が近い、ということである。待ち合わせ場所の変更をして、時間も伝えて。今朝の電話など、ほとんどが事務的な連絡。それでも彼は、何も言わなかった。深入りしないのが大人のマナーだからだろうか。
「陽さん、誘ってくれて有難うね」
「え?誘ってくれたのは成瀬くんじゃない。まぁ、昨日が緊急事態だったからだろうけど」
「あぁ、いや。違うよ。散歩」
「散歩?そんなにお礼を言われることでもないよ」
それはそうだ。自分の気分転換の為に、彼を付き合わせるのだから。礼を言わなければいけないのは、間違いなく自分である。
「一人で歩いたりもするんだけど。そうするとさ、運動になったなっていう爽快感よりも、内に悶々と問い掛けちゃって。結局気分転換にならなかったりしない?」
「へ、あぁそうだよねぇ」
「だから、誰かと歩けるって嬉しいなって思って。有難うね」
成瀬くんはニコッと微笑み掛ける。まさに同じような理由であなたを誘いました、とは言えるわけもなく。いえいえ、なんて答えて、私はその場をやり過ごしていた。
それにしても彼は、こうして丁寧に感謝を伝えてくれる。やっぱり彼みたいな人は、幸せな家庭が良く似合うんだよな。こういう優しさが、征嗣さんに少しでもあったなら……まぁ私たちの関係など、すでに崩壊しているはずだ。
私たちは近くのイタリアンに入ると、テーブル席で向かい合った。家族連れ、カップル、女の子たち。周りに座った人たちに視線をやってから見た成瀬くんは、何だか浮かなそうな顔をしているように見えた。
「ねぇ、成瀬くんって今日は何か用事ある?」
「いや、何もないけど」
「じゃあさぁ」
私はドリンクメニューのワインのページを、スッと彼に差し出した。彼も何かを抱えているのかも知れない。それならば、私と同じ。休みの日に昼間から飲んだって、誰にも咎められやしないんだから。
「いいね。ワインにしよっか」
「やった。そうしたら食べる物も変わるね」
「ピッツァとパスタとか分ける?」
「お、良い提案です」
ようやく笑顔に戻った成瀬くんにホッとして、二人でメニューを覗き込む。ビスマルクとチーズクリームのニョッキ、それから前菜の盛り合わせとカルパッチョ。昼間から完全に飲むスイッチの入った私たちは、しっかり歩けばいいよね、と確認をし合って笑った。
「一先ずは乾杯」
スパークリングワインを持ち上げながら、私はようやく作戦会議で集まったことを思い出した。自分の憂さ晴らしではないし、ただの飲み会でもない。緋菜ちゃんと昌平くんの未来の為に、私たちは集まったんだった。
「昨日は驚いたね。学校は大丈夫だった?」
「何とか学生の体で乗り切った。ギリギリ見えなくもない、と思って」
「あぁ、それは大学の良い所かもね。僕の会社に来られたら、完全に浮くもん。それで色々話して、年末のこと決めて来たって感じ?」
「そうそう。何とか昌平くんの特技をアピール出来るように、って考えて。でも成瀬くんには、先に言っておけば良かったよ。二人も誘導していくなんて緊張しちゃって」
昨夜の私の導きは、酷くドギマギしていた。自分の部屋を提供するのは別に構わなかったのだけど、温泉に行きたいと言い出した緋菜ちゃんの熱意に負けてしまいそうだった。宿も取れないだろうし、混んでるし。もしかすると大きかったのは、寝袋かも知れない。あの子が目を輝かせた時、私は本当に安堵に胸を撫で下ろした。
「温泉はダメって、陽さんがあまりに強く言うからさ。何かあるのかって考えちゃった。でも、最終的にはそういうことね、って思えたけど」
「だって……冬の温泉なんて魅惑でしかないじゃない。私だって、本当は行きたかったもん、温泉」
「じゃあさ、今度行こうよ」
「ん?……そうだね」
急に笑顔でそんなことを言うから、ドキッとしてしまったじゃないか。四人でという意味だろうに、二人で行こうと言われたのかと思った。あぁ、こういうことへの免疫が低下しているんだ。気不味さからカルパッチョに手を伸ばす。十二月の食材はブリらしい。なるほど。これは家でも作れるかも知れないな。変に自分の中に湧いて出た緊張感を、目の前の食事に紛らわせていた。
「あの二人、陽さんはどう思う?僕は、そこそこすんなりと行くんじゃないかなって、思ってるんだけど」
「そうだね。ただ心配なのは、緋菜ちゃんが気紛れって言うか……こう、思い付きで行動することがあるから。それで大分左右されるかなぁって」
彼女は思い立ったら即行動するタイプだ。こちらが迷っている間に、二歩でも三歩でも進んでしまう。昌平くんもその辺は理解しているだろうから、彼とも上手く相談をしていかなければいけないな。
「あぁ確かに。緋菜ちゃん、突発的に行動しそうだからなぁ。でも昌平くんとは、陽さんはタッグを組んだ形になってるんだよね?」
「そうだね。サポートするって話した。だから年末もね、彼にこうしたらいいんじゃない?って耳打ちしておこうかなって。ほら、買い忘れを買って来てもらうとかさ」
「いいねぇ」
それぞれがそのシチュエーションを想像しながら、ワインを飲む。明るい時間から大っぴらに飲めるって、本当に幸せだ。つい、「美味しいな」って呟いちゃって、成瀬くんに笑われると、もう話は進まない。笑いながら食事をし、最近の文具の話なんかも聞いて、ただの休日のランチになった。
作戦会議。そんな重々しい名前で呼び合っているが、こうして美味しいご飯を笑いながら食べる口実でしかないような気がし始めた。彼はどうか分からないけれど、少なからず私の中では。緋菜ちゃんや昌平くんよりも年の近い成瀬くん。彼は、本当に友人と呼べる人のような気がしていた。
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