第二話 新しい私
「緋菜ちゃん、お誕生日楽しかった?」
「そうだね、楽しかった。あ、でも彼氏と別れちゃった」
「え?ええっ」
帰り支度をしながら、私はあっさりと職場でそう言った。こんな風に言えたのは、初めてだろうと思う。予想外のことを言われた方は目を丸くしたが、私は不思議と別れたことについてセンチメンタルな思いはなかった。
「何があったのよ、急に」
「そうだなぁ。何もなかったのかも知れない」
「何よ、それ。まぁ緋菜ちゃんはまだ若いし、綺麗だし、次なんてすぐ見つかるわよ。それに慌てることもない」
彼女はそう言うと、私なんて、と話を続ける。これはいつものことだ。私なんて早くに結婚しちゃったから、遊べなかったのよね。緋菜ちゃんくらいの時には、もう子供がいたし。聞き飽きたその話は、多分店を出るまで続くだろう。彼女にとって、相手の反応は関係ない。そして最後に、子供は可愛いんだけどね、で終わるのだ。
「まぁ、子供は可愛いんだけどね」
「ならいいじゃないですか」
ほら、いつもの流れ。これをニコニコ聞いてあげる余裕は、私にも出来るようになった。もっと若い頃は、面倒だな、と完全に表情に出ていたのだが。
「でもさ、緋菜ちゃん。凄くスッキリした顔してるね」
「そうですか?」
「うん。きっと緋菜ちゃんには、いらない男だったのね。その彼は」
「いらない男かぁ。そうかも知れない」
ケラケラ笑って、お疲れ、と彼女は手を振って帰って行った。保育園の迎え時間が迫っているのだろう。徐々に速度を上げて、小さくなっていった。
いらない男、か。確かにそうだったのかも知れないな。多少の感謝はしているけれど、冷静になってみれば、結婚生活のイメージは湧いてこない。それまでの相手だったのだろう。あぁでも、別れ際に彼が言ったこと。今となっては、大事な指摘をしてもらった、と思い始めている。これから、私は変わるんだ。あんな男って笑い飛ばせるように、良い女になる。偶然にも、陽さんと出会って。それから、昌平や成瀬くんとも、今まで以上に仲良くなった気がする。それも感謝しなくちゃいけないか。
「まぁ、良いこともあったな」
よし、今日はイカフライを食べに行こう。昨日、一昨日はカップ麺で済ませてしまったから。『今日来る?』と昌平に入れて、私はサクサクと歩を進めた。
昌平と私は、ぼちぼちメッセージのやり取りをしている。今まで話したことのないような話をして、好きなバンドが同じだったことで、テンションが上がった。だって、あの曲がいいよね、とか、他の人とはなかなか出来ないようなマニアックな話は、本当のファンとしか出来ないから。まぁ昌平とだったら、ライブに一緒に行ってもいいな。口は悪いけど、料理は出来るし、まぁ優しい。友人には最適な奴だな、と思っている。
「こんばんは」
「おぉ、いらっしゃい。何飲む?檸檬サワー?」
「うん。あとイカフライね」
「はいよ」
カウンターに座って、ふぅと息を吐く。握ったままの携帯には、まだ昌平からの返事は来ていない。忙しいのかな、と呟いてから、さっきの同僚を思い出す。お迎えの人たちが多いのかも知れない。まぁ別に、昌平が居なくとも、イカフライは美味しいからどうでもいいか。
昨日も、一昨日も、私の夕飯はカップ麺だった。料理は出来ないから仕方ないが、理由は別にあった。部屋中の掃除を始めたのだ。日曜に帰ってからスッキリしたくなって、ちょっと玄関の靴を片付けたのが最初。靴箱の上を拭いて、適当に綺麗な物を並べて。そうしたら、今度は床が気になって。キッチンもリビングも、一通り掃除してみたのである。
普通の人なら、何てことのないルーティンかも知れないが、私にとっては大仕事だった。というのも、細かな場所の掃除などしたことがないのだ。時折来る母が、行き届かない場所は掃除をしてくれる。私がしているのは、洗濯と見える場所の片付け程度。それも、美しいとは言えない片付けである。そんな私が一通り掃除をしたのだから、今日は自分を褒めてやりたかった。頑張ったご褒美に、イカフライを食べに来たのだ。
「お、昌平」
檸檬サワーに口を付け始めると、携帯が鳴る。『もう少しで行くよ』と、昌平からのメッセージだ。別に会いたいわけではないが、バンドの話とか行きたい猫カフェの話とかはしたい。だから、『じゃあカウンターで待ってる』とだけ送り返した。あぁ、今日の酒は何だか美味い。先週末に無理言って連休を貰ってしまったから、来週月曜までは連勤。それでも心は晴れていた。
