第四話 僕の予感(下)
「今日は有難うございました。貴重なご意見を頂戴しましたので、社内で話し合ってみたいと思います」
学生の意見は機能性も然ることながら、やはり外観についてが多いように見受けられた。特に色は興味深かった。僕らが想像するような可愛らしさよりも、どちらかと言えば主張の少ない色を好んでいるように見られた。他の色と喧嘩をしない色。どの色とも仲良しな色。そう書かれた付箋を僕らは不思議に眺めていた。
これはとても大きな材料となる。多分先輩も、手応えがあったのだろう。僕の背中をポンと叩いて、微笑む。何だか会社では見せないような顔なのは、ここが学校という場所だからかも知れないな。片付けをしている僕らに挨拶をして、学生がばらばらと帰って行く。バイトの時間を気にして駆け出す子、デートだと言う子もいて、微笑ましい。思い出さないようにしていた時代が、妙に鮮明に思い出せて笑ってしまう。
「就職課のマナー講座は受けたみたいだけれど、確かまた別のもあったよね?そっちも受けて見たらどうだい?」
教授は先程の女子学生と、また就職の話をしているようだった。彼女は真剣に教授を見て、それからポンと手を叩いた。
「あ、ヒナちゃんに聞いたでしょう」
「ヒナちゃん?」
「ほら就職課の」
何だかジェスチャーを始めた彼女は、ほらほら、と言いながら髪の毛のウェーブを示している。多分、下の名前しか知らない学生と、下の名前を知らない先生の構図。何だか微笑ましい。小山田教授は学生からも好かれているようだし、面倒見も良いのだろう。自分が学生の頃に感じてた教授との距離感よりも、ずっと近い感じがする。
「あぁ、オガワさん。そう彼女にマナー講座のリストを貰ってね。他の講座の資料も付けてくれていたから、ね。バレちゃったか」
「バレますよ。先生が就職課の情報を知ってるわけがない」
女子学生がケラケラ笑うと、バツが悪そうに教授も笑って見せた。就職課のオガワさんという女性が、気を利かせて資料を寄越して、それが役立ったというわけか。そういう気遣いって大事だよなぁ。片付けをしながら、僕は勝手にそう感じていた。
「付箋、ジャンル別に分けてくれて助かりましたね。ミーティングは、帰ってからします?」
「いや、週明けで良いよ。元々ここまで順調に終える予定でじゃなかったし、他の奴らも別件やってるだろう。今日は、直帰していいよ。俺も帰るから」
「本当ですか。やった」
子供のように喜んでしまってから、少し恥ずかしくなる。喜んだところで、何の予定もないのに。ここのところ、今日の為に教授の著書を読んだり、色々勉強をしていた。それだからか、何だかリラックスできていない気がするのだ。
この間、ヒナちゃんに会った時も、話をうまく聞いてやれなかった。昌平くんと猫カフェに行くと言ってくれたのに。それにあの時は、陽さんのあの件も何処かで考えていて、何だかそれどころじゃなかったんだ。悪いことをしたな。今更思っても仕方ないが、何だか申し訳ない。あの店に行ったら会えるだろうか。ちょっと謝っておきたい。
「珍しいな。そんな喜んで」
「いや、実はずっと本読んでたから、ちゃんと休めてないんですよね」
小声で先輩に囁くと、なるほどな、と笑われた。自分が専攻していたジャンル以外の物って、興味はあるけれど、やはり理解するには時間が必要だった。頭の中で噛み砕くのに、遠回りしてしまうのだろう。それと、そもそもの興味が薄い。あまり大きな声では言えないけれど。
「今日は有難うございました。学生たちも楽しかったようです。まぁ好きかって言っていただけでしょうが。お役に立ちましたかね」
学生たちを見送った教授が、僕らの元へやって来た。それもとても申し訳なさそうに、頭を掻きながら。
「とんでもない。やはり社内で話す内容とは、違う意見が出ますよね。参考になります。教授もお時間いただいてすみませんでした」
「いやぁ、僕は良いんだよ。ちょうどね、就活に行き詰ってる子が居たからね。その指導も出来たし。有難う」
