第一話 私の秘密
週末は、何だか忙しかった。あんなに人と会って、笑って過ごしたのは、いつぶりだっただろう。楽しかったな。緋菜ちゃんも昌平くんも、それから成瀬くんも。皆いい子で、ちょっと素直じゃないところが可愛かった。可愛らしい妹と弟が、一度に沢山出来た気分だ。
私も友人だと言ってくれた彼らの優しさ。有難いけれど、受け止められなかった。真っ直ぐに見られると、つい背いてしまう。もういい大人なのだから、そういう所は上手くやり過ごさないとな。そう考えながら立った扉の前。この向こうに、私がこうなった原因がいる。自然に深呼吸をして、その扉をノックした。
「失礼します。就職課小川です」
「あぁ、どうぞ」
研究室に入り、軽く一礼する。今日もあの人――
「お問い合わせのあった書類、お持ちしました」
「あぁ悪かったね。僕が取りに行けば良かった」
「いえ。そこまで手間ではなかったので」
「そう?いや、悪かったよ。データ送って貰えば済んだ話だ」
彼はそう言うと、一応は苦笑いをして見せた。愛想が良いわけではない。だからこういう時でも、片頬は引き攣っている。
教授であるこの人と就職課の私。接点などないに等しい。今日はたまたま、彼が何処かの企業に協力するとかで、インターンシップのマナー講座の受講歴等の問い合わせがあった。自分のゼミの学生を参加させるのに失礼がないか云々言っていたが、多分この情報は必要ない物だろう。単なる私を呼びつけるための材料だ。
「一昨日は悪かったな」
「一昨日……まぁ、それは」
ほら、本題はこれだ。この人はこう言う人。嫌味のように言ってしまってから、急に反省をし始める。私としては、別に謝ってくれなくて構わない。寧ろ誰かに聞かれる方が、相当不味い。だからつい、キョロキョロと、彼以外いないはずの研究室を見渡した。
「別に誰も来ないさ。今日は学生も来ないだろう」
「いえ、そう言うわけには」
この階の最も奥に位置しているこの部屋は、彼に用事がない限り、足音が近付いてくることはない。聞き耳を立てていれば足音くらいは分かるだろうが、ここは学内。そういうプライベートな話をする場ではない。
「急にさ、妻が子供を連れて実家に帰ったんだ。だからさ」
「そうでしたか。こちらこそ、すみませんでした」
私が謝る必要などないことは、私自身が一番分かっている。分かっているけれど、長年の『残念な習慣』とでも言おうか。彼との力関係がハッキリしているが故の、悲しい性である。
「また、連絡入れる」
「……はい」
「あぁでもさ。お前に休みの日に遅くまで会っているような、友人が居るとは思わなかったよ」
「そう、ですよね。たまたまです」
笑って誤魔化す。あまり深く突っ込まれたくはない。面倒なことになるのは、目に見えているからだ。
「男、か」
「は?あぁ、いえ。学生時代の友人です」
ほら、始まった。自分はお偉い先生の娘と結婚をして、子供までいるくせに。私に男の影があることが気に入らない。昔からそうだった。妬いてくれるほど愛されているのだ、と思えたのはいつまでだったろう。こんなことを十年以上続けていれば、今はもう面倒なだけである。
「竹下か?それとも、田中……」
「いえ、高校時代の友人なので。先生はご存じないかと」
「そうか」
「では、仕事がありますので。失礼します」
多分納得はしていないだろう。私たちの関係など、馴れ合いだ。甘い関係ではない。不倫、と括られてしまえばそれまで。社会的に非難される関係性であることは、確かである。
「陽、そんな顔するなよ」
「いえ、仕事中ですので。もう行きますね」
どんな顔だ。無愛想だ、と言いたいのか。そんなことを言うのなら、自分だって同じじゃないか。腹が立つ。
仕事の顔を整えて、研究室を立ち去ろうとする私の右手を、急に彼が掴んだ。そうしてそのまま抱き締めると、乱暴に唇を奪う。
「やめてっ。……やめてください」
私は彼を突き放すと、下から見上げるように睨みつけた。どうしてこんなことをするの。そんなに私が誘いを断ったのが面白くなかったのか。自分は勝手に結婚をしたくせに。あの時の私の絶望を、いつまでも濁したくせに。
「すまん。悪かったよ」
心にもない謝罪をする彼に、私は苛立った表情を態と見せつける。それでもこの人は、余裕の表情。どうせ、そのまま私が甘えるとでも思っているのだろう。
「本当にやめて下さい。ここは学校です。それでは失礼します」
「いや、おい」
私はその言葉を無視して、そこを後にした。あの人が呆気にとられた顔をしていたのは、私の抵抗を初めて感じたのかも知れない。今まで見せていたはずの苛立ちが、彼には感じられていなかった。そう言うことだろう。
清算するタイミングを逃したまま、私たちは十年と少しの歳月を過ごした。今日初めて反抗をしたわけではないのだが。それらも全て、彼には感じられていなかったことなのだろう。私のことを見ているようで、見ていない。そのくせ、私が離れて行こうとすると邪魔をする。だからいつの間にか、諦めてしまったのだ。自分の幸せ、というのを。
階段を駆け下りる。こんな関係を清算出来ない自分が悔しくて、情けなくて、嫌いだ。それでも、泣きはしない。泣くのは負けだ。私はもう、それほど彼を愛してなどいない。
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