「あれ、成瀬くん」
「緋菜ちゃん、お疲れ様」
「お疲れ様、もう帰るの?早くない?」
店の奥の方から成瀬くんが、分厚い本を抱えてやって来る。会計を終えて帰る所のうようだ。いつもならこの時間位に来る彼が、もう帰ろうとしている。何だかキョロキョロしながら店内を見渡しているが、今見た所、私の知った顔はなかった。
「あぁ、ちょっと勉強しないといけなくてね」
「そうなんだぁ。何か難しそうな本だね」
「うん。僕の専攻とは違うから、ちゃんと下調べしたくって」
何だか元気のない彼は、少し目を伏せがちに言った。どうしたんだろう。
「何か疲れてる?大丈夫?」
「へ?あぁ、そんなことないよ。ほら、難しい本読んでたからね。ちょっと疲れちゃったんだ」
へへッと笑った彼は、いつもと同じ顔。別に心配する程でもないのかな。あんな分厚い本を読んでたら、確かに疲れるだろうし。私なんか、読む気にもならない。
「今日は一人?」
「ん?もう少ししたら昌平が来るよ」
「昌平くん。そうかぁ……」
彼はそう言うと、チラチラと時計に目をやる。昌平を待つかどうするか、悩んでいるのだろう。
「そうだ。今度ね、昌平と猫カフェに行くんだ」
「へぇ、仲良しだね」
「そう言うわけじゃないんだけど、陽さんよりは休みを合わせやすいからさ」
「そう、かぁ」
何だか一瞬、表情が曇ったような気がした。成瀬くんも一緒に行きたかったのかな。でも、彼の休みは週末だろうし、時間を合わせるのは陽さんよりも難しい。
「今日はやっぱり、帰るね。昌平くんによろしく」
「あぁ、うん。またね」
「おやすみ」
そう言って成瀬くんは、頼りなさそうな笑顔と作って手を振った。何だか元気がない気がする。一緒に行きたかったのかな。誘えば良かったのかな。いや、言わなきゃ良かったのか。
「うぅん……」
腕組みをして考える。誰かの気持ちを考えるのは、本当に難しい。
「はいよ、イカフライ」
「わぁ」
目の前に出されたそれを見ながら、やっぱり成瀬くんが気になった。イカフライは美味しい。美味しいけれど、成瀬くんのあの元気のない笑顔が気になる。
「うぅん……」
「何考え込んでんだよ」
「お、昌平じゃん。お疲れ」
「お疲れ。おじさん、ビールとモツ煮」
ひょっこり顔を覗かせた昌平が、私の横に座る。コイツは別に、いつも通りだ。
「何か悩み事?」
「いや、今ね。成瀬くんが居たんだけど、何か元気なくって。昌平と猫カフェに行くんだって言ったからかなぁって。一緒に行きたかったのかな」
「成瀬くん……か。そっか」
「ほら、陽さんも基本的には週末休みみたいだし、成瀬くんもでしょう?そうなると、なかなか休みが合わないじゃん。やっぱり、行きたかったのかなぁ」
檸檬サワーを持ち上げると、昌平にビールが届く。二人で乾杯をして飲み始めたが、私は成瀬くんのことが気になったまま。言わなきゃ良かった。誘われなかったのって、寂しいもんな。
「ねぇ、昌平。成瀬くんと陽さんも誘おうよ。猫カフェ」
「え?いや……でも休み合わないじゃん」
「あぁそうだった。今自分で言ったのに」
大きく項垂れ、カウンターに頭を付けた。
「じゃあ昌平。誘わないで良いからさ、ちょっと連絡してみてよ」
「はぁ?何て」
「いや、仕事どう?とかさ……色々あるじゃん」
「急に言うのも変だろうよ。成瀬くんだっていい大人なんだから、仕事のこととか悩みぐらいあるさ」
「そっかぁ。そういうものか」
分かったような様子を見せたが、納得出来てはいない。だってあれは、難しい本を読んだからじゃないと思う。理由は分からないけれど、とにかく引っ掛かるのだ。
「うぅん、どうしたんだろうなぁ」
「俺たちが悩んでたってしょうがねぇよ。今度会った時に聞いてみようぜ。ほら、俺は会った訳じゃないからさ。顔を見て聞いた方が良いよ」
「そうかぁ。じゃあ、今度会えたら聞いてみよう」
「ほら、モツ煮も食え」
昌平がズッとモツ煮の器を差し出す。それを頬張りながら、昌平の言うことも確かだと思った。顔を合わせて聞いた方がいい。もし猫カフェに行きたかったなら、今度四人で行こうって誘えばいい。うん、そうしよう。そしてまた、私はイカフライを頬張った。
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