教授が急に首を垂れるから、僕らは「それはこちらの言うことです」と慌てて頭を下げた。前振り通り、穏やかで優しい人である。きっと、こういう人の奥さんは幸せなんだろうなぁ。
「皆さんは一度会社に戻られるんですか?」
「いえ、今日はこのまま」
「そうですか。たまにはいいですよね、早い時間に帰れるのも。僕も終わりにして、帰るんです。今日は娘の誕生日なんですよ」
「そうでしたか。では早く帰らないといけないですね。おいくつになられたんですか」
三人で階段を降りながら、先輩は教授との会話を滑らかにこなした。彼も二児の父親である。僕よりもずっと、家庭的な話は上手い。
「今日で三つ。こんな年でお恥ずかしいですけれどね」
「そうでしたか。可愛い盛りですね」
「そうなんですよ」
僕は彼らの話に聞き耳を立てながら、一人で計算をしていた。僕と同じくらいの奥さん、子供は三つ。教授は四十代後半という所だろうから、と下世話な話である。
「では、本日は有難うございました」
「こちらこそ。何かまたお役に立てることがあったら、いつでも連絡ください。僕で良ければ、相談に乗りますから」
「助かります。有難うございました」
また三人で頭を下げ、では、と僕らは門の方へ向き直った。そして一歩足を踏み出した時、僕の目の前に見知った顔が現れる。あっ、とつい声を上げて立ち止まると、彼女もそれに気付いて足を止めた。
「え……なる」
「あぁ、小川さん。この間は有難うね。こちらはその文具メーカーの方だよ。あれ?君たち知り合いだった?」
「いや、人違いかと思います。メーカーの方でしたら、今後お世話になるかも知れませんので宜しいでしょうか。就職課の小川と申します」
仰々しくポケットから名刺をした彼女、小川陽。僕の知っている『小川さん』で間違っていないと思うが、彼女は僕を知らない振りをする。何だか分からないけれど、乗っておいた方が良いか。
「すみません。知り合いと、とても良く似ていたので。成瀬と申します」
僕が彼女に名刺を差し出すと、成瀬さんですね、と確認をしながら陽さんは受け取った。それ僕の二枚目の名刺だよね?と頭の中では、苛立ちに近いクエスチョンマークが並んだ。何も知らない先輩も同じように名刺を出し、挨拶を始める。それは普通の大人のやり取りだ。これは一体どういうことか。
彼らの名刺交換を横目で見ながら、僕の中で色々な単語が動き回っている。学校で働いている陽さん。学生が言っていた、ヒナちゃん。就職課。オガワさん……。僕は何故気付かなかったんだろう。学校で働いているのは教師だけではないのに。
「そうだ、小川さん。うちのゼミの子が、講座の案内貰いに行くだろうから宜しく頼むよ」
「了解しました」
ドクン、と脈が鳴った。
教授の目線。陽さんの表情。それから、彼女の携帯画面の『せいじさん』……。全ての点が凄い勢いで繋がっていく。吐き気がする程の速度で。
「では、我々はこれで失礼します。教授、またご連絡致しますので宜しくお願いします。娘さんのお誕生日おめでとうございます」
「あぁ、有難うね。それでは」
さっきと変わらない穏やかな顔で、教授は先輩の言葉を受け取る。その隣にポツンと佇んだ陽さんもまた、一つも表情を変えなかった。きっと僕の作り笑いの方が下手糞だろう。バクバク言い出した心臓が出て来そうだった。駅へ向かいながら先輩とアレコレ笑い話をするが、一つも心は笑っていない。パニックになりながら結び付けた点を、もう一度確認しているのだ。
「あ、僕歩いて帰るので」
「おぉ若いな。今日はお疲れ。ゆっくり休めよ」
「はい。ではまた来週。お疲れ様でした」
御茶ノ水から中野に帰る先輩を見送り、僕は表情を消した。何故だか僕は怒りに満ち溢れていたのだ。学生の言う『ヒナちゃん』を分からない振りをして。娘の誕生日を祝う良い父親を見せびらかして。教授は一つも優しくて穏やかな人ではないじゃないか。
きっと僕の予感は当たっている。直ぐに携帯を取り出し、メッセージを送った。『今夜会えますか』と。